テラーノベル
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火曜日の休み時間、ひかりは自分の席から、ゆっくり立ち上がった。
立ち上がる動作は、いつも通りだった。
椅子を引く音もいつも通り、ほんの少しだけ、控えめだった。
教室の女子三人組の輪は、既に教室の真ん中あたりで、緩くできあがり始めていた。
ひかりは、そっちに混ざりにいくふりフリをして、わざとその通路ではない別のほうへ、足を向けた。
別のほう、というのは。
具体的に言うと、教室の後ろのほう。
もっと言うと、エアコンの真下、廊下側の、一番端の、藤宮陽人くんの机のほう。
——「ふり」だ、ふり。
ひかりは頭の中で、自分に何度も念を押した。
これは、藤宮くんの机に行くために、歩いているのではない。
これは、教室の後ろのゴミ箱に、ボールペンのインクを、捨てに行くために歩いている。インクが切れた。本当に切れている。さっき、わざわざ最後の一滴まで書ききった。
書ききった瞬間、ひかりは自分でもぞっとした。書ききるために、なんの意味もない二重線を、ノートの隅に十センチ分くらい引いた。あの二重線は、本当になんのために引いたのか、神様にしかわからない。
たぶん、神様にもわからない。
そのインクを捨てに、ゴミ箱に行く。
これは生徒として、まったく普通の動線だ。
普通の動線です。
普通の、動線、です。
ひかりは頭の中で、もう一度、念を押した。
そして、教室の後ろの通路を歩き始めた。
歩きながら、ひかりは自分の右手の、人差し指と、親指の間に挟んだ、空っぽのボールペンを軽く握り直した。そのボールペンは、彼女の本日の一番の共犯者だった。
——ボールペンさん。
ひかりは心の中で、ボールペンにハンカチさん以来の敬称をつけた。
ボールペンさん、今日だけ本当にお願い、お願い、本当に、お願いします。
ボールペンは、何も答えなかった。
ただ空っぽの中で、軽い音だけが彼女の指の間で転がった。その音は、なんとなく、笑っているように聞こえた。
普段は、こんなに通路の歩幅を、自分でコントロールしたことはなかった。
学校一の七瀬ひかりの歩幅は、普段はもう勝手に、半歩広く出るからだ。それは、教室の七瀬ひかりの設定済みのデフォルト値だった。
ところが、今日のひかりの歩幅は。
半歩広いように見せかけて、実は最後の一歩のところだけ、少しだけ短かった。
短く、した。
わざと、した。
わざと、した、ということを、ひかりは自覚していた。
なぜなら、藤宮くんの机のちょうど一番横を、通り過ぎるときに、一旦自分の歩幅を半歩分、短くしないと——、机の上の淡い水色のハンカチを、ちゃんと視界に入れる時間が足りないからだった。
机の角から、半分はみ出していた。
朝、自分の席から見たときに、もうそれは、確認していた。
確認していて、それで、ここまで歩いてきた。
歩いてきて、机の真横の手前、半歩分、手前の地点で、ひかりは、ふと自分の足の指先が、止まろうとしていることに気づいた。
——立ち止まったら、ダメだ。
ひかりは、自分の中でハッキリ号令をかけた。
立ち止まったら、それは、もう「インクを捨てに、ゴミ箱に行く動線」では、なくなる。
「藤宮くんの机のハンカチを、わざわざ立ち止まって見にきた女子」になる。
それは、本日の一番避けたい絵だった。
ひかりの足は、号令に従って止まらなかった。
止まらなかった、のだけれど。
歩幅だけは、最後の一歩で確かに、ほんの少し短くなった。
その「短くなった一歩」を、たぶん教室で、一番ハッキリ見ていたのは。
窓側の自分の席で、頬杖をついていた、黒澤凛、だった。
