「りこちゃん、ばいばい」
保育園の玄関で手を振る登生。
「行ってくるからね」
私も手を振り笑顔を向ける。
淳之介さんのマンションから保育園までは自転車で5分。勤め先の『プティボワ』までも10分とかからない。
今までとは向かう方角が違うだけで、距離的には変わらない。
ただし、私の生活はとっても変わった。
まず、朝は淳之介さんが登生を起こして顔を洗い歯磨きをさせてくれる。
その間に私は食事の用意をして、出来上がれば3人で朝食。
最新式のシステムキッチンは当然食洗器もついていて、汚れた食器を洗うこともない。
食事の後は登生を着替えさせ自分の支度をし、淳之介さんを見送って簡単に片づけをしたら出勤するだけ。
夕方も登生を迎えに行き、夕食の買い物をして帰り、3人分の食事を作る。
帰りの遅い淳之介さんとはなかなか一緒に食事をとることができないけれど、それでも週に何日かは早く帰ってきて登生をお風呂に入れてくれる。そんな日には、私もひとりでゆっくりお風呂に入ることができる。
こんな生活を本当に幸せだと思う。
この幸せに慣れてはいけないとわかっていながら、失いたくないと思っている自分に私自身驚いている。
***
「璃子ちゃん、最近顔色がいいね」
「そうですか?」
毎日会っているマスターに誤魔化せるとは思っていないけれど、曖昧に返事をした。
淳之介さんのマンションに住むようになってからとてもよく眠れる。
登生の夜泣きがなくなったし、物音を気にすることなく暮らせるのが原因だと思う。
でもそれ以上に、誰かが一緒にいてくれる安心感で私の緊張がほぐれているのかもしれない。
「あれ、璃子ちゃん、今日もかわいいね」
ランチ前の時間にやって来た荒屋さん。
「いらっしゃいませ」
カウンター席に座った荒屋さんにお水を差し出すマスター。
そしてもう一人。
「こんにちわ」
荒屋さんを追うように入ってきた女性。
「いらっしゃいませ」
いつもの通りお水を出しメニューを渡すマスター。
でも、私はその場に固まった。
「久しぶりね、璃子」
私の方を見て、口角を上げて見せる美女。
「そう・・・ね」
この表情が作り物の笑顔だって、私は知っている。
だって、目が一ミリも笑っていないもの。
「あれ、2人は知り合い?」
「ええ、まあ」
荒屋さんに尋ねられれば、そう答えるしかなかった。
***
「私ね、今日から中野商事で働くのよ」
私の方を見ながら嬉しそうに話すのは、|田頭麗華《たがしられいか》24歳。
中学高校時代のクラスメートで、地元選出国会議員の娘。
その上お母様は元華族のお嬢様、とにかく有名人だった。
「そう、それはおめでとう」
中野商事は一流企業だから、そこに入れるってことはすごいことなのだろう。
「誤解しないで、私はただ結婚準備のために中野商事に入社しただけだから」
「へー」
麗華は学生時代から働く気がないと言っていた。その証拠に、大学を卒業しても就職はせずに花嫁修業と称して遊んでいた。将来はお金持ちの男性と結婚するのが夢だったはず。
「おいおい、仕事はちゃんとしてくれよ」
荒屋さんの突っ込みに、
「わかってますよ荒屋さん」
ちょっと頬を膨らませ、上目使いに見る麗華。
相変わらずね。
10代の頃から、麗華は男子の間では人気者。
私たち同性から見ると嘘っぽく見える態度も、男子からするとかわいく映るらしくて、いつもモテモテだった。
嫌だな、こんなところで再会するなんて。
***
「荒谷さん、ブレンドでいいですか?」
「ああ、はい」
麗華と話していて注文がまだだったことにマスターが気づいてくれた。
「私はオレンジジュースで」
「はい」
マスターのコーヒー目当の人が多い『プティボワ』に来てコーヒーを飲まないなんて、もったいない。って思ったことは麗華に言わないでおこう。
「珍しいですね、こんな時間に」
マスターが荒屋さんに声をかけている。
そう言えば、いつもなら朝の始業前に来る荒屋さんにしては遅い登場。
「淳之介さんがこの時間に来るって聞いて、来てみたんです」
少し表情を曇らせた荒屋さんに代わり、麗華が答えた。
麗華の言う『淳之介さん』は私の知る彼のことだと思う。
そして、麗華のお目当てはきっと『中野淳之介』その人だろうと確信した。
「中野専務とお約束ですか?」
さすが、マスターも名前を聞いて『淳之介さん』が誰かわかったらしい。
