それから、らんは変わってしまった。
正確に言えば、「人」じゃない。白衣だ。
抑制帯が外される日。それは、らんにとって「解放」のはずだった。
「じゃあ、今から外しますね」
若いナースが、穏やかな声でそう言った瞬間だった。
「――っ!」
らんの肩が、びくりと跳ねる。次の瞬間、まるで反射みたいに、彼女は俺の服を掴んだ。
「……いや」
小さな声。でも、はっきりとした拒絶。
「らん、大丈夫だよ。外してもらうだけだから」
そう言っても、彼女の指は離れない。むしろ、爪が食い込むほど強く掴まれる。
「こないで……」
ナースが一歩近づいた途端、らんの呼吸が乱れ始める。
「らん?」
「やだ……また、また……」
言葉にならない恐怖が、声を震わせている。目は見開かれ、完全に俺の胸元だけを見つめていた。
「点滴もないし、もう大丈夫ですよ」
悪気のないその一言が、引き金になった。
「――いやぁぁっ!!」
叫び声。
身体を起こそうとして、でもできなくて、必死にもがく。
「さわらないで!!」
ナースの手が触れる前に、らんは完全にパニックに陥っていた。
「ストップ!」
俺は思わず声を上げ、ナースとらんの間に身体を入れる。
「……少し、時間をください」
ナースは一瞬戸惑ったけれど、俺の表情を見て、静かに頷いた。
俺はすぐにらんを抱き寄せる。細い身体が、震えている。
「大丈夫。大丈夫だ。誰も、もう無理やり何かしない」
「……こわい……」
胸に顔を埋めて、子どもみたいに呟く。
「わかってる。怖かったよな」
背中をゆっくり撫でる。呼吸を合わせるみたいに、一定のリズムで。
「ここにいるのは、俺だけだ。な?」
何度も、何度も。
ようやく震えが少し落ち着いた頃、俺が代わりにナースへ声をかけた。
「俺が声をかけます。触る前に、必ず教えてください」
抑制帯は、俺の手越しに、時間をかけて外された。金属音が鳴るたび、らんは俺にしがみついたけど、俺は離れなかった。
――でも、それで終わりじゃなかった。
翌日。回診の時間。
「おはようございます、主治医の――」
白衣の医師が姿を見せた瞬間、らんの表情が凍りつく。
「……いや」
即座に、布団を握りしめる。
「今日は調子どう?」
優しい声。それでも、彼女には「あの日」の延長線にしか聞こえない。
「……やだ……」
「らん、先生は大丈夫だよ」
俺がそう言うと、らんは首を横に振る。
「しらない……」
目が、完全に怯えきっている。
医師が一歩近づく。それだけで、らんは息を詰まらせ、身体を強張らせた。
「……無理そうですね」
医師は小さく息を吐き、距離を取る。
「今日は、触診はやめましょう。話だけで」
それでも、らんは落ち着かない。
俺の腕に、必死にしがみついている。
「元貴……いかないで……」
「行かない。どこにも行かない」
俺はそのまま、彼女を抱きしめ続けた。白衣の人間が部屋にいる間、ずっと。
それからは、毎回そうだった。ナースが来るたび、医師が来るたび、知らない足音が廊下から近づくたび。らんは、俺を探す。俺がそばにいないと、呼吸が乱れ、声が震え、世界が崩れそうになる。
だから俺は、可能な限り、彼女のそばにいた。抱きしめて、名前を呼んで、「大丈夫」を何度も繰り返した。「俺がいる」それが、彼女にとっての唯一の現実みたいだった。
夜、眠る前。
「……ねえ」
「ん?」
「元貴、いなくならない?」
不安で歪んだ声。
「いなくならないよ」
即答すると、らんは少しだけ安心したように目を閉じる。
「……よかった」
その一言が、胸を締めつける。
白衣が怖くなって、病院が怖くなって、それでも治療は続いていく。
俺にできることは、たった一つ。逃げ場になること。
誰に拒絶されても、世界が敵に見えても、この腕の中だけは、安全だと信じられるように。それが、俺の役目だった。