凛は、自分の頬杖の手の中で、ほんの少しだけ目を伏せた。
伏せた、その瞬間、凛はたぶんこう思った。
——あ、いま、七瀬さん、ちゃんと藤宮の作戦に、引っかかった。
そして、その「引っかかった」を本来なら、凛は観察員として、淡々とメモする、はずだった。淡々とメモする、はずだったのに。
頬杖の中の指先が、メモを書くシャープペンをほんの一瞬、強く握りすぎた。
——シャープペンの芯が机の上で、パキ、と軽い音を立てて折れた。
折れた芯は、ノートの右上の何もないところに、コロン、と小さな点になって止まった。その点は、まるで凛の心臓の上に、誰かが不器用に、小さなホクロを一つ追加した、みたいだった。
凛は、その点を自分の指先で、こっそり消した。
消したのに、消えた気がしなかった。
ひかりは、藤宮くんの机の真横を通り過ぎた。
通り過ぎる、そのほんの0.2秒の間に、彼女は机の上の淡い水色のハンカチを、視界の右上にハッキリ見た。
ハンカチは、机の角から半分、はみ出していた。
朝のままだった。
ハンカチのはみ出している部分の、一番端っこ。
そこに、ごく薄くシャープペンで、何かが書かれていたような、気がした。
「気がした」だけだ。
気がした、だけなのに、ひかりの心臓は、勝手に半拍ズレた。
ハンカチに文字を書く、なんて、普通はしない。
普通はしない、のに、彼女の目には、はみ出しているハンカチの角に、何か、ごく薄い灰色の線が見えたように感じた。
それが、文字なのか、ただのシャープペンの芯が、こすれただけの汚れなのか、ひかりには、判別がつかなかった。
判別を、つけるためには、立ち止まって、もう一度、よく見なければ、ならなかった。
立ち止まったら、終わりだ。
ひかりは自分に、もう一度、号令をかけた。
そして、立ち止まらないで通り過ぎた。
通り過ぎながら、彼女は、ゴミ箱の方向をまっすぐ見ていた。
見ていた、はずだった。
教室の後ろのゴミ箱の、ちょうど、手前。
ひかりの右手の空っぽのボールペンは、ちゃんとゴミ箱の中に落とされた。落ちる音は、軽いプラスチックの普通の音だった。
普通の音、だった、のだけれど。
ひかりは、その音を聞きながら、一度、フッ、と目を伏せた。
——ボールペンさん、ありがとう。
伏せた目の奥のほうで、ひかりはもう一度、共犯者に頭を下げた。
これで、自分は教室の後ろの通路を、普通に、ふつうに、ふつうに、歩いた、女子になれた。
「インクを捨てに、ゴミ箱に行ったついでに、たまたま藤宮くんの机の、ハンカチが視界に入っただけ」。
そういうシナリオにできた。
できた、はず、だった。
なのに、ゴミ箱の前で、彼女はしばらく動けなかった。
動けなくて、ゴミ箱の隣の、机の上の、誰かが置いてたポケットミラーを、ぼんやり見つめていた。
小さな鏡には、教室の蛍光灯が四角い光になって映り込んでいた。その光のなかに、ひかりの栗色の髪の輪郭が見えた。
そこに映っている自分の顔は、教室の七瀬ひかりの、八十パーセントの顔ではなかった。
それは、たぶん淡い水色のハンカチを、本当は拾いたかった、本物のひかりの顔だった。
——拾えなかった。
ひかりは、心の中でこっそり、その文字を自分に認めた。
拾えなかった、というのは。
ハンカチを手に取れなかった、という物理の、話ではなかった。
ハンカチを拾うことで、藤宮くんにもう一度、教室で、普通に話しかけることが、できなかった、という話だった。
藤宮くんは、たぶん机の上にわざとハンカチを置いた。机の角から、半分はみ出していたのは、たぶんわざとだった。彼が、わざとそこまでお膳立てして、待ってくれていた。
