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【現実世界・聖環医療研究センター】
病室の空気は、夜の終わりと朝の始まりの、
どちらにもなりきれていなかった。
照明は落とされ、非常灯だけが壁際を淡く照らしている。
カーテンの隙間から差し込む外光は、
まだ白ではなく、灰色に近い。 消毒薬の匂い。
一定のリズムで鳴る医療機器の電子音。
それらが、ここが紛れもなく「現実側」であることを、
しつこいほど念押ししてくる。
佐伯蓮は、ベッドの上で目を開いていた。
劇的な瞬間じゃない。悲鳴も痙攣もない。
ただ、静かに、瞼が持ち上がっただけだ。
――佐伯蓮。
クロスゲートの技術職。
行方不明者のひとり。 真面目で、口数は多くない。
コアの光は琥珀色。 あのケースの中で、脈打つ光を何度も見た。
だから、目の前のこの呼吸が、嘘じゃないことも分かる。
瞬きをひとつ。
もうひとつ。
「……佐伯さん」
声をかけると、佐伯の視線がゆっくりとこちらに動いた。
焦点はまだ定まっていない。
だが、確かに「誰かがいる」と理解しようとする目だった。
「……ここ……」
掠れた声。
でも、意味を持つ言葉だ。
「病院だ」
木崎が短く答える。
「現実側のな」
佐伯は天井を見上げたまま、しばらく黙っていた。
その表情は安心とも困惑ともつかない。
やがて、ぽつり。
「……現実……」
その言い方が、妙に引っかかった。
疑問じゃない。確認だ。
まるで、“もうひとつ”の場所が存在する前提で、
今いる場所を確かめているみたいに。
違和感は、そこからだった。
佐伯はゆっくりと目を閉じ、眉を寄せる。
「……白い……廊下が……」
背中に冷たいものが走る。
「廊下?」
「ああ……長い……」
「静かで……音がなくて……」
「……ガラス……だった気がする」
それは夢の話し方じゃない。
思い出そうとしている声だった。
木崎と視線が合う。
あの人は何も言わない。
でも、目だけで「同じことを考えてる」と分かる。
――ここじゃない。
村瀬七海が目を覚ましたのは、佐伯から少し遅れてだった。
彼女もまた、派手な目覚め方はしなかった。
瞼が持ち上がり、天井を見つめる。
しばらく、何も言わない。
指先だけが、シーツの上で小さく動いていた。
――村瀬七海。
クロスゲート絡みのバイト/テスター。
若い女性。
コアの光は淡い桃色で、どこか脆そうに見えた。
それでも、あの夜、境界が崩れかける中で“戻ってきた”ひとりだ。
「……夢、見てた?」
そう聞くと、村瀬は小さく首を振った。
「夢……じゃないです」
「……行ってた、感じ」
行ってた。
その言葉が、軽いのに重い。
「どこに?」
村瀬は視線を落とし、少し考え込む。
「……分かりません」
「でも……戻ってきた、っていうのは……分かります」
戻ってきた。
その言葉が、別の事実を浮かび上がらせる。
――戻れなかった人間がいる。
ハレルは病室の奥、もうひとつのベッドを見た。
そこに、あるはずだった場所。
日下部奏一。三人目の器。
シーツは整えられ、痕跡は薄い。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
胸の奥が、じくりと痛んだ。
(……俺が、やろうって言った)
(“今夜この一回で”って)
目の前にいる二人の呼吸が、
救えた証拠であるほど、空のベッドがきつい。
病室を出た廊下は、ひどく静かだった。
夜勤の看護師の足音が遠くで反響している。
窓の外はまだ夜明け前。
病院という建物全体が、息を潜めているように感じる。
木崎が歩きながら低い声で言った。
「壊されたんじゃない」
「……え?」
「日下部の器だ」
木崎は立ち止まり、壁際の非常灯を見上げる。
光が頬の骨に影を落とし、疲れが浮き出る。
「破壊の痕跡がねえ」
「ベッドも設備も、そのままだ。
ログも……“飛んだ”感じじゃない」
「……じゃあ……」
「奪われた」
木崎は一度言い切って、すぐに言い直す。
「いや……正確には、“移設された”だな」
移設。
その言葉が、ゆっくりと頭に染み込んでくる。
「連中は無駄なことはしない」
「壊すなら最初から壊す」
「だが……日下部の器は、使う気だ」
使う。
何に。
答えは、分かってしまう。
日下部の器に、別の意識を――。
レアみたいに、“作る”。
「……追えるんですか」
自分でも驚くほど静かな声だった。
木崎は少し黙ってから、ポケットから折り畳んだメモを出した。
走り書きの線と数字。
城ヶ峰から受け取った警備情報の余白に、昨夜の出来事が乱雑に重ねられている。
