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梅雨が過ぎ、夏になり、登生の保育園でもプールが始まった。
水が大好きな登生は頭をつけることも平気なようで、毎日喜んで潜っているらしい。
「今日もプールだったの?」
「うん、たのしかった」
「そう」
元々色白な登生だから焼けて黒くなるってことはないけれど、血色もよくたくましくもなってきた。子供の成長ってとっても早いなと、こんなところからも実感する。
「さあ、帰ろうか」
「うん」
プールが始まったことで、水泳用のバックが荷物に加わり、週末のお迎えは大荷物になってしまった。
普段の登園カバンに水泳用バックと週末はお昼寝布団の持ち帰りもあって、自転車送迎の私には危ないため、金曜は徒歩でのお迎えと決めている。
月曜の朝は淳之介さんが送ってくれるし、金曜も淳之介さんは迎えに行くって言ってくれるけれど、さすがに仕事をおろそかにしてもらうわけにもいかず、「大丈夫、困ったらタクシーを使いますから」と言い続けている。
それにしても、いつまでも淳之介さんに甘えてばかりもいられない。そろそろ本気で住む所を探さなければいけない。
***
「ちかちゃんがね、プールをならうんだって」
「へえー」
プールをならうっていうのはきっと、スイミングスクールに行くってことだろうな。
「ゆうくんはなつやすみにハワイでクジラをみるんだって」
「ふーん」
このあたりに住んでいるのはお金持ちの子も多いから、家族旅行がハワイでも不思議じゃない。
「ぼくもプールしたい。クジラみたい」
ああ、そういうことね。
登生はスイミングスクールに行きたいし、ハワイでクジラを見たいと。
でもなあ・・・
「夏休みになったら海に行きましょ」
「うみ?」
「そう、おばあちゃんの家からも近いから、連れて行ってあげるわ」
「おさかないる?」
「うーん、クジラはいないけれど、大きな波がザブーンってきて、お水かとってもしょっぱいの。そこに浮き輪を浮かべてぷかぷかするととっても気持ちがいいのよ」
「ぼく、うみいく」
とっても嬉しそうにはしゃぐ登生がかわいい。
子供の頃、姉と母と父と海に行った。
何をするわけでもなく1日海にいただけだけれど、それだけで楽しかった。
「うみ、ボスもくる?」
え?
「ボスは来れないかな」
「なんで?」
それは・・・
「お仕事、忙しいから」
「えぇー」
今のマンションを出るとなったら、登生は悲しむのだろうな。
仕方がないけれど、登生に申し訳ない。
***
「ボスおそいね」
「そうね」
夜9時になり、登生が寝る時間になっても淳之介さんは帰ってこなかった。
最近とっても忙しいって荒屋さんも言っていたし、取締役ともなれば仕事だって大変なのだろう。
こんな時に私や登生のことで煩わせてはいけないと、電話やメールをしたり、帰りの予定を聞いたりはしないことにしている。
「あしたもおしごとかなあ?」
「そうねえ」
このところ週末も仕事に行くことが多いから、明日も1日休みってことにはならないかもしれない。
「ぼく、ボスとあそびたい」
うぅーん。
「明日は私とお出かけしましょ?」
「りこちゃんと?」
「そう。少し御用があるから、その後お買い物してお昼を食べて帰りましょ?」
「うん」
実は明日、不動産屋さんを回ることにしている。
多少古くても狭くても、登生と2人安心して住めるところをいくつか見つけていて行ってみるつもりだった。
「ボスもおやすみならいいね」
「そうね」
家を決めて契約するまで、淳之介さんには言わないつもり。
