雨の降る前の空は、不穏なほど静かだ。
教室には誰もいなかった。チャイムはとっくに鳴っていたけれど、遥は席を立たなかった。誰かが忘れていった傘の骨が風に煽られてカタカタと音を立てる。その音が、なぜか心の奥に触れて、くすぶっていた何かがじわじわと痛みをはじめた。
「……なにしてんの?」
不意に聞こえた声に、遥は顔を上げた。日下部だった。いつもより表情が読めない。
「帰らないのかって聞いてんの」
「……忘れ物」
「傘?」
遥は目を伏せた。否定も肯定もしなかった。沈黙がふたりのあいだを満たす。
やがて日下部は近づいてきて、遥の机に手を置いた。ふっと、風が窓を揺らす。その音に紛れるように、彼は言った。
「……逃げてるだけだろ」
遥の背筋がわずかに揺れた。
「どうせ……このあと、また“あれ”があるんだろ。知ってるよ。あいつらの悪趣味な『ゲーム』。おまえが、“選ばれる”って、毎日決まってる」
「……っ」
遥は唇を噛んだ。指先が震えているのを、日下部は見ていた。
「それでも、おまえはここにいるんだな。壊れそうな顔して、いつも黙って。誰も助けねぇのに。おかしいよな、普通ならとっくに……」
言いかけて、言葉が止まる。
遥がこちらを見ていた。目の奥に、微かな光。諦めとも、意地とも、名づけようのない色が揺れていた。
「……それでも、“明日”があるから」
その一言に、日下部はなにも返せなかった。
雨が降り出す直前、ふたりは無言のまま、並んで教室を出た。
外はまだ、濡れていなかった。