「完全に切れたなら、何も残らねえ」
「だがな……残ってる」
「“引っ張られ方”がある」
「引っ張られ方……」
木崎は廊下の先、窓の外――湾岸の方角を見た。
もちろん見える距離じゃないのに、そこを見る癖があるみたいに。
「病院じゃない方向だ」
「……タワー側」
ハレルは胸元を押さえた。
主観測鍵のペンダントは、落ち着いている。
今は静かだ。
でも、昨夜の熱が、まだ皮膚の下に残っている気がする。
そして、ケースの中。
――ユナのコア(ID-01)。青い光。
あれは昨夜から、微妙に“落ち着かない”。
一定の脈じゃない。引っ張られるみたいに、揺れる。
(ユナは……今は動かさない)
(今、動かしたら……もっと簡単に持っていかれる)
それだけは分かっていた。
奪われたID-05のほうは、もうここにない。
だからこそ、余計に嫌な感触がする。
“透明に近い何か”が、まだ空間に残ってる。残り香みたいに。
木崎が言った。
「決めろ」
「追うなら、今だ」
「……追います」
迷いはなかった。
迷ってる時間が、あいつらの実験を進める。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都外縁/オルタ・スパイア周辺】
王都イルダ外縁。
丘陵地帯に突き刺さるように立つ細い塔
――オルタ・スパイア。
夜明け前の風は冷たく、草の匂いに混じって、
土の焦げた匂いがわずかに漂っていた。
地面には、消しきれなかった焼け跡がある。
アデルが〈封縫・戻り線〉で上書きしたはずの、黒い傷。
完全には消えず、薄い痛みみたいに残っている。
リオは塔の外縁、石の縁に立ち、空を見上げていた。
空の色が、いつもと違う。
薄く濁っている。雲の層が一枚多いみたいに、重い。
右手首の腕輪が、微かに熱を帯びる。
「……揺れてる」
言った自分の声が、風に削られていく。
背後で、アデルが剣の柄に手を置いた。
外套の裾が鳴り、銀髪の三つ編みが揺れる。
「境界の脈が速い」
「昨日より確実に悪い」
塔の石肌に、細いひび割れが走った気がした。
幻じゃない。
石の質感が、一瞬だけ“別のもの”に変わる。
金属みたいに冷たく、滑る。
リオは歯を食いしばる。
「現実側だ」
「……向こうで、何か起きてる」
アデルは短く頷く。
塔の下――丘の斜面を見下ろすと、草むらの陰が妙に濃い。
影が、影のままではいられないみたいに、形を変えようとしている。
「黒ローブの動きは?」
リオが問うと、アデルは低く答えた。
「見えない」
「だが、見えないほど危険だ」
その瞬間、塔の内部から微かな音が走った。
水晶板の通信陣が光る。
――ノノだ。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都/解析室】
解析室は、いつものままだった。
魔術陣の光。水晶板。散らかったメモ。インクの匂い。
だけど境界地図(マップ)の赤い点だけが、いつもより“濃い”。
ノノは三つ編みを揺らしながら、イヤーカフに指を当てる。
「リオ、アデル、聞こえる?」
「やばい。数値が合わない」
息が上がったままの早口だ。
「本来なら、同調はもっと後!」
「なのに“座標の寄り”が……勝手に進んでる」
リオが噛みつくように言う。
「勝手ってなんだよ」
「誰が押してる」
ノノは水晶板を叩きそうになって、手を止めた。
「……カシウス側だと思う」
「向こうが“座標を作ってる”。昨日の第三ピークで味をしめたんだよ」
アデルが低く言う。
「つまり――また来る」
「うん」
ノノは一瞬だけ言葉を詰まらせて、吐くように続けた。
「来る、っていうか……もう来てる」
解析室の地図の端で、赤点が一つ、ふっと増えた。
まるで、現実側のどこかに“針”が刺さったみたいに。
ノノは唇を噛む。
(お願い、間に合って)
(ハレル……)
◆ ◆ ◆
病院の静けさを裂くように、
小さな振動音が響いた。
サキのスマホだ。
彼女は画面を見て固まっている。
指先が、かすかに震えていた。
「……お兄ちゃん」
差し出されたスマホ。
そこには、見覚えのないアプリが表示されていた。
白地に、細い線で描かれた歪な円。
起動もしていないのに、文字だけが浮かんでいる。
「巻き込んでごめん」
その瞬間――
ハレルの胸元で、主観測鍵のペンダントが、確かな熱を持って脈打った。
熱は、昨夜とは違う。
もっと“合図”に近い。
向こうから叩かれているみたいな、短い鼓動。
サキが小さく息を吸う。
「……これ、消せない」
「……」
ハレルは、頷くことしかできなかった。
遠くで、何かが重なり始めている。
病院の壁の向こう、世界のどこかで。