「ええ」
「押しかけてきただけだけれどね」
うれしそうな麗華とは対照的に、荒屋さんの渋い表情。
***
「ところで、璃子はなぜここにいるの?」
「あぁー、それは・・・」
荒屋さんが側にいることもあり、言葉を濁してしまう。
「確か、銀行に就職したはずよね?」
「うん」
大学を出て銀行に就職した。
「何でこんなところにいるの?」
「それは・・・」
カフェの店員だって立派な職業。こんななんていわれる筋合いはないけれど、色々と事情のある私としては答えにくい。
「そう言えば、璃子のお姉さんも中野商事に勤めていたんだったわね?」
「ぅん」
出来ればその話題には触れたくないんだけれど。
もし麗華がお姉ちゃんの名前を出せば、私が妹だって荒屋さんは気づいてしまうかもしれない。
何しろ荒屋さんはお姉ちゃんの葬儀にも参列してくれた会社の同期で、登生の存在を知っていた人。
だからこそこっそり近づいて登生の父親についての情報を聞き出そうと思っているのに、その企みを今はまだ知られたくない。
「そういえば、お姉さん突然の」
「ああ麗華、オレンジジュース。お待たせしました」
麗華の言葉をさえぎって、グラスを差し出した。
危ないな。
この調子では荒屋さんにバレるのも時間の問題かもしれない。
***
カランカラン。
「いらっしゃいませ」
ドアの開く音とともに振り返ると、やって来たのは淳之介さん。
「ブレンド」
「はい」
私がマンションに同居するようになってから、淳之介さんが『プティボワ』に来る回数が増えている。
今まではモーニングを目当てに10日に一度ほどやってきていたのが、2日に一度くらい顔を出すようになった。
朝食は家で食べているからモーニングを頼むことはなくなって、今ではコーヒーかランチを注文することが多い。
「私もコーヒーを飲もうかな?」
カウンター席に座った淳之介さんの隣に、麗華が寄ってきた。
正直、麗華の行動に対しては勝手にどうぞって感じ。
好きにしたらいい。
でも、淳之介さんはどう思っているんだろう。
「仕事中じゃないのか?」
それは荒屋さんの方に向けられた冷たい言葉。
普段は聞くことのない硬質な声。
「淳之介さんが忙しくてなかなか会う時間がないから、この時間にしたんですよ。秘書室の人からこの時間に来るって聞いて、待っていたんですから」
まったく悪びれもせず言う麗華を、ある意味凄いと思う。
「仕事をさぼってまで待っていてほしいと言った覚えはないが?」
「それは・・・淳之介さんに会いたかったからです」
大きな目をぱちぱちさせて、上目遣いに見上げる麗華の必殺ポーズ。
これで落ちる男って、本当にバカだと思う。
***
「営業はそんなに暇なのか?」
麗華には一切触れず、荒屋さんの方を見る淳之介さん。
「上から彼女のお世話を頼まれていまして」
「ふーん。きっと親父の差し金だな」
淳之介さんの父上と言えば、中野コンツェルンの総帥。
一緒に住むようになってから淳之介さんについて調べてみて、驚いた。
中野商事の専務ってだけでもすごいのに中野コンツェルンの跡取りだったなんて、おかげであのマンションにも納得できた。
「ねー淳之介さん、父がお見合いの日取りを決めたいと言っていますが、いつがいいですか?」
やっぱり麗華の相手は淳之介さんか。
淳之介さんと麗華がなんて、ちょっと意外な取り合わせ。でも、麗華も一応代議士の娘でお母様は元華族のお姫様だし、二人の間に縁談話が持ち上がっても不思議じゃない。
「悪いがその話に俺は関わっていない。親父がなんて言ったのかは知らないが、縁談を受けた覚えはない」
「もう淳之介さんたらそんなこと言って」
きっぱりはっきり断られたはずの麗華は、あきらめる様子もなく淳之介さんとの距離を縮めようとする。
「大体君は、今日からうちで働くんじゃないのか?コーヒーを飲んで時間を潰すだけなら辞めてもらってもいいんだぞ」
厳しい表情を隠すことなく、麗華を睨み付ける淳之介さん。
「大丈夫ですよ、今はコーヒーブレイクです。休憩が終わったらすぐに仕事に戻りますから。ね、荒屋さん」
淳之介さんの言葉は、麗華に届かないらしい。
ここまで邪険に言われても嫌われていると気づかない麗華がうらやましい。
すごいなぁ、こういうのを空気が読めないって言うんだ。
