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日下部が教室を出ていった、その扉の隙間から洩れてきた光が揺れた。 残された静寂のなか、蓮司は机に凭れたまま、何かを噛み潰すように笑っていた。
「――遥。あいつさ、手、震えてたの見た?」
遥は返事をしなかった。ただ、その瞬間、身体が勝手にこわばった。蓮司の言葉の意味が、音として耳に届くよりも先に、皮膚を這うような寒気となって背筋を貫いたからだ。
「嫌がってたよ、ちゃんと。お前が来るまでに――三回。さすがに痛がってた。あ、でも泣かなかったな。そこは褒めてやっていいと思う」
心音が、ひとつ飛んだ。
遥の視線は、教室の隅に置かれた椅子――日下部が立ち上がる前にいた、あの椅子に吸い寄せられた。
シートの端に、わずかに濡れた跡。指の跡のようにも見えた。
「……嘘だろ」
自分の声なのかすら分からない掠れた音が漏れる。
蓮司はそれに気づいたのかどうかも分からない。ふわりと立ち上がって、ゆっくりと遥に近づいてきた。
「なぁ、遥。『助けよう』って、思ってる?」
その目は笑っていた。だがその奥にあるものは、空洞だった。
笑顔の皮をかぶった何か――遥がこれまでに見てきたどの暴力よりも、冷たく、理屈も情も通じないもの。
遥は一歩、退いた。無意識だった。
蓮司の指先が、彼の肩をなぞるように掠める。
「おまえは、見てしまった。知ってしまった。なら、どうするの? ねぇ、遥。
……あいつを守る? 助ける? それとも、俺の“ごっこ”に加わる?」
声が、鼓膜にべったり貼りつくように低く、艶を帯びていた。
遥は、自分の喉が焼けるように乾いていることに気づいた。
「助けたらさ、次はおまえになるよ。分かってるよね? ……あの目、してたもん。おまえもあんな目、してたよね、ずっと」
言葉が、遥の心臓に突き刺さる。
日下部のあの目。何も言わず、耐えていた目。
遥自身が、そうして過ごしてきた目。
――見捨てるな。
――でも、見捨てろ。
二つの声が、頭の中でぶつかりあった。
足が震えていた。目を逸らせば楽になれるのに、それを許さないものが遥の胸の奥にあった。だが、同時にその痛みを直視することも、身体が拒んでいた。
蓮司は、笑うのをやめた。何も表情のない、真っ白な顔になった。
「遥、おまえには選ばせるよ。俺は優しいから。
――“見ていた者”には、責任がある。ね?」
その声のあと、教室の空気は静かに歪んだ。