反対されるとは思わないけれど機嫌が悪くなりそうだし、選んだ物件に文句を言われても困るから。
***
夕食を食べさせ、お風呂に入れ、夜9時に登生はベットに入った。
最近では寝かしつけなくてもひとりで眠ってくれるようになり大助かり。
育児もだいぶ楽になった。
ピコン。
メッセージの受信。
あ、マスターからだ。
『頼まれた件。明日の10時で時間が取れそうだけれど、大丈夫?』
元々この土地で生まれたマスターは地元のことに詳しくて、アパートを探している私に不動産屋さんを紹介してくれた。
その不動産屋さんに教えられた物件の中に、安くて比較的築浅のアパートがあり明日見に行くことにしている。
『ありがとうございます。よろしくお願いします』
よし、これでアパートが決められる。
私は小さくガッツポーズ。
登生には申し訳ないし、淳之介さんには怒られそうだけれど、いつまでもここにいる訳にはいかない。
「何、どうしたの?」
「えっ」
いきなり背後から声をかけられ、携帯を落としてしまった。
***
「なんだかうれしそうだね」
部屋に入ってきた淳之介さんが携帯を拾ってくれる。
「お、お帰りなさい。ごめんなさい気が付かなくて」
「いいよ、こっそり帰ってきたから」
「そんな」
マスターからのメッセージに気をとられて、気づかなかった私が悪い。
淳之介さんのことだから、きっと声だってかけてくれたはずなのに。
「ところで、頼まれた件って何?」
どうやら携帯の画面を見られたらしい。
「ああ、アパートを」
マズイ、まだ言わないつもりだったのに。
パタン。
私の携帯がテーブルに置かれた音。
どうやら私に返してくれる気はないみたい。
「俺、何も聞いていないけれど?」
「それは・・・」
忙しそうで言えなかったって言えば許してくれるのかな。
いや、話をする時間くらいはいくらでもあった。ただ私が避けていただけ。
「黙って出ていくつもりだったのか?」
「決まったら、話すつもりでした」
ここを出ていくギリギリまで、淳之介さんと楽しく過ごしたい。私はそう思っていた。
「璃子と登生にとって、俺は何なんだ?」
真っすぐに私の目を見て問いかけられた言葉。
***
「いつまでもここにいてはいけないと、そう思って」
これは素直な私の気持ち。
決してここが嫌なわけではない。
淳之介さんとの暮らしはとっても快適で、自分たちが居候だって忘れそうになる。
それでも、ここは淳之介さんの家で、私たちはただの通りすがり。
いつまでもここにいる理由がない。
「俺が良いって言うんだからいればいいんだよ。登生にとってもここの生活がベストのはずだろ?」
「それはそうだけれど」
私はただ、登生を傷つけたくないし、淳之介さんに迷惑をかけたくない。
今はいいかもしれないけれど、淳之介さんが結婚するとなった時このままではきっと困ることになる。
現に今、麗華との縁談があるのに、ここに私と登生がいたらマズイでしょう。
「登生や璃子がここが嫌で出ていくとか、俺のことが嫌で離れたいって言うなら止めない。そこまでして縛るっつもりはない。でも、そうじゃないならここから出すつもりはない。璃子は俺が嫌い?」
「そんなこと・・・ない」
嘘は付けなかった。
「じゃあ、マスターには俺から断っておくよ」
やはり、淳之介さんは人と人との駆け引きがうまい。
話せばこうなるとわかっていたから、言いたくなかったのに。
結局決まりかけたアパートは白紙に戻ってしまった。
***
「どうした、怒ってる?」
私が用意した冷めてしまった夕食を黙々と食べる淳之介さんを見ていたら、急に目があった。
「別に」
