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#シリアス
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授業参観という、俺の人生で最も場違いで
かつ最も誇らしい「大舞台」を終えてから数日。
事務所には少しずつ、あの温かな陽だまりをかき消すような、裏社会特有の湿った風が吹き込み始めていた。
「……兄貴。例の蛇頭会の連中ですが、最近うちのシマの端っこでチョロチョロしてるみたいっす」
和幸が苦虫を噛み潰したような顔で報告してくる。
俺はソファに深く腰掛け、ひまりが学校の図工で作ってきたという
お世辞にも上手いとは言えない歪な形の粘土細工を、壊さないよう指先で慎重に弄んでいた。
「…あいつら、ワシが授業参観で席外したんを『隙』やと思うたんか。極道の看板背負うて、狙うのがガキの通学路とは……反吐が出るわ」
口では吐き捨てるように言ったが、胸の奥には鉛を飲まされたような嫌な感触が居座っている。
本来、極道の世界の揉め事は、その中で完結させるのが筋だ。
だが蛇頭会の連中は、その「筋」を食い散らかしてのし上がってきた外道の集まり。
もし、その腐った矛先がひまりに向けられたら――
そう考えただけで、脳の芯が焼けるような殺意が沸き上がる。
「和幸。ひまりの送り迎え、明日からは車をもう一台増やせ。それと、通学路の角ごとに若い衆を配置しとけ。いいか、ひまりに気付かれんよう、不審者に見えんようにな。…一人でもヘマしたら、ワシが直々に叩き直す」
「ハッ、了解しました!」
和幸が去った後、俺は窓の外に目をやった。
夕闇が迫る街は、嵐の前の静けさのように、どこまでも不気味に静まり返っていた。
◆◇◆◇
翌朝
「……行ってくるね! おじさん」
元気な声と共に、ひまりが真新しいランドセルを揺らして玄関を出ていく。
和幸が運転する車のドアが重厚な音を立てて閉まるのを確認し、俺は深く長い溜息をついた。
それから、ひまりの前では決して吸わないと決めている煙草を、一本だけ取り出して火をつけた。
「ふぅー……。ほな、仕事の時間やな」
紫煙の向こう側で、俺の表情から「おじさん」の仮面が剥がれ落ちていく。
あの子の前では「真っ当な父親」を演じとるが、ワシの本性はそんなモンとは程遠い。
血と硝煙の匂いに塗れた、引き返せん道の住人。
俺は事務所の奥、神棚の下に誂えた隠し棚から、重厚な木箱を取り出した。
中には、幾多の修羅場を共に潜り抜け、数多の怨嗟を吸い込んできた一本の短刀が収まっている。
(お医者さん、か……)
ふと、参観日に聞いたひまりの夢が頭をよぎる。
あの子は人を救う手になりたいと言った。
対して、ワシのこの手は人を傷つけ、奪うことしか知らん。
ひまりの描く純粋な夢を守るためには、ワシがこのドス黒い裏社会に蔓延るゴミを、一匹残らず掃除しとかなあかん。
あの子が歩く道に、一片の汚れも残さぬように。
「……和幸。蛇頭会の事務所、場所は完全に割れとるな?」
戻ってきた和幸に、俺は老眼鏡を外し、鋭い眼光を剥き出しにして問いかけた。
「ハイ。……兄貴、まさか一人で行く気じゃないっすよね…?無茶っすよ」
「アホか。ワシを誰や思とんねん。『黒龍の狂刃』やぞ。…あいつらに、誰の宝もんに手ぇ出そうとしとるんか、骨の髄まで叩き込んだらなあかん」
ワシがこの稼業を退く時は、ひまりが胸を張って、その小さな手で夢を叶えられる時や。
それまでは、たとえ悪鬼羅刹と呼ばれようと、この「牙」を折るわけにはいかん。
俺は短刀を懐に深く差し込み、漆黒のジャケットを羽織った。
鏡に映る俺の目は、もはやひまりの頭を撫でる時の慈愛に満ちたものではない。
かつてこの街の裏側を震え上がらせた、冷徹極まりない「組長」のそれに戻っていた。
「……和幸、行くぞ。晩飯までには帰らんと、ひまりが腹空かせてまうからな。」
「兄貴……っ、一生ついていきますッ!!」
「やかましいわ、ボケ。感心しとる暇があったらさっさと車出せ」
事務所のドアを開けると、身を切るような冷たい夜風が吹き抜けた。
ひまりが寝る頃には、この街に蔓延る「邪魔な毒草」を一つ、根こそぎ抜いておかなあかん。
それが、ワシなりの血生臭い筋の通し方や。