空気が澄んでいる朝。
静かな海。
遥々遠くから届く鳥の声。
そして、人間の社会が動き出そうとしている微かな気配。
人間の社会と云う尊い生命の営み。
そうで或る筈なのに、
今、此の穏やかな世界に於いては許し難い存在に思えて、
私は嘔き気を催した。
「はぁ…気分が悪い…。二日酔いかな…?」
段々と人の気配が増えて来た処で私は独り言た。私に限っては全く有り得ない現象の所為にでもしてやりたい程に纏わりつく嫌悪感は、払おうにもそう上手くはいかない。
仕方無いからと私は其の場を離れる事にした。
そして人の声が聞こえ無くなる方へと海沿いに進んで行くと、
其処には一人の少年が居た。
其の少年は海の方を眺めていた。
彼が何を見ているのか、将又何も見ていないのか、私には解らない。
一つ云えるのは、
何時もの元気が見て取れないと云う事だ。
悩み事だろうか。
私も今、悩んでいる。
そうして私は彼の隣へと歩みを進めた。
「全く…探しましたよ、太宰さん。」
「ご苦労だったね。」
少しの沈黙が流れる。
「如何して…」
「嗚呼、其の事なら話さなくて良いよ。」
「何故ですか。」
「君が気にしたって如何にも成らない事だし、第一に此れは私だけの問題だからね。」
「違います!!」
「…」
「僕達、昨日から徹夜で探してたんですよ!」
嗚呼、乱歩さんは云って仕舞ったのか。
「鏡花ちゃんへの連絡が無ければ気付かない処だったんですよ…貴方が何も云わずに行って仕舞ったから!」
!
ふふ、矢っ張りあの人は良く識っている。
「其れで…私を引き戻す心算でこんな処まで?」
「はい、そうです。」
「健気だね…。理由は?」
「仲間だからです。」
「其れで?」
「仲間だから、悪の道へ堕ちて仕舞いそうな時は助け合うんです。」
「そう…。」
「何時も遅刻はするし、真面目に働く事も滅多に無い。」
「挙句の果てには仕事を抜け出して自殺しに行く事も少なくない。」
「其れでも、」
「其れでも僕達が貴方を引き戻そうとするのは、」
「皆が貴方を大切に想っているからです!!」
泣きそうな声で敦君は続けた。
「大切な仲間なんですよ…」
「共に人助けをしていた時間は間違い無く尊いものなんです…!」
「だから、探偵社の絆の中には太宰さんも居なければいけないんです…」
「其れに貴方は…!」
「僕の命の恩人です!!」
「其れだけでも素晴らしい人間なんです!!」
「僕は、此れからも貴方と共に仕事をしたい!」
「貴方と共に光の下を歩んで行きたい!」
「ねぇ、太宰さん、お願いですから、」
「戻って来て下さい…。」
なんと素敵なことだろう。
人一人連れ戻す為にそれ程の涙を流せるなんて。
私にも、そんな力が有ればどんなに良かっただろう。
然し、依然として私に涙が流れる事は無かった。
「…敦君。」
嗚呼、私はとうとう
「……御免ね。」
こうやって人を傷付けるのか。
「ッ!太宰さん!」
制止の声を振り払って私はまた海に沿って走り出す。
走る。
走って、逃げる。
涙も流せなくて、御免。
必死の言葉に、心を震わせることも出来なくて、御免なさい。
ごめんなさい…!
只管走った末に、衝動に駆られる。
「……死ななきゃ…!!」
ぜぇぜぇと肩で息をする。
こんな人間は生きていてはいけない、そう思い乍ら堤防の柵を乗り越える。
「何が『救う』だ!!ちっとも駄目じゃ無いか!!」
「ちっとも僕は!変われてなんかいないじゃ無いか!!」
「ねぇ!!織田作!!!」
何者かの悲痛な叫び声が響き渡り、其の後水面に何かが衝突する音が聞こえた。
『嗚呼、波が強い。』
冷たくも、痛くも無い。
此の罪深い者に与えられて良いのか、こんなにも穏やかな死が。
嗚呼、止めろ。
僕を引き揚げるな。
此の最高の好機を逃さぬ様に、
僕は意識を手放した。
くそッ!
何であんな雑魚相手に俺が出なきゃなんねえんだ…。
一体全体構成員のレベルは如何なってやがんだ。
此の儘だとポートマフィアが危うくなるのも時間の問題だぞ。
否、其れは拙い。
待てよ、抑々俺は幹部だ。
詰まり…何にしても俺が面倒被る羽目になんじゃねぇか!!巫山戯ん…
…?
『ねぇ!!織田作!!!』
あぁ?太宰か?
『 ダッ!!』
何だ…否、良い、もう之以上の面倒は見ねぇ…
ん?あれは、中島敦か?
……
あ”ー面倒だ。
面倒だがこうなりゃ拾ってやるしかねぇな。
太宰さん…此方に来た筈なんだけど…
途中で曲がったのか?
見失って仕舞った…!
如何しよう。取り敢えず皆に連絡しないと…。
「あ、国木田さん!」
「すみませんっ、今先刻太宰さんを見つけたんですが…」
「…え?乱歩さんから話?」
「…はい、直ぐに行きます。」
此処は何処だ。
一面に、闇黒の空間が広げられている。
余りの暗さに私の身体は目に映らない。
然し私の眼前には。
其処には、一人の少年と赤毛の男が居た。
『ねぇ、織田作。』
『何だ。』
『僕も其処に行きたいよ。』
『之って高望みなのかなぁ……』
少年の引き攣った笑顔からは涙が溢れている。
『うん、うん、そうだよね。』
『僕は結局何も見つけられなかったし、』
『何も救う事が出来なかった。』
『僕に残ったのは大量の犯罪記録と』
『もう取り戻す事も叶わない過去の感情と思い出だけなんだ。』
『…そうか。』
『僕にはもう、如何したら良いかを悩める此れからの未来すら視る事が出来ない。』
『…絶望って、こんなに酷いものなのだね。』
『太宰。』
『…何?』
『俺はお前を信じている。』
『他の者がお前を信じなくとも』
『お前自身が自分を信じられなくとも』
『俺は必ずお前の味方で居る。』
『全てを失った其の時には屹度俺が迎えに行ってやる。』
『だが、お前には未だお前を繋ぎ止める絆が残っている。 』
『其の絆を信じて進め。』
『お前は前から解っていた筈だが、云っておく。』
『俺はお前が社会の善へ向かっても』
『社会の悪へ向かっても』
『絆を信じて自ら歩んだ道ならば』
『お前を応援する俺は消えない。』
『だから、頑張れよ、太宰――』
待って、待ってくれ、織田作。
此処で消えて仕舞ったらもう二度と、逢えない気がしてしまう!
止めてくれ、私を、僕を置いて―――
次に目を覚ませば其処は馴染みのある医務室だった。
私の口は酸素マスクで覆われ、左腕には点滴が刺さっている。
そして右側に目をやって見れば其処には間抜けな顔をした蛞蝓。
ぐっすりお眠りなのが全く気に食わなくて鼻を摘んでやれば、其れも又間抜けな声を上げて目を覚ました。
「何だよ…起きてやがったのか。」
突然、脳裏を過ったのは。
「首領に暫く監視してろって云われたもんだからな。」
その首領が置いて行ったのであろう果物に手を付け乍ら
文句が連連と口から流れる此の相棒に、
『絆』の鱗片が視えた様な気がしたが
私は一旦目を逸らす事にした。
まだ続きます
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