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香苗の喉の調子が完全に戻った後も、ピアノのお姉さんである睦美はリンリンお姉さんと一緒に歌声を披露するようになった。
と言っても、香苗が透明感のある声でしっとりと聞かせるような曲の場合はこれまで通り、彼女の歌声をピアノの音にのせることに専念した。でも、子供達が一緒に飛び跳ねたり身体を動かしたくなるような元気な曲の時は、睦美もピアノを弾きながら歌っていくという方針になった。すると、二人の声が重なった瞬間、子供達がわっと歓声を上げて一緒に歌い出すことも多く、会場の雰囲気によってはその後の曲目を急遽変更するということも出て来た。
「今日来てくれているお友達がとーっても元気なので、次もみんなで歌える曲にしようかなぁ?」
ステージ上のリンリンお姉さんがツインテールを揺らして、ピアノの方を振り返る。睦美は大きく頷き返してから、目の前に置いていた楽譜の順番を入れ替えた。事前に打ち合わせて決めた曲順の後ろに付箋を付けて重ねていた予備の楽譜。子供達の雰囲気によって演奏可能な曲達だ。みんなが口ずさめる、人気のある曲。幼児向け教育番組で何度も繰り返し流されているものや、独自の振り付けのあるものは特に反応がいい。その日の子供達の様子を伺いながら、喜んで貰えそうな曲を弾き始める。
これは生演奏だからこそできる強みだと、香苗が以前に電話で打ち合わせしていた時にしみじみしながら言っていた。
「一人でやってた時は、スタッフさんに音源の入ったCDを預けてって感じだったから、その場で急に演目を変えるなんて絶対不可能だったんだよね……」
いつも通りに未就園の小さい子ばかりかと思っていたら、夏休みで幼稚園や学校の無い大きい子供達まで一緒に観に来ていたりして、場合によっては観客の月齢幅が大きく違うこともある。乳児向けの優しく聞かせる歌ばかりでは、大きな子達には物足りない。
「一応、何パターンかは用意してたんだけど、それもやっぱり限界あるし」
ステージが始まる前に会場の雰囲気を運営スタッフから聞き取りしていても、歌い始めてから違うかなと思ったところで、もうそれで最後までやり切るしかない。予定外の変更は一切できないのだ。
「まあね、ステージの途中でいきなり『やっぱりあっちの何曲目から流して貰えますか?』とか言い出す訳にはいかないもんね」
「ないない。ツインテールにフリフリ衣装でそんな業務的な細かい指示、ありえないって……」
以前に香苗が言っていた、一人でやり続けることの限界だ。開演後に運営スタッフ側に動いて貰えることは少なく、打ち合わせ以上を期待することはできない。相手は小さな子供達なのだから、想定外なことが起こる可能性はとても高いのに。
「ステージに登ってきちゃう子がいたり、曲が始まってからずっと泣き止まない子は珍しくないよね。でも、機械好きな子にスピーカーの電源を切られた時は焦ったなぁ……」
「あー、スイッチとかボタンとか、子供ってとりあえず押したがるもんね……。カラオケの音源だと、それをやられたら致命的だよね」
「そう、だからプレイヤーとスピーカーの周りには必ずスタッフさんに立って貰うようお願いしてる。でも今は何があっても、むっちゃんとその都度なんとか対応できるようになったから本当に助かってる」
そういうちょっとした変化が影響したのかは分からないが、歌とピアノのお姉さんのユニットが他のゲストとの抱き合わせではなく単独で呼ばれることが少しずつ増えてきた。と同時に、厚めにメイクすればまだ許される、と鏡に向かって自己暗示しなくても平然と楽屋を出れるようになったのは、ついに三十路を過ぎて度胸が付いただけかもしれないけれど。
そして、地元では割と大きめのショッピングモールのイベントへと二人が呼ばれたのは、睦美がようやくツインテールの自分を見慣れ始めた頃だった。
週末に催されるイベントほど規模が大きくなかったのは、主催がショッピングモール自体ではなく、テナントとして入っている幼児教室だったからなのだろう。平日の使われていないイベントスペースを借り切って、コンサートの前後には教室の入会案内とミニ体験レッスン。〇歳児からの親子教室と、二歳児からの知育教室。リトミックや手遊び歌といった音楽を絡めたものから、パズルや粘土、工作といったカリキュラムの説明に、幼稚園へのお受験の話題。舞台袖で聞いていた睦美も驚いて思わず目を剥いていた。
――最近の子って、そんな早くからお勉強するんだ……ああ、でも、お母さんの教室の保護者達も絶対音感がどーのとかよく言ってたなぁ。
物心が付いた時に既にピアノを触っていたから、自分が何歳からレッスンを受けさせられていたのかは覚えてもいない。でも、睦美にはそういった特殊な能力は備わってすらいないけれど。
ステージの前には乳幼児向けにマットが敷かれ、それを囲むようにして観覧用のパイプ椅子が並べられていた。後ろの方の席には明らかに関係ないお爺ちゃんが、これから何が始まるかも分かっていなさそうな顔で座っている。