***
「さぁ、もういいだろう戻ろうか?」
コーヒーを飲み終わったところで荒屋さんが立ち上がった。
「はーい」
不満そうに、でも席を立つ麗華。
ブブブ ブブブ。
ちょうどそのタイミングで荒屋さんの携帯に着信。
「ちょっと待ってね」
荒屋さんが電話に出たことで、待つことになった麗華が私の方へ歩み寄る。
「ねえ、あなたもう少し身だしなみに気を使うべきだと思うわ」
「はあ?」
「客商売のくせにお化粧もろくにしていないし、服だって靴だってボロボロじゃない。子供じゃないんだから自分の身の回りぐらいきれいにするべきだと思うわよ」
クッ、悔しい。
でも、確かに靴も服も最近全く買っていない。
1人で生活していたときには週末には買い物に行き、シーズンごとに流行の服を買っていたけれど、今はそんな時間の余裕もない。
だからって、そのことについて麗華に言われる覚えはない。
「ほっといてよ」
吐き捨てるように言ってしまった。
「君たち、知り合いなのか?」
私と麗華との関係を知らない淳之介さんは、不思議そうにこちらを見ている。
「この子、中学高校時代の同級生なんですけれど、今日偶然ここで再会して」
「ふーん」
私と麗華が友達って言うのが淳之介さんには意外らしい。
「私と同じ24歳なのに子供っぽいでしょ。学生時代はずっとロングヘアだったからもう少し綺麗だったんですけれどね」
何も知らずに余計なことをベラベラとしゃべる麗華を黙らせる方法も見つからず、私はただうつむくことしかできなかった。
***
「ごめん、お待たせ」
電話と会計を済ませた荒屋さんが麗華を呼ぶ。
「専務、失礼します。璃子ちゃんもごめんね」
きっと、麗華が言った言葉に対して謝ってくれたんだろうと思う。
私自身そう気にしているわけではないけれど、淳之介さんの前で馬鹿にされて多少落ち込んだ。
「荒谷さん、璃子みたいな子が好みですか?」
またピントがずれたことを麗華が言っている。
「ったく、行くぞ」
「はーい。じゃあ淳之介さん、ごきげんよう」
上機嫌で店を出て行こうとする麗華。
あーよかった、これで麗華がいなくなった。
そう思ってほっとした時、
「ねえ、田頭さん」
ちょうど店を出て行こうとする麗華を、淳之介さんが呼び止めた。
「やだ淳之介さん、麗華って呼んでください」
呼び止められたことがよほど嬉しいのか、麗華がニコニコしながら戻ってきた。
それに対して淳之介さんはとっても冷たい目をしている。
「うちで働くなら上司と部下の節度は守ってもらわないと困る。俺は部下に名前で呼ばせる趣味はないし、仕事は遊びじゃないんだ。改めてくれ」
「そんなあぁ」
出た、またいつもの上目遣い。
「君には上司への口の利き方から教えないとダメなのか?」
「・・・」
さすがに罰が悪そうに黙った麗華は、荒屋さんに手を引かれ『プティポワ』を出て行った。
***
学生時代から麗華はとってもわがままだった。
いつも自分が1番じゃないと気がすまなくて、標的を見つけては意地悪していた。
私も何度かぶつかって喧嘩になったこともあるし、できることならば関わりたくない人間の1人。
そんな麗華に淳之介さんと同居していることが知れれば、きっと大騒ぎになるだろう。
絶対に、それだけは避けなくてはいけない。
「りこちゃんきょうよるごはんはなに?」
「今日はね、焼きそば」
「やった」
焼きそばって、私にとっては比較的手抜きなメニュー。
野菜と肉と麺を炒めてソースをかければできてしまう。リクエストで目玉焼きをのせたところで手間なんてたかが知れている。
そんなもので喜んでくれる登生に申し訳ないなと思いながら、今日の私は手の込んだメニューを作る気力がなかった。
淳之介さんと私はただの同居人。恋人でもないしこの先どうなる間柄でもない。たとえ恥ずかしい部分を見られても気にする事はないと思っているけれど、今日麗華に馬鹿にされたところを淳之介さんに見られて落ち込んでしまった。
靴だって服だってお金がなくて買わないんじゃない。今は登生の子育てでその手間も時間の余裕もないだけ。
でも忙しさを言い訳に、私は女性としての身だしなみを失ってしまったのかもしれない。麗華の言葉を聞いてそう感じた。
そして、そんな私が淳之介さんのそばにいて良いのだろうかと考えてしまった。
***
「あー」
え?