怒っているわけじゃない。
気分がいいかと言われれば違う気がするけれど、登生や私のことを思って言ってくれたのも理解している。
「璃子が登生を大切に思うように、俺だって登生がかわいいんだ。同じだよ」
「それは、違うでしょ。私は登生の叔母だから」
たった一人の姉妹が残した忘れ形見を育てる私と、淳之介さんでは立場が違う。
「俺だって、どこかで登生と繋がっているのかもしれない」
「え?」
この瞬間、私の耳からすべての音が消えた。
登生と淳之介さんが・・・
それは初めて会った時から頭の片隅にあった疑問。
日本人にしては柔らかく癖のある栗色の髪。
遠くから見ると青黒くも見えるグレーの瞳。
それは登生と淳之介さんに共通する特徴。
気づかないふりをしていたけれど、ずっと気になっていた。
「璃子は登生の父親を捜しているんだろ?」
「ええ」
登生が大きくなった時、どれだけ愛されてどうやって生まれて来たか教えてやりたい。
そして、たとえどんな人でも登生の父親が誰なのかは知りたいと思う。
***
「もしかして、姉を、八島茉子を知っているの?」
ここに来てから、ずっと聞きたかったこと。
でも、聞いたら淳之介さんとの関係が壊れる気がして聞けなかった。
「知ってる」
ドクンッ。
自分の心臓の音が聞こえた。
もしかしたらと思ってはいた。
3人で出かけても登生と淳之介さんは親子と認識される。
それは2人があんまり似ているから。
でも、信じたくなくて、私は思考に蓋をしていた。
「中野商事株式会社、企画室、国際連携部門主任、アメリカ担当の才女。彼女のことを知らない管理職はいない」
「え?」
それって・・・
「うちで働く優秀なスタッフとして彼女のことは知っていた」
「じゃあ」
「もちろん会議で顔を合わせたことはあるが、個人的に会ったことも話したこともない」
はあぁー。
緊張の糸が緩んでしまって、一気に体の力が抜ける。
「おい、璃子、しっかりしろ」
駆け寄ってきた淳之介さんに抱えられた。
よかった。
淳之介さんが登生のお父さんでなくてよかった。
もし『僕が父親だよ』なんて言われたら人間不信になるところだった。
「なあ璃子、登生の父親探しに俺も協力していいかな?」
「え、ええ」
この時の私には安堵の気持ちしかなかった。
なぜ淳之介さんが、このタイミングで、こんなことを言ったのか、そのことをわかっていなかった。
***
「璃子ちゃん、おはよう」
「おはようございます。マスター、すみませんでした」
週明け月曜日。
勤め先の『プティボワ』に入るとすぐに、マスターに謝った。
土曜日のアパート内見。私の方からお願いして仲介してもらったのにドタキャンするなんて、本当に申し訳ない。
「しかたないよ、中野専務がダメって言うんだから」
「それは・・・」
淳之介さんのマンションに住むようになって半月くらい過ぎた時、私からマスターに事情を話した。
もちろん、姉のことや登生の父親を捜していることは言わなかったけれど、事情があって居候をしていますとだけ伝えた。
カランカラン。
「いらっしゃいませ」
いつものように声をかけてから入口を見て、
ゲッ。
思わず声が出そうになった。
「あら璃子、ずいぶん遅い出勤ね」
入ってきた麗華がエプロンを持ったままの私を見ている。
遅い出勤って言うなら、あなたはどうよって思わなくもない。
今はちょうど朝の9時。
仕事が始まる時間で、間違ってもコーヒーを飲みに来る時間ではない。
『早く戻って仕事をしろ』と、言いたいのをグッとこらえた。
「ブレンドをお願いします」
「は、ぃ」
こいつ本当に仕事をする気があるんだろうか?
