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「オイどうしたんだ急に……何があった?」
部屋の中央で唖然と立ち竦む悠莉の肩に手を置き、幸人は出来る限り刺激しないよう穏やかに問い掛けた。
その小さな肩は小刻みに震えているのが、掌を通じて伝わったから。
「幸人……お兄ちゃん?」
ゆっくりと振り返る悠莉。その言い知れぬ瞳に、またしても幸人は心を奪われる。
もしかしたら既に、彼女の深層世界に囚われているのかも知れない――
「ちょっと信じられないんだけど、何よこの部屋!」
「……はい?」
その責め立てるような怒声は、引き戻される現実への言霊。
我に還った幸人は、何故悠莉が急に怒りだしたのか、それが分からず狼狽を隠せない。
「もう~信じらんない! この部屋飾りっ気ゼロ! 幸人お兄ちゃんセンスゼロ!」
悠莉は遠慮無用で罵倒し、ビシリと人差し指を幸人へと突き向けた。
理不尽な怒りを顕にしながらも、その可愛らしさは些かも失われない不思議。
「そっ……そんな事、急に言われても……」
幸人には返す言葉も無い。
つまりは幸人の部屋の、必要最低限の物しか置いていない、その閑散っぷりを悠莉は罵っているのだ。
「そうなんだよお嬢。幸人のセンスの無さには、オレも正そうとしたんだが……。アイツは『そんな物必要無い』の一点張りだからなぁ……」
悠莉の腕もとで染々と語るジュウベエは、幸人のセンスの無さを罵る彼女への同調。
「ジュウベエ、お前まで……」
唯一の理解者(理解者だと勝手に思い込んでいた)まで離れていく、もの悲しさよ。
「よく我慢出来たねこんな所で……。あのベッドなんて絶対に背中痛めちゃう……」
それは人一人寝れる程度の、簡易パイプベッドの事を指しているのは言う迄もない。
「――って事で幸人お兄ちゃん!?」
「はいぃっ!」
再度悠莉は幸人を指差し、キリっと睨む。睨みを効かせた表情まで可愛らしいのは言う迄もないが、幸人には効果的だ。
「ホントは今すぐ替えたいけど、もう遅いし眠いから明日ね、ボクがこの部屋を“大改造”するから、ショッピングモールに連れてって!」
それは悠莉からの、“表”での買い物への御誘いだった。半強制的な。
************
――深夜。自宅外のベランダで佇む幸人の姿。
「はぁ……」
ちらりと窓越しから室内を振り返り、溜め息を吐く。既に室内は消灯していた。
パイプベッドには悠莉とジュウベエが寝息を発てている。寝る場所を事実上奪われた感のある幸人は、居たたまれなくなって外に出て来たのだ。まさか一緒に寝る訳にもいくまい。
結局の処、陽が昇ったら休院し、悠莉と共に買い物に赴く事が決まってしまった。殆ど彼女に押し切られる形だったのだが。
少し前の事――
『おお! ナイスアイデアだお嬢』
『でしょでしょ? お買い物楽しみだね~。よく考えたらボク、私物全部置いてきちゃったけど、新しく買っちゃえばいいよね~』
幸人の意向とは御構い無しに、二人はショッピングの事で盛り上がっていた。
『ちょ……ちょっと待て! そんな金、何処に有るんだ?』
二人を他所に難色を示す幸人。裏に属する彼だが、得た財蓄を私用で使う事は殆どなかった。
喩えそれが偽善であろうとも、裏で得たそれらは全て慈善活動への礎として。
つまり幸人の“表”での生活水準は、必要最低限である事。決してケチな訳ではない。
『あ! そうそう、幸人お兄ちゃんに渡しとくね』
思い出したかのように悠莉は、肩掛けの黒い小さなポーチから、ある物を取り出し幸人へと渡す。
それは預金通帳。受け渡されたそれに記された残高を一目見、幸人は驚愕に目を見開いた。
ジュウベエも興味があったのか、固まっている幸人の肩に飛び乗り、通帳を覗き込み目を丸くする。
『すげぇ……流石お嬢』
その額は普通の感覚からすれば、桁が一桁も二桁も違っていた。
そう。S級に位置する者なら、これでも“通常”水準。特に悠莉は使い道も余りなかったのだろう。躊躇する事無く、その全てを幸人へと渡したのだ。
『これは幸人お兄ちゃんが好きにしていいからね? て事で明日はレッツゴ~』
つまりはこれで、これからの全てを賄えという事。
『そっ……そんな……』
幸人に選択権は無かった――。
「ふぅ……」
夜空を見上げながら、吐いた紫煙が吐息と共に、冷たい闇夜に消えていく。
その手には尖端が橙色に灯された煙草が。
幸人はもう一度煙草をくわえ、深く吸い込み――ゆっくりと吐き出した。
冷たい空気とも相まって、それは紫煙というよりは、ほぼ白い吐息そのもの。
「煙草とは珍しいな……」
燻らせる紫煙の間隙を縫って、背後より聞こえる声。
「たまには……いいだろ?」
幸人は振り返る事なく、その声を受け流す。わざわざ確認する迄もない。
「よっ……と。別に悪いとは言ってねーよ。お前がそこまで考え込むのも珍しいと言うか、久々だと思ってな」
