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笑い声が遠ざかっていく。がちゃ、とドアが閉まる音。
数人分の足音が、廊下の奥に消えていった。
──“午後の部”まで、あと何分だろうな。
遥は、倒れたまま床に頬をつけていた。
呼吸は浅く、腕に走った痺れが残っている。
視界は少しぶれていたが、口の中の血の味だけが妙に鮮明だった。
制服は乱れ、シャツのボタンがいくつか引きちぎられている。
教科書やノートは床に散らばり、鞄は机の脚に引っかかっていた。
指先で拾おうとしたが、肩の可動域が痛みによって制限され、うまく動かない。
そのとき、足音がひとつ──ゆっくりと、教室に戻ってくる。
静かすぎる。
妙に、静かすぎる足音だった。
遥は、目だけを動かして、その主を見た。
日下部だった。
制服の襟を整え、無言のまま近づいてきて、机の横に立った。
見下ろす視線が、冷たい。
何も言わず、ただ見ていた。
表情に嘲笑も、憐れみもない。ただ、感情の温度が感じられなかった。
──なんだよ。
なんのつもりだよ。
遥は、血のにじむ唇をわずかに動かした。
「……見てんなら、手ぇ出せよ。出さねぇなら、……さっさと消えろ」
声はかすれていた。
喉の奥が焼けるように痛んだ。
それでも、日下部は動かない。
ただ、しゃがみ込んで視線の高さを合わせた。
「……変わったな、おまえ」
その一言。
遥は息を呑んだ。
その声。
その目線。
──知ってる。
遥の胸が、ひどく早鐘を打った。
「……なんで、ここにいんだよ」
「さあな」
「ふざけんな。転校? だったらなんで、何も言わずに──」
「言う理由、あるか?」
遥は、口を閉ざした。
日下部の目は、一切揺れない。
あの頃──まだ遥が“喋れなかった頃”のことを、すべて知っている目だった。
「……今の、おまえ。俺が知ってる“遥”じゃねぇな」
「黙れよ」
「前は、黙ってるだけだったのに。……喋るんだな、あんなふうに」
遥の肩がびくりと震える。
怒りではない。
戸惑いでもない。
“見られた”という事実が、遥を蝕む。
「オレがどう変わろうが、……おまえには関係ねぇだろ」
「関係ないさ。……ただ、驚いてるだけだよ」
にやりと笑う、その顔には、何の同情もなかった。
ただ、遥が今やっと作り上げた“自分”を、壊したいという悪意の匂いだけが、ほんのり漂っていた。
遥は立ち上がろうとした。
だが、膝が震え、すぐに崩れ落ちる。
それを見て、日下部はふっと目を細めた。
「……まだ、家では喋れねぇの?」
その一言。
遥の視界が、一瞬で白んだ。
──なぜ、その言葉が出る。
なぜ、それを、今。
日下部は立ち上がる。
背を向け、教室の出口へと歩き出す。
そして、ドアの前で足を止め、振り返る。
「……あの頃と違って、今の“おまえ”には、ちゃんと声があるんだな」
「だったら──ちゃんと聞かせろよ。泣き声じゃなくて、さ」
静かに、ドアが閉まる音がした。
遥は、再びひとりになった教室の中で、机の脚に寄りかかったまま動けなかった。
喉が震えていた。
身体の痛みではなく、“思い出されたくなかった過去”が、無理やり引きずり出されたことのショックで。
──バラす気なんて、なかったのか?
今のは、ただの冗談か?
それとも……ただの確認か?
遥は、自分の心臓の音が、耳の奥で跳ね返るのを感じていた。
「家のことまで知られたら、きっとオレは、“哀れなやつ”にされる」
「それが──一番、耐えられない」