待ってくれていた、ということに、ひかりは、藤宮くんの机の真横を通り過ぎる、あの0.2秒の間に全部、気づいていた。
気づいていて、それでも、立ち止まれなかった。
なぜなら。
立ち止まって、ハンカチをもう一度、手に取って、藤宮くんに何かを言ったら——、自分の口から、絶対に出てきてしまう、一番まずいセリフがあったからだった。
——「藤宮くんって、もしかして、ヨル先生ですか?」
そのセリフを自分の口から、出さないでいる自信が、今のひかりにはなかった。
「正解」には、絶対に触れない、と自分の中で決めたはずだった。土日の間、ずっと決めていたはずだった。日曜日の夜の姿見の前で、自分自身に何度も確認したはずだった。
「絶対に、バレない範囲で」。
そう、確認したはずだったのに。
藤宮くんの机の上の、淡い水色のハンカチが——、たったハンカチ一枚だけが、その「絶対に」を、教室の通路の半歩の歩幅の最後の一歩で、ぐらり、と揺らした。
それは、たぶん、ひかりにとって一番怖いことだった。
なぜなら、ひかりは、ヨル先生の一番のファンだったからだ。
一番のファンは、自分の推しの一番大事にしている前提を、自分の都合で壊してはいけない、と思っていた。
ヨル先生は、「別に、誰にも知られなくていい」と、言っている人だ。
その人のその前提を、自分のたった一回の衝動で、壊してはいけない。
——だから、立ち止まれなかった。
だから、ハンカチを拾えなかった。
だから、普通に、ふつうに、ふつうに、通り過ぎた。
そう、自分に言い聞かせる。
言い聞かせる度に、ポケットミラーの映り込みの中の自分の顔が、もう一度、ほんの少しずつ、ぼやけていった。
そのぼやけかたは、たぶん、目に涙が滲んでいた。
ひかりは、ぱっ、と目を伏せた。
伏せながら、ぐっ、と奥歯を軽く噛んだ。
教室の七瀬ひかりは、教室で絶対に泣かない。
教室の七瀬ひかりは、教室で絶対に泣くようなことにならない。
そのルールは、彼女自身が何年もかけて、自分で組み立てた、一番大事なルールだった。
そのルールを、教室の後ろのゴミ箱の前で誰にも、見られないところで、こっそり壊しそうになっている自分がいた。
——だめだ、ひかり、戻れ。
ひかりは、自分の頭の中の作戦本部に、緊急の指令を出した。
「『泣きそうな七瀬ひかり』を、教室には絶対に戻さない」
「一旦女子トイレに寄って、八十パーセントの七瀬ひかりに上書きしてから戻る」
「上書きが間に合わなかったら、保健室に行く」
作戦本部は、その指令を即座に了承した。
ひかりは、ゴミ箱の前から教室の出口のほうへ、ゆっくり歩き出した。
その途中、彼女はもう一度、藤宮くんの机の真横を、通り過ぎなければならなかった。
通り過ぎる、その、ほんの0.2秒のあいだ。
ひかりは、今度は、机の上の淡い水色のハンカチのほうを、視界の一番端、いちばん端、いちばん端のところに、ギリギリ置いた。
置いたまま、視線はまっすぐ、教室の出口のほうへ、向けたままだった。
そして、通り過ぎる最後の半歩のところで——、
ひかりの、右手の人差し指の、ごく、ごく、ごく先端だけが。
藤宮くんの机の、一番端の淡い水色のハンカチの、一番端っこの糸の、たった一本のところに——、ほんの0.1秒だけ、触れた。
それは、たぶん、教室で誰にも見えなかった。
たぶん、藤宮くん本人にも見えなかった。
ただ、教室の窓側の自分の席で、頬杖をついていた、黒澤凛だけが——、シャープペンの折れた芯の小さなホクロみたいな点のあたりを、まだ指先で、こすっていた手を、その瞬間止めた。
凛は、何も言わなかった。
ただ、自分の口の中で、誰にも聞こえない声で、こうつぶやいた。
「……『正解』には、触れないって、二人とも決めたのに」