何時もの場所へと飛び乗り、身体を丸めるジュウベエ。その構図もつい先刻の事とはいえ、随分と久しぶりに見えるものだ。
「ふん……」
幸人は再び煙草を燻らせる。彼は決して日常的に嗜んでいる訳ではなく、ジュウベエの言葉通りそれは、幸人が考え込む時の癖みたいなものらしい。
「あの子は、もう寝たのか?」
幸人の言う『あの子』とは、勿論悠莉の事。
「ああ。お嬢は疲れたんだろうな。可愛い顔して眠ってるわ」
ジュウベエは悠莉が眠りに落ちたのを確認してから、幸人の下へと来ていた。
「脱け出すのは、ちと大変だったがな……」
彼女を起こさぬよう、己を抱き締める悠莉の腕から、そろりと脱け出し、猫とは思えぬ器用な前肢でベランダへの戸をそっと開け、後ろ足でそっと閉める。
音が聞こえなかったのは、この一連の為だ。これはジュウベエなりの、ぐっすり眠っている悠莉への配慮なのだろう。
「おぉ寒ぃ!」
深夜の肌が凍てつくような冷たさに、ジュウベエは身震いする。
出来れば早く、悠莉の温もりの下へと戻りたい。
だが悠莉の居ない、二人だけの時しか話せない事もある。
だからこそ、わざわざ温もりから脱け出してまで、外に居る幸人の下へとやって来たのだ。
――暫しの間、無言の二人。どちらからか言いあぐねている感も有るのだろう。
「全く……このお調子者め」
幸人からだ。吸いかけの煙草を、携帯用灰皿で揉み消しながら呟くそれは、ジュウベエへの責め立ての意味もある。
忘れていないのだ。これ迄の疎外感を。
「まあ、そう言うな。お前も満更じゃないだろ?」
「何処がぁ?」
ジュウベエの見越した感に、幸人は反論。だがどう見ても、言葉とは裏腹の照れ隠しにしか見えないのがまた滑稽で、声も上擦っている。
「それによ……オレは正直、嬉しくて仕方無いんだぜ? また昔のように暮らせると思うとな……」
それは何時の事を言っているのだろうか。ジュウベエも、現在と昔を重ね合わせている感が有る。
共通するは悠莉の事。
「あの子は……違う」
違うのだ。あらゆる点で類似しているとはいえ、やはり別人である事。その筈が無い――と。
「そりゃそうだ。お嬢は別人……」
それはジュウベエも同じ。
「でも、いいと思うぞ? 別人だろうが何だろうが、お嬢はもうオレにとって“家族”の一員だ」
だが別人であろうとも、家族として暮らす事に何ら問題は無い。ジュウベエが幸人に伝えたかったのは、正にその事なのだ。
「お前も素直になれや。止めている“時”をいい加減動かして、この機会に前へ進めろ」
「ジュウベエ……」
“幸人の時間は、あの時から止まったまま”
ずっと共に居た彼だからこそ、主人である幸人には前に進んで欲しいと。例え進む道は蛇の道であったとしても、一人の人間として――
「――って事で、明日は買い物だからな? 寝坊しない内にさっさと寝ろ。オレもお嬢のとこに戻るわ。おぉ寒っ!」
話はこれでおしまい。考えるより前だ。
そう有無を言わせず打ち切り、指定席から飛び降りたジュウベエは、身を震わせながら悠莉の下へと戻っていく。音を発てずに戸を開けるのは、端から見ても器用だ。
「家族……。前へ……か」
後ろ姿を見送りながら反芻し、幸人も後を追う――明日へと。
************
「…………」
悠莉を起こさないよう、抜き足差し足忍び足で部屋内に戻った幸人だが、何時もの就寝場所が占拠されている事実に変わりはない。
「すぅ……すぃ……」
だが悠莉の可愛らしい寝顔と、寝息を発てるその姿を見ると無下には出来ぬというもの。幸人は仕方無く、ソファーの方に腰を降ろす。ちゃっかり元に戻ったジュウベエの、安寧を貪る姿は引き剥がしたくなるが。
今日はこのままソファーで眠ろうと、幸人は腕組み体勢で瞼を閉じた。
短いようで永かった一日。
目が覚めたら、新たな一日が始まる。それはこれ迄に無かった、日常への変化。
御互い“裏”に属する者にとって、問題は山積みだ。
先ずは悠莉を、この日常である“表”に、上手く溶け込ませる必要がある。違和感があってはならない。
正直、自信の程はなかった。極論すれば傍迷惑――
『幸人お兄ちゃん』
だが脳裏に焼き付いたその笑顔が、難問を払拭させる。
『いい加減、前に進めや』
確かにジュウベエの言う事も一理有る。本人としても、悠莉と一緒に暮らしたい想いが、大きいのも有るだろうが。
「まあ……いいか」
誰に聞かせる訳でもなく、まるで自分に言い聞かせるよう、幸人は呟いていた。
悠莉は“彼女”とは違う――似て否なる存在。
だが、それでもいいと思った。悠莉は彼女の“代わり”でもなく、悠莉は悠莉でしかない。
前途多難になるだろうが、これからしっかりと、彼女の道を導いていこう――と。そう考えると悩むのが、馬鹿らしくなってくるのに気付く。
悩むなら、好きなだけ悩んだらいい。その先に答が在るにせよ無いにせよ、それが“生きる”という事。
受け入れたら緊張も解れ、安心もするというもの。幸人は何時の間にか、深い眠りに落ちていた。