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※幼少期・遥視点。
(言葉をまだ知らなかった――声は、震えとしてしか出せなかった)
夜が怖い、という感情がいつから芽生えたのか、もう思い出せなかった。
ただ、息を止める癖は、その頃すでに染みついていた。
泣けば殴られ、黙っていても殴られる。
正解はどこにもなかった。
「いい子にしてた?」
母の問いは、確認ではない。命令だった。
返事をしなければ、髪を掴まれて、床に押しつけられる。
頷けば、嘘をついたと怒られる。
首を横に振れば、逆らったと罵られる。
──だから、黙っていた。
だから、いつしか「言葉」が、口の中で腐っていった。
家の中には音があった。
兄たちの笑い声。父の怒鳴り声。義母の舌打ち。
けれど、遥に許された音はなかった。
ひとこと喋れば、その音が部屋を裂く。
壊れるのはいつも、自分だけだった。
ある日、リビングで転んだ。
膝がぱっくりと割れて、血が滲んだ。
泣き声が出る前に、足音が迫ってきた。
「泣くなって言っただろ?」
それは晃司だった。
何も考える間もなく、頭を殴られた。
転がるように床を這ったその拍子に、今度は机の角で肩を打った。
(痛いって、どう言えばよかった?)
叫んでも、誰も助けてくれなかった。
だから叫ばなかった。
それが正解かどうかも、遥にはわからなかった。
窓の外からは、子どもたちの笑い声がした。
砂場で遊ぶ声、自転車を押して走る音、
「いたいー!」と叫んで、それに「だいじょうぶ?」と返す声。
遥には、それが夢の国の音に思えた。
届かない、まぶしい音。
夜。
ベッドの下に潜り込むのが癖だった。
物音を聞かれないように、毛布を噛みながら、体を小さくした。
(あしたも、生きてるかな)
そう思うことに、意味はなかった。
でも、思うことだけはできた。
言葉がなかった遥にとって、それが、唯一の祈りだった。
ある日、初めて「声にならない声」を洩らした。
砂場の横。玲央菜が遊んでいた。
日下部もいた。
二人は笑っていた。仲良さそうに、なにか話していた。
遥は声をかけようとした――でも、どうすればいいかわからなかった。
「……っ」
喉がふるえて、声にならない音が洩れた瞬間、玲央菜が振り返った。
その目は、笑っていなかった。
「……なに?」
ただ、その一言だけだった。
けれど、遥の中で、なにかが崩れた。
自分には、名前も、存在も、ないんだと気づいた。
その日の夜は、いつもより痛かった。
晃司の蹴りが、骨の奥まで響いた。
父の煙草が、ほほに落ちた。
でも、遥は声を出さなかった。
(出したら、もっと壊れる)
言葉を知らなかったわけじゃない。
知っていた。ずっと前から、知っていた。
でも、自分の声で、それを使う勇気がなかった。
言葉は武器じゃなかった。
言葉は、ただの、罰だった。
──それが、遥の最初の「記憶」だった。