テラーノベル

テラーノベル

テレビCM放送中!!
テラーノベル(Teller Novel)

タイトル、作家名、タグで検索

ストーリーを書く

シェアするシェアする
報告する

朝。


制服の襟が、濡れていた。鏡の前でそれに気づいたとき、遥は何も言わずにハンガーへ掛け直す。濡れているのは汗か涙か、もうどちらでもよかった。


背中の一部に火照りが残っていた。

晃司の蹴り──足のつま先が抉った場所が、赤黒く腫れている。シャツを着ると、布越しに擦れて息が漏れた。


「……ちっ」


音にもならない、漏れ。


朝食はなかった。

そもそも期待していない。

台所には誰もおらず、代わりにカウンターに置かれていたのは、玲央菜の書き置きだった。


《冷蔵庫。水くらいは残しといたから。血は拭いてから出て》


やさしさの仮面などとっくに剝がれていた。

文字は整っていた。表面だけ、いつも整っている。


「……知るか」


冷蔵庫を開け、水を一口だけ飲む。

胃がすぐに拒絶して、戻しそうになったが無理やり飲み下す。


外に出ると、空気がひどく白かった。

夏の湿気と、朝の空気の濁りと、夜の残骸とが混ざって、すべてが濁っている。

心も、皮膚も。


踏み出した足に力が入らない。

だけど、歩くことをやめたら、そこに戻されるだけだと、遥はよく知っていた。


──歩くしかないんだ。

誰も期待してなくても。

誰も気づかなくても。

誰も見てなくても。


学校の門が見えたとき、背筋を無理に伸ばす。

この瞬間だけは、“痛み”をどこかに押し込めないといけない。


「おはよーございまーす!」


誰かの明るい声。

同じ制服、同じ時間、同じ歩調。


だが、同じ空間にはいない。

遥は、一人だけ、まったく別の“世界”にいる。



教室のドアを開けた瞬間、空気が張り詰める。

──獲物が入ってきた。


「……きたきた。今日もちゃんと来るんだなぁ、えらいえらい」


「顔、引きつってんぞ? もしかして、どっか痛ぇのか?」


「昨日、掃除用具室だったよな。おまえ、あそこで泣いてたんじゃねえの?」


数人の男子が立ち上がり、遥の進路を塞ぐように歩み寄ってくる。

笑い声は作り物のように軽いのに、目は笑っていなかった。

そして、誰かがぽつりと呟く。


「……で、今日はどこ? トイレ? 階段裏?」


「なぁ、順番からいくと今日は“ベッド付き”じゃねぇの?」


保健室。


「昨日、“誰かさん”が、声出したって聞いたんだけど。……なぁ?」


「マジ? 録ってないの?」


「うわー、もったいねぇ。あいつの情けない声、保存しときたかったのに」


遥は無言のまま、鞄を握る手に力をこめた。

足の指先にすら、昨日の傷が残っている。背中は火照り、内腿には鈍い痛みがある。だが、それを顔に出すわけにはいかない。


「……黙ってねぇで、なんか言えよ。今日、どこがいい? 選ばせてやるよ」


「なあ、保健室だったらナース服着てこいよ。似合うんじゃね?」


「おまえ、もう“自分の制服”って感じじゃねぇしな」


そのとき、ひとりが机を蹴り上げた。

鈍い音が教室の空気を裂いた瞬間、背後から別の手が遥の鞄を奪い、壁際に投げつける。中身が散乱する音に、教室の後方から笑いが起こる。


「こいつ、朝からこんな顔してるぜ?」


「寝不足か? ああ……昨夜は“誰に”起こされてたんだ?」


「つかさ、こいつの“夜のスケジュール”も作ろうぜ。家のやつらと、交互で」


「はは、なにそれ。ちゃんと家庭と両立してんのかよ、えらすぎ」


──家庭のことは、誰も知らない。

だが、“家でも似たようなことがあるんだろうな”という空気だけが、勝手に作られていく。


それが、いちばん吐き気を誘う。


「……いい加減、喋れよ。反応ないとつまんねぇんだよ」


「そうだそうだ。な? 今日もちょっとだけ泣いてくれよ。声、出してくれよ」


「おまえの“黙ってる顔”見るの、もう飽きてきたんだよな」


遥は、口を開く。


喋らないと壊れる。

喋ったら、もっと壊れる。


それでも。


「……おまえら全員、死ねばいいのに」


声は低く、息のようだった。


沈黙。

次の瞬間、誰かの手の甲が遥の顔を叩く音が、鋭く響いた。


「言ったなぁ?」


「おい、マジで聞いたか?」


「録音録音……って、今誰も持ってねぇの? ばっかじゃねぇの!」


「……じゃあ、今日の分、ちょっとだけ“サービス”してやんね?」


机が倒れる。

遥の肩が掴まれ、後ろから引き倒される。

教室の床に、乾いた衝撃音が響いた。

笑い声が上がる。

目線が降り注ぐ。


──誰も止めない。

教師はまだ来ない。

クラスは、もうずっとこうだった。


遥は、拳を固めようとした。

けれど、指の骨がすでに痺れている。

何発目かの衝撃のあと、視界が霞んで、耳が遠のいた。


ただ──意識の端に、ひとつの視線を感じた。


日下部だった。

椅子に座り、何も言わず、こちらを見ている。


見ているだけだった。


遥は、視線を逸らさなかった。

痛みの中で、それだけは、奪われたくなかった。

この作品はいかがでしたか?

31

コメント

0

👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!

チャット小説はテラーノベルアプリをインストール
テラーノベルのスクリーンショット
テラーノベル

電車の中でも寝る前のベッドの中でもサクサク快適に。
もっと読みたい!がどんどんみつかる。
「読んで」「書いて」毎日が楽しくなる小説アプリをダウンロードしよう。

Apple StoreGoogle Play Store
本棚

ホーム

本棚

検索

ストーリーを書く
本棚

通知

本棚

本棚