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【現実世界・聖環医療研究センター/サービス通路】
病院の“裏側”は、昼も夜も同じ匂いがした。
消毒液と古い配線と、機械が熱を吐く匂い。
城ヶ峰はエレベーターを降りると、フロア案内を見上げずに歩いた。
この建物は、迷うように作られていない。
迷わせるために作られている。
「……起きたとのことで」
並んで歩く若い部下が、声を落とす。
城ヶ峰は頷いた。
「“起きた”という言葉が正しいかは知らん」
「だが、反応が戻った。二人とも」
部下が手元のタブレットを開く。
「佐伯蓮。二十代後半、元クロスゲート技術職。
失踪一年。回復後、言語反応は――」
「村瀬七海。二十代前半、テスター系。失踪時の交友関係は――」
「いい」
城ヶ峰は遮った。
「プロフィールは後で読む。今必要なのは、“どこを見たか”だ」
サービス通路の角。監視カメラの死角。
そこを曲がると、第七特別病棟のスタッフ用詰所が見えた。
「面会記録、取材記録、全部止めたな?」
「はい。院内には“研究データ保護”の名目で通達を――」
「名目は何でもいい」
城ヶ峰は淡々と答える。
「世間に“目覚め”が漏れたら、次はここに人が集まる」
「人が集まれば、あいつらが喜ぶ」
部下が喉を鳴らした。
「あいつら、というのは……」
城ヶ峰は返さない。
返した瞬間、国が“それ”を認めることになる。
代わりに、詰所のドアをノックした。
【現実世界・聖環医療研究センター/小会議室】
小さな会議室は、空気が薄い。
窓はなく、時計の音だけが響く。
佐伯蓮は痩せていた。
頬がこけ、目だけが妙に落ち着いている。
村瀬七海は、手を膝の上で握りしめたまま、視線が泳いでいる。
二人とも“病人”のはずだった。
それなのに――目の奥にあるのは、病院の白ではない。
「覚えてることだけでいい」
城ヶ峰は椅子に座らず、立ったまま言った。
「昨夜の“前”でも“後”でも構わない。何を見た」
佐伯は、しばらく黙ってから答えた。
「……白い廊下」
「病院の廊下じゃない。もっと……まっすぐで、冷たい」
村瀬が小さく頷く。
「床が……石みたいで」
「壁が、光って……数字が浮いてた気がします」
城ヶ峰は眉ひとつ動かさない。
それを“幻覚”として処理するのは簡単だ。
だが、簡単なほうが間違っている。
「誰か、いたか」
佐伯は首を振りかけて、止めた。
「……声は、聞こえた」
「男の声。怒ってた。……『やめろ』って」
村瀬が、震える息を吐く。
「……火の匂い」
「焦げた匂いが、急にして……」
城ヶ峰は、短く息を吸った。
火。焦げ。
白い廊下。数字。
橘靖竜
どれも、あの“境界”の臭いだ。
「最後にひとつ」
城ヶ峰は言った。
「“塔”を知ってるか」
二人は同時に首を振った。
だが、村瀬の指が無意識に机の端をなぞった。
――まるで、ガラスの輪郭を撫でるみたいに。
城ヶ峰は、その仕草だけを拾う。
「……分かった。今日は休め」
「ここで起きたことは、外では話すな。誰にもだ」
佐伯が、かすれた声で言った。
「俺たち……また、持っていかれるんですか」
城ヶ峰は一拍置いて答えた。
「持っていかせない」
「そのために、俺がここにいる」
嘘ではない。
ただし、“俺だけでは足りない”ことも分かっている。
【現実世界・木崎の倉庫】
倉庫のシャッターの隙間から、湾岸の風が入る。
金属と潮の匂いが混ざって、肺の奥が冷えた。
木崎はテーブルの上に資料を広げ、地図に赤ペンで丸をつけていた。
オルタリンクタワー。搬入口。地下駐車場。非常階段。
「……やっぱり病院じゃねえ」
木崎は独り言のように言い、スマホを耳に当てた。
「城ヶ峰。聞こえる」
『ああ』
「二人から何か取れたか」
『取れた。――白い廊下、数字、焦げた匂い』
木崎が舌打ちする。
「そっち側の匂いだな」
『ああ。だから言ったろ。次は病院じゃない』
「タワーか」
『タワーだ。……だが、国は動かすな』
木崎は笑い混じりに吐き捨てた。
「動かしたら完成する、ってやつか」
『理解が早くて助かる』
「褒めてんのか、それ」
『褒めてない。事実だ』
通話が切れる。
木崎はコアケースを見た。
残っている光。
その中で、青い光だけが妙に“落ち着かない”。
ユナのコア。
