テラーノベル
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それは、本当に一瞬の隙だった。
らんの呼吸が、ほんの少しだけ乱れた。その違和感に気づいたときには、もう遅かった。
「……や、だ」
掠れた声。閉じていたはずの瞼が震え、白い指がシーツをきつく掴む。
嫌な予感が背中を走る。
「らん? 大丈夫だよ、ここにいる」
声をかけると、彼女はゆっくりと首を振った。否定するみたいに、必死に。
「ちがう……また、くる……」
何が、と聞く前に、彼女の身体が跳ねた。
「――いやぁぁぁぁ!!」
突き刺さるような悲鳴が病室に響く。
まるで、見えない何かから逃げようとするように、らんは上体を起こし、点滴の管を引きちぎりそうな勢いで腕を振り回した。
「らん、落ち着いて! ここは病院だ!」
俺は慌ててベッドに駆け寄り、肩を押さえようとする。
けれど、その手を振りほどく力は、彼女の細い身体からは想像もできないほど強かった。
「さわらないで!! こないで!!」
涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔。焦点の合わない目が、俺を見ているはずなのに、俺を見ていない。
「いたい、いたい、いたいのやだ!!」
爪が自分の腕に食い込み、赤い線がいくつも浮かぶ。止めなきゃ、と思うのに、俺一人じゃどうにもならない。
「看護師さん! すみません、来てください!」
ナースコールを押す指が震える。その間にも、らんは自分の身体を掻きむしり、胸を叩き、必死に何かから逃れようとしていた。
「息が、できない……苦しい……!」
「大丈夫、大丈夫だ、俺がいる!」
その言葉が、彼女に届いていないのが、はっきり分かる。俺の存在ごと、この世界が彼女を追い詰めているみたいだった。ドアが開き、複数の足音がなだれ込んでくる。
「発作ですね。抑えてください!」
冷静な声。的確な指示。看護師さんたちがらんの両腕と肩を押さえる。
「やめて!! やだ!! ひとりにしないで!!」
らんの叫びは、俺の胸をえぐる。ひとりになんか、してない。してないのに。
「鎮静入れます。ご家族の方、少し下がってください」
「……っ」
拒否したい衝動を、歯を食いしばって飲み込む。俺が邪魔をして、彼女がもっと傷つくわけにはいかない。
注射器の中身が、点滴のルートに流し込まれる。
「いや……こわい……」
声が、少しずつ弱くなっていく。暴れていた身体の力が抜け、抵抗が鈍くなる。
「……やだよ……」
最後に零れたその一言が、胸に突き刺さった。
完全に意識が落ちる前に、彼女の腕がまた動き、自分の爪で皮膚を引っかこうとする。
「抑制帯つけます」
ガチャン、ガチャン、と無機質な音。両手首とベッドの柵が繋がれ、自由が奪われる。
俺は、その光景を、ただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。
薬が回りきると、らんの身体は力を失い、深く沈む。さっきまでの嵐が嘘みたいに、病室は静まり返った。
「……処置、終わりました。しばらくこのまま様子を見ます」
看護師さんの声に、曖昧に頷く。
近づいて、ベッドの脇に座る。眠るらんの頬には、涙の跡だけが残っていた。
「……ごめん」
誰に向けた言葉なのかも分からないまま、俺は呟いた。
「お疲れ様……」
ベッドですやすやと眠るらんの身体を、壊れ物に触れるような手つきで、なんとなく撫でる。
さっきまで、狂ったように叫び、自身の体さえ傷つけかねない勢いで大暴れしていたとは思えないぐらい、今は静かに寝ている。
もっとも、それは彼女の意思ではなく、点滴から流し込まれた鎮静剤によって、意識を強制的に沈められているだけなのだが。
「……っ」
ふと、パジャマの袖から覗く腕を撫でて、手が止まる。
以前にも増して、骨の感触がダイレクトに伝わってくるようになった。肉は落ち、皮膚は薄くなり、そこを走る血管が痛々しいほど青く透けている。
はぁ、なんでなんだ。
らんは、ずっとずっと頑張ってるのに。
逃げ出したくなるような痛みを伴う治療も、一進一退を繰り返して一向に治らない症状にも、歯を食いしばって耐えてるのに。
「神様、もう十分でしょう」と、空に向かって叫びたい気分だった。これ以上、この小さな身体のどこを痛めつければ気が済むんだろう。
「ひどいね、神様は」
独り言は、無機質な病室の壁に跳ね返って消える。
俺が代わってあげられればいいのに。この骨が浮き出る痛みも、呼吸の苦しさも、全部俺が引き受けられたら。そしたら、らんはまた、あの屈託のない笑顔で笑ってくれるのかな。
「らんは本当に世界で一番頑張ってるよ。…お疲れ様」
届かないと分かっていても、声をかけずにはいられない。少しでも彼女の深い眠りに、温かいものが混ざるようにと願いながら、その細い肩をそっとさする。
「……ん」
微かな声が漏れた。
薬の底から這い上がろうとするように、らんの指先がピクリと動く。無意識に俺の温もりを求めたのか、彼女は俺の腕に縋り付こうとした。
けれど、ガチャン、という冷たい金属音がそれを拒む。
ベッドの柵に固定された抑制帯が、彼女の自由を奪っていた。
「ごめんね……ごめん。もう少しだけ、我慢して」
暴れて自分を傷つけないための処置だと分かっていても、自由を奪われている彼女を見るのは胸が締め付けられる。
俺は彼女の手を優しく包み込み、抑制帯の感触を上書きするように握りしめた。
「これが外してもらえたら、好きなだけハグしようね。行きたいところ、全部行こう。だから、今はゆっくり休んで」
彼女の呼吸が再び深く、一定のリズムに戻るまで、俺はずっとその手を離さなかった。
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