「一番端の糸、一本だけは触っちゃうの、どうなの、それ」
つぶやきの、最後のところで、凛の声は、ほんの少しだけ震えた。
震えた、というよりも。
正確には、彼女自身の、まだ名前のついていない感情の、いちばん、いちばん、一番遠い、端っこの、糸の一本に、彼女自身の心の指先が、その瞬間、ほんの0.1秒だけ、ギリギリで触れていた。
凛は、それに気づいて、すぐにその指先を引っ込めた。
引っ込めた指先は、彼女の頬の頬杖の中に、もう一度、深く押し込まれた。
——「普通」、で、いられる間は「普通」、でいる。
凛は、もう一度、自分自身に、心の中で念を押した。
押した念押しの最後の音節を、自分の頬の内側に軽く噛み込みながら。
凛は、教室の窓の外の火曜日の普通の青空を、もう一度見た。
空は、いつもの火曜日の、普通の空だった。
普通の空だった、けれど。
たぶん、それが「普通」に見えるのは、今の自分が、まだ自分の感情に、名前をつけていない、おかげだった。
名前さえつけなければ、空はまだ普通の色をしている。
凛はそのことに、ほんの少しだけ安堵しながら——、その安堵が、たぶんいつまでも、続くものではない、ということに、まだちゃんと向き合わないことにした。
ひかりは、教室の出口を抜けた。
抜けて、廊下に出た瞬間、彼女は両手の人差し指の腹を片方ずつ、自分の目の下に軽く押し当てた。
押し当てた、人差し指の片方の指先には。
ほんの0.1秒だけ、淡い水色のハンカチの糸の一本の感触が、たぶんまだ残っていた。
残っている、はずがないのだけれど。
ひかりは、その指先を見ないようにして、もう一方の手で、ぎゅっと握り込んだ。
握り込んで、女子トイレのほうへ歩き出した。
歩きながら、彼女は、心の中で、こう、つぶやいた。
——藤宮くん、ごめんなさい。
——わたし、今日、たぶん、全部、わかっていたのに、全部、何もしなかった。
——でも、それは、たぶん、今の、わたしに、できる、一番の、誠意、だったと思います。
そして、ふと、ひかりは、もう一行、心の中に思い浮かべた。
——「貸し」のセリフ、まだ、有効ですよね。
その一行を、彼女は、自分の左手の内ポケットの上を、軽く押さえながら、頭の中で丁寧に書き写した。
内ポケットの中には、まだ白いレースのハンカチが洗いたての匂いで、静かに息をしていた。
「貸し」のセリフは、まだ終わっていない。
だから、ハンカチはまだ返さない。
それが、火曜日のひかりの、一番小さな、けれど、一番本気の決意だった。
教室の対角線が火曜日の朝、半歩ズレた。
ズレたまま、火曜日の昼休みも、たぶん近づいてくる。
その間、藤宮陽人くんは、机の上の淡い水色のハンカチがほんの0.1秒だけ、一番端の糸の一本のところで、触られたことを——、自分は、たぶん、一生気づけないんじゃないかと思っていた。
たぶん、一生気づけない、と思っていた。
ところが。
休み時間の終わりに、自分の机に戻った彼は、ハンカチの一番端っこの、糸の一本の、ほんの先端のあたりが、ほんの少しだけ内側に、よじれていることに気づいた。
ほんの少しだけ、内側によじれたその糸の一本を。
藤宮陽人は、教室の誰にも見えない位置で、指先でそっと戻してやった。
戻しながら、彼の口の端は、ほんの少しだけ上がった。
その「上がり」は、ヨルが土日の間、一度も書けなかったメロディの、最初のひと音目を、ようやく置けたときの、笑い方と——、たぶんまったく同じだった。
火曜日の三限目の予鈴が、教室に鳴り響いた。
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