まるで、どこか遠くの方向を見ているみたいに、
脈が一定のリズムを外している。
「……お前まで連れて行かねえ」
木崎は低く言った。
「今日はここで、錨(いかり)だ」
扉が開く音。
ハレルとサキが入ってくる。
二人とも、もう“迷ってる顔”じゃなかった。
木崎は、わざと乱暴に言う。
「来ると思ったよ」
「で、決めたか」
ハレルは頷いた。
「日下部を取り返す」
「今夜、タワーに行く」
サキも、言葉にしないまま頷く。
胸元のスマホが、重いものみたいに抱えられている。
木崎はため息を吐いた。
「――ユナは置いていけ」
「連れて行ったら、相手の餌が増える」
ハレルは苦い顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かってる」
「ユナは……今は、動かさない」
それを口にした瞬間、青い光が一度だけ強く脈打った。
抗議みたいに。
サキが息を呑む。
「……ユナちゃん、怒ってる?」
「怒ってるんじゃない」
木崎が代わりに言った。
「引かれてる。タワーのほうに」
ハレルのペンダントが、微かに熱を持つ。
「……やっぱり、入口だ」
ハレルが言った、その直後。
サキのスマホが、短く震えた。
通知音は鳴らない。
ただ、画面だけが勝手に点く。
白い円。歪んだ線。
そして、たった一行。
《今夜。入口は開く》
サキの指先が冷たくなる。
「……お兄ちゃん」
ハレルは画面を見て、目を細めた。
「……来たな」
木崎が吐き捨てる。
「招待状かよ。趣味悪い」
ハレルはスマホから視線を離し、木崎を見る。
「行く」
「行って、日下部を取り返す」
「入口が開くなら――こっちから踏み込む」
木崎は一瞬だけ黙り、倉庫の奥の棚からバッグを投げた。
「なら、準備しろ」
「“今夜”って言ったろ。急ぐぞ」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都/解析室】
ノノ=シュタインは、境界地図を殴りたい気分だった。
赤点が増えてる。増え方が、昨日までと違う。
「……これ、加速してる」
「誰かが、意図的に回してる」
イヤーカフに指を当てる。
「リオ! アデル! 聞こえる!?」
【異世界・オルタ・スパイア】
風が強い。
塔の周りの草が一斉に同じ方向へ倒れている。
――“引っ張られている”。
地面に残った黒い焼け跡が、薄く光った。
消えきっていない傷が、息を吹き返している。
リオが短く答える。
「聞こえる」
ノノの声が跳ねた。
『同調が進んでる! こっちから止められないやつ!』
『タワー側が“入口”を作ってる!』
『このまま行くと、スパイアが――引きずられる!』
アデルが即座に命じる。
「防衛陣を張れ」
「塔の周囲、薄点を固定しろ」
リオが腕輪を握る。熱い。
「黒ローブは」
『動いてる! たぶん、もう近い!』
ノノが言い切る。
『ねえ、これ……“完全に重なる”の、早いよ!』
『予定よりずっと! たぶん……数日じゃない。今夜か明日!』
リオが舌打ちした。
「……ハレルが踏み込む」
アデルの瞳が細くなる。
「踏み込ませる」
「踏み込ませて、こちらで受け止める」
「現実が沈む前に」
塔の影が、一瞬だけ“別の影”に変わった。
ガラスの輪郭。高層ビルの角。
二つの世界が、もう、息を合わせ始めている。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸再開発エリア/オルタリンクタワー前】
車を降りると、夜のビルは“冷たい巨大さ”で立っていた。
ガラスの壁が街の灯りを吸い、吐かずに抱えている。
オルタリンクタワー。
ハレルは見上げる。
胸元のペンダントが、はっきり熱い。
サキは隣で、スマホを握りしめている。
画面は消えているのに、そこだけが“生きている”みたいだった。
木崎が低い声で言う。
「入口は、向こうが開く」
「なら……開いた瞬間、こっちが入る」
ハレルは頷いた。
「日下部を取り返す」
「それだけだ」
サキが小さく息を吸う。
――私、怖い。
でも。 置いていかれるほうが、もっと怖い。
そのとき、タワーのガラス面の奥で、影が揺れた。
ただの反射じゃない。
“向こう側”の影だ。
サキのスマホが、もう一度だけ震える。
《ようこそ》
ハレルが、短く言った。
「……侵入する」