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その日は、夕暮れが落ちるのが妙に早かった。西日が廊下を赤く染めるころには、生徒の姿もまばらになっていて、教室の扉の影が、まるで誰かの尾のようにじわりと延びていた。
「……こんな時間まで残って、律儀だな。日下部」
声が背後から落ちてきた瞬間、日下部の肩がぴくりと跳ねた。振り返ると、蓮司がそこにいた。制服のネクタイを緩め、いつも通りの気怠げな目つきで笑っている。
「資料、片づけてただけだ」
日下部はそう答えたが、返事というより息を吐いたような音だった。手元のプリントをまとめる手が、少しだけ震えていた。
蓮司は無言のまま歩み寄ると、教卓に片肘をついたまま、日下部の耳元へと顔を寄せた。
「――あのときのこと、まだ黙ってくれてるんだよな。偉いよ、お前」
囁きとともに、蓮司の指が日下部の首筋に触れた。触れたというより、なぞるような、いや、確かめるような動きだった。肌の温度を図るような、淡い湿度のある感触が、ぞわりと這い上がってくる。
日下部は一歩引こうとしたが、腕を掴まれた。力は強くないのに、逃げようとしても動けない。それが、蓮司という男の厄介なところだった。
「ここで俺の名前、叫んでみるか? 『やめろ』って。それとも、『もう一度あのときみたいにしてくれ』って、言う?」
耳元の声が、笑っていた。からかいにも、脅しにも聞こえない、その曖昧さが日下部を凍りつかせる。
日下部は顔を背け、唇を噛んだ。
「……おまえ、本当に腐ってるな」
「うん。だからお前みたいなやつが、ちょうどいい」
蓮司は軽く指を離すと、今度は日下部の頬に指を滑らせた。形のない接触。まるで触れた証拠だけが皮膚に残るような感触だった。
そして去り際、まるで買った猫でも放すように、ふと口にする。
「なぁ、遥ってさ……ああ見えて、案外簡単だよな」
何を意味するのか分からない言葉が、足音とともに廊下へ吸い込まれていく。
日下部はその場に立ち尽くしたまま、右腕をさすった。痛みはなかった。けれど、何かが皮膚の奥に染みこんでいた。