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朝。
制服の襟が、濡れていた。鏡の前でそれに気づいたとき、遥は何も言わずにハンガーへ掛け直す。濡れているのは汗か涙か、もうどちらでもよかった。
背中の一部に火照りが残っていた。
晃司の蹴り──足のつま先が抉った場所が、赤黒く腫れている。シャツを着ると、布越しに擦れて息が漏れた。
「……ちっ」
音にもならない、漏れ。
朝食はなかった。
そもそも期待していない。
台所には誰もおらず、代わりにカウンターに置かれていたのは、玲央菜の書き置きだった。
《冷蔵庫。水くらいは残しといたから。血は拭いてから出て》
やさしさの仮面などとっくに剝がれていた。
文字は整っていた。表面だけ、いつも整っている。
「……知るか」
冷蔵庫を開け、水を一口だけ飲む。
胃がすぐに拒絶して、戻しそうになったが無理やり飲み下す。
外に出ると、空気がひどく白かった。
夏の湿気と、朝の空気の濁りと、夜の残骸とが混ざって、すべてが濁っている。
心も、皮膚も。
踏み出した足に力が入らない。
だけど、歩くことをやめたら、そこに戻されるだけだと、遥はよく知っていた。
──歩くしかないんだ。
誰も期待してなくても。
誰も気づかなくても。
誰も見てなくても。
学校の門が見えたとき、背筋を無理に伸ばす。
この瞬間だけは、“痛み”をどこかに押し込めないといけない。
「おはよーございまーす!」
誰かの明るい声。
同じ制服、同じ時間、同じ歩調。
だが、同じ空間にはいない。
遥は、一人だけ、まったく別の“世界”にいる。
教室のドアを開けた瞬間、空気が張り詰める。
──獲物が入ってきた。
「……きたきた。今日もちゃんと来るんだなぁ、えらいえらい」
「顔、引きつってんぞ? もしかして、どっか痛ぇのか?」
「昨日、掃除用具室だったよな。おまえ、あそこで泣いてたんじゃねえの?」
数人の男子が立ち上がり、遥の進路を塞ぐように歩み寄ってくる。
笑い声は作り物のように軽いのに、目は笑っていなかった。
そして、誰かがぽつりと呟く。
「……で、今日はどこ? トイレ? 階段裏?」
「なぁ、順番からいくと今日は“ベッド付き”じゃねぇの?」
保健室。
「昨日、“誰かさん”が、声出したって聞いたんだけど。……なぁ?」
「マジ? 録ってないの?」
「うわー、もったいねぇ。あいつの情けない声、保存しときたかったのに」
遥は無言のまま、鞄を握る手に力をこめた。
足の指先にすら、昨日の傷が残っている。背中は火照り、内腿には鈍い痛みがある。だが、それを顔に出すわけにはいかない。
「……黙ってねぇで、なんか言えよ。今日、どこがいい? 選ばせてやるよ」
「なあ、保健室だったらナース服着てこいよ。似合うんじゃね?」
「おまえ、もう“自分の制服”って感じじゃねぇしな」
そのとき、ひとりが机を蹴り上げた。
鈍い音が教室の空気を裂いた瞬間、背後から別の手が遥の鞄を奪い、壁際に投げつける。中身が散乱する音に、教室の後方から笑いが起こる。
「こいつ、朝からこんな顔してるぜ?」
「寝不足か? ああ……昨夜は“誰に”起こされてたんだ?」
「つかさ、こいつの“夜のスケジュール”も作ろうぜ。家のやつらと、交互で」
「はは、なにそれ。ちゃんと家庭と両立してんのかよ、えらすぎ」
──家庭のことは、誰も知らない。
だが、“家でも似たようなことがあるんだろうな”という空気だけが、勝手に作られていく。
それが、いちばん吐き気を誘う。
「……いい加減、喋れよ。反応ないとつまんねぇんだよ」
「そうだそうだ。な? 今日もちょっとだけ泣いてくれよ。声、出してくれよ」
「おまえの“黙ってる顔”見るの、もう飽きてきたんだよな」
遥は、口を開く。
喋らないと壊れる。
喋ったら、もっと壊れる。
それでも。
「……おまえら全員、死ねばいいのに」
声は低く、息のようだった。
沈黙。
次の瞬間、誰かの手の甲が遥の顔を叩く音が、鋭く響いた。
「言ったなぁ?」
「おい、マジで聞いたか?」
「録音録音……って、今誰も持ってねぇの? ばっかじゃねぇの!」
「……じゃあ、今日の分、ちょっとだけ“サービス”してやんね?」
机が倒れる。
遥の肩が掴まれ、後ろから引き倒される。
教室の床に、乾いた衝撃音が響いた。
笑い声が上がる。
目線が降り注ぐ。
──誰も止めない。
教師はまだ来ない。
クラスは、もうずっとこうだった。
遥は、拳を固めようとした。
けれど、指の骨がすでに痺れている。
何発目かの衝撃のあと、視界が霞んで、耳が遠のいた。
ただ──意識の端に、ひとつの視線を感じた。
日下部だった。
椅子に座り、何も言わず、こちらを見ている。
見ているだけだった。
遥は、視線を逸らさなかった。
痛みの中で、それだけは、奪われたくなかった。