コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ステージ上に置かれたピアノを前に、椅子の高さを調整していると、香苗が運営スタッフと挨拶を交わしながら会場入りしてきた。ステージ脇で渡されたマイクを手に、少し不安な表情になったのを睦美は見逃さなかった。
「とりあえず、一曲目からね」
香苗がこくんと頷き返したのを確認して、睦美は鍵盤に両手を添える。他のイベントでも何度か弾いた童謡だから、香苗も歌い慣れているはずだ。
「……――……」
掠れてあまり伸びない歌声に、その場にいた誰もが驚いて振り返る。睦美も曲の半分で手を止めて、ステージ中央で茫然と立ち尽くしている香苗へと視線を送る。今、誰よりもショックを受けているのは、きっと香苗自身だ。表情が強張っているのが睦美の位置からもよく分かった。
「むっちゃん、ごめん。どうしよう……」
無理矢理に咳き込んで、声を絞り出そうとしてみるが、そんなことで改善するわけもない。会場中がざわつき始める。歌のお姉さんが歌えないなんて、洒落にもならない。「ステージは中止?」という声がどこからか聞こえてくる。ステージ袖に立っていた運営スタッフが眉を寄せ、ムッとした顔をしている。
周囲から聞こえてくる中に、「やっぱりちゃんとした事務所の人を呼べば良かったのよ」という声もあり、フリーで活動している睦美達に不安を抱いていたスタッフがいることを知る。まあ確かに、事務所に所属していればいざという時もすぐに代役の手配をしてもらえるはずだ。
焦りから顔色の変わっていく香苗に向かって、睦美は意を決して言い放った。きっと、これしかない。香苗はアラサーになって初めて出来た、大切な友達だ。彼女を守る為ならば、何だってできる。何もせずただ見ているだけなら、それは香苗一人に責任を押し付けているのと同じだ。自分達はユニット。何の為に、自分は彼女の傍にいるのか。そんなの決まってる。支え合い、助け合う為だ。
「……分かった。私もピアノを弾きながら、一緒に歌うよ」
「え?」
「ソロは無理だけど、リンリンの声が出てないのを誤魔化すくらいはできるよ、多分」
最後の多分に自信なさが漏れ出ていたが、それ以外の方法が思いつかない。ピアノだけじゃ足りない。自分も声を出さないと。
「あと、曲も変更した方がいいよね」
「そ、そうだね……ごめんね」
「いいから、謝んないで。――やっぱ、行進曲が中心になるかな。強めに弾いたら勢いで何とかなりそうだし」
これまで演奏したことのある中から、ノリの良いものを選曲していく。急に仕切り始めた睦美のことを、香苗はきょとんと驚いた表情で見ていたが、しばらくして「ふふふ」と小さな声で笑い始める。
「笑うとこじゃないのに、ごめん。でも、一人じゃなくて二人で良かったなって、今しみじみ思っちゃって」
「そうだよ、二人でやってるんだから、頼るとこはちゃんと頼って」
「ありがとう」と嬉しそうに笑うと、香苗は睦美が新たに選んで並べた楽譜を覗き込む。お揃いのツインテ―ルがゆらゆらと揺れていた。
ステージが始まり、楽譜の横にマイクスタンドを置いて、香苗と一緒に歌い始めると、観覧スペースの子供達がわっと興奮し始めた。前列でツインテールを揺らしている子達の何人かは他のコンサートでも見かけた気がする。いつもとは違う歌声に、少し驚いた顔をしていたが、すぐに歓声を上げながらその場で飛び跳ねていた。
ピアノの伴奏だけなのに、二人の声が重なったことで、歌で表現する世界がぐんと大きく広がったようだった。透明感のある香苗の声と、少しキーの高い睦美の声。個性がぶつかって新しい音が生まれたような、そんな感覚。
音符を目で追いながら、ちらりとステージ中央に視線を向けると、同じタイミングで香苗もこちらを向いた。互いに目配せし、互いの声を補い合う。そして、二人の歌声を紡ぎ出す。
気付けば子供達の何人かも一緒に歌い始めていた。声が声を呼び、この場でしか聴くことのできない歌声へと変わる。
あんなに嫌いだったピアノ弾いていて、こんなに楽しいと思ったことは無い。
彼女と出会わなければ、ずっと嫌いなままだったピアノ。睦美にとって唯一無二の友は、ステージ中央でツインテ―ルを大きく揺らしながら微笑んでいた。