いきなり聞こえてきた登生の声で我に返る。
「どうしたの?」
「りこちゃーん」
見るとダイニングテーブルの上に用意した焼きそばが、リビングの床に広がっている。
「嘘でしょ」
「ごめんなさい」
空になったお皿を持ったまま、半べそをかいている登生。
どうやら、リビングに運んで食べようとしたらしい。
それにしても・・・
「もう、なんでこぼすのよっ」
つい、大きな声が出た。
そもそもこのうちのLDKはフローリングになっている。けれど、リビングスペースには毛足の長いラグが敷いてある。
オフホワイトで柔らかい手触りの高級そうなラグは、一旦汚れたら拭くだけではきれいにはならない。
それがわかっていて、登生にはリビングで食事をしないようにと言ってあった。
きっと今日は、テレビが見たくて行ったんだと思うけれど・・・
こぼれてしまった焼きそばをどかしても、ソースがべったりと毛足の中まで入り込んでいた。
「こっちでご飯食べたらダメだって言ったでしょ。ダイニングに用意したんだからそこで食べたらよかったじゃない」
「わーん」
聞こえてきた登生の鳴き声。
「もう、いいからあっちに行って」
普段ならこんなに感情的に怒ったりはしない。
今日は麗華のことがあってイライラしていた。
でもこれは言い訳、完全な八つ当たりだ。
「おい、何やってるんだ」
あー最悪、こんなところを淳之介さんに見られてしまうなんて。
***
「どう、落ち着いた?」
登生を𠮟りつけたところに淳之介さんが帰ってきて、「少し頭を冷やしておいで」と寝室に入れられた。
それからしばらく登生の泣き声が聞こえていたけれど、そのうち聞こえなくなった。
薄明かりの寝室のベットに腰かけ、自己嫌悪にどっぷり。
そのうち涙が流れてきて、大泣きしてしまった。
「目が真っ赤だよ」
うん、知ってる。
自分の感情だけで登生にあたってしまって、人として最低だったと後悔の涙。
「はい、ホットミルク。登生にも飲ませたから、璃子も飲んで」
「うん」
ホットミルクは登生が寝る前のお約束。
いつもは私が用意するのに。
「登生、璃子ちゃんにごめんなさいって」
「私こそ・・・ごめんなさい」
「うん」
私が座るベットの横に並んだ淳之介さんが、そっと肩に手を回した。
「璃子は頑張りすぎなんだよ」
「そんなこと」
ないとは言わない。
でも、頑張らないとどうしようもない時がある。
「なんのために俺がいると思っているの?」
「それは・・・」
淳之介さんは、ただの同居人。
随分甘えてしまっているけれど、いつかはいなくなる人。
これ以上頼ってはいけないと、いつも思っている。
「登生には『食事は台所で食べなさい』って言っておいた」
「ありがとう」
「でも、今回は登生ばかりが悪いわけではないと思うから、『璃子のことはボスが叱っておくよ』って言ったんだ」
「そう」
「そうしたら登生、『璃子ちゃんを怒ったらかわいそうだから、やめて』って、泣かれた」
「そんな・・・」
泣き止んだはずなのに、また目の前の景色が揺れ始めた。
***
私が泣き止むまでじっと待ってくれた淳之介さんに手を引かれてリビングへ戻った。
登生はすでに眠ったらしく、姿はない。
そんな中、食べ終わった食器も登生のおもちゃもきれいに片付いた状態の部屋に置かれた1枚のバスタオルが目に留まった。
「これって・・・」
「うん、登生の宝物」
そう、このバスタオルは登生が生まれた時に姉が買ったもの。
登生はとっても大切にしていて私にも触らせてくれないのに。
「どうして?」
「僕は何も言ってないよ。少しでもきれいにしようと汚れたラグを拭いていたら登生が持ってきたんだ」
「登生が?」
「うん。「よごしてごめんなさい、これでみえないね」って、自分で置いたんだよ」
登生は、3歳児なりに必死に考えたんだ。
私がこの汚れを気にしてあんなに怒ったんだと思って、だから・・・
「ごめんなさい」
「うん。今度辛くなった時は俺に言ってくれる?」
「はい」
もう2度と八つ当たりみたいなことはしない。
***
「それと、これ」
差し出された紙袋。
「何?」
中を覗くと女性物の靴。
これって・・・
「麗華が行ったことを気にして?」
「そう言うわけじゃないが、家族が悪く言われるのって悔しいじゃないか。だから、靴だけでもと思って帰りに買ってきた。知り合いの店で選んでもらったから、気に入らなければ交換もできるらしい」
「ありがとうございます」
淳之介さんが言った『家族』って表現に引っ掛かったけれど、きっと同居する者って意味だろうと聞き流すことにした。
「あれ?」
袋の中からもう一つ包みが出てきた。
「それは、かわいかったからついでだ。よかったら使って」
小さくて細長い箱の中から出てきたのはハートのペンダント。
「うわー、かわいい」
「普段アクセサリーってつけてないから、たまにはいいかなと思ってね。心配しないで、高い物じゃないから」
「うれしい。大切にします」
たとえこの生活が終わってもずっと大切にしますと心に誓った。
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