いつか、絶対に、淳之介さんに言いつけてやる。
***
「私が注意したから、靴も服もきれいになったわね」
「はあ?」
まるで自分の手柄のように言う麗華に腹が立つ。
でも、相手はお客様。邪険に扱うことも、言い返すこともできない。
「ねえ、淳之介さんて時々ここに来るんでしょ。私のことを何か言ってなかった?」
「いや、別に」
麗華とのお見合いのことが気になったから、私から聞いてみた。
もし本当にお見合いをして結婚ってことになれば、私がマンションに居座る訳にはいかないだろうし。
そうしたら、
「親父が決めた縁談話があるのは事実だが、俺は同意していない。縁談の相手が彼女なのは連絡を受けているが、まったく興味もないし、見合いをするつもりも付き合うつもりない」というのが淳之介さんの返事。
それぞれ家の立場もあり今は黙認するしかないらしい。お金持ちの家って面倒くさいのね。
「今度淳之介さんが店に来たら電話で教えてよ」
「そんな、無理よ」
「何で、ワンコールするだけでしょ」
「無茶言わないで」
さすがにキレそうになって麗華から背を向けた瞬間、
「ちょっと、そのネックレスかわいいわね」
私の腕をつかみ、反対の手で首に付けたネックレスをつかんでいた。
「やめて、放して」
いくらお客さんでももう限界。
麗華の腕を振り払い一歩後ろへ下がった。その時、
プチッ。
首元からする嫌な音。
そして、切れたネックレスは床に落ちた。
「あら、ごめんなさい」
まったく悪びれる様子のない声。
プチン。
今度は私の中で何かが切れた。
***
バシャッ。
カウンターに置いていたグラスの水を、麗華にかけた。
「キャー」
当然麗華は悲鳴をあげ、立ち上がって私につかみかかる。
女のケンカって本当に醜いと思う。
髪をつかんだり、平手でたたいたり、喧嘩をしている当人は興奮しているからわからないだろうけれど、見ている人には醜悪さしかないはず。私にもそんなことは理解できていた。でも、我慢できなかった。
麗華にとっては些細なものなのかもしれない。
あんな小さなペンダント1つで大騒ぎする私がおかしいのかもしれない。
でもあれは、淳之介さんが私のために買ってきてくれた私にとっては大切な物。
それなのに・・・
「いい加減にしろ」
「やめなさい」
夢中でもみ合っていた私と麗華は、マスターと駆けつけた荒屋さんによって引きはがされた。
***
「璃子が私に水をかけたんですからね」
自分は悪くないと大きな声で主張する麗華。
事情はともかく、店の中で騒ぎを起こせばほぼ私が悪いって話になる。
何しろ相手はお客様で、私は従業員なんだから。
それがわかっていたから、私は何も言わずに黙っていた。
「璃子ちゃんは、大丈夫?」
「ええ」
どうやら頬を引っかかれたみたいでヒリヒリするけれど、大きなケガはなさそう。
一方麗華は、
「私はブランド物の服がビショビショで、髪の毛を引っ張られて頭が痛いんですが」
ギロリと私を睨みながら、マスターに向かって文句を言っている。
「申し訳ありません」
頭を下げるマスター。
マズイな大きな話になりそう。そう思った時、
「どうする、専務に報告した方がいいか?」
「えっ」「え?」
荒屋さんの問いかけに私と麗華の声が重なった。
「もちろん淳之介さんに言って」
「そんな事すれば、勤務時間中にここにいたことがバレるぞ」
「それは・・・」
「悪いが俺も、休憩時間でしたなんてかばうつもりは無い」
「そんな・・・」
あれ、荒屋さんずいぶん強気だ。
「専務には知られたくないだろ?」
「ええ」
悔しそうな麗華の返事。
それから荒屋さんがチラリと私を見た。
「今回のことはここにいる4人の秘密だ。田頭君も早く着替えて仕事に戻りなさい。璃子ちゃんも、その頬の傷は自分で言い訳するんだね。何しろ真昼間からつかみ合いのケンカをした君たちが一番悪いんだから、自業自得だ」
喧嘩両成敗とでも言いたそうに、話を終えた荒屋さん。
その強い口調と呆れたような表情が、さらに私を落ち込ませた。
***
「で、猫に引っかかれたって?」
「ええ」
他に理由が思い浮かばず、苦しい言い訳。
こんなことで淳之介さんが騙されるとは思わないけれど、「ちょっと来なさい」と書斎に呼ばれ、向かい合って座ってしまえば誤魔化すしかない。
「俺に隠し事、してない?」
「してません」
ブルブルと頭を振って見せた。
「もし嘘だったら、」
「だったら?」
なんだか怖いけれど、その先が気になる。
「お・し・お・き」
「はぁ?」
反射的に、耳まで赤くなった。
「登生の前で、1時間の説教だな」
「えぇー、それは」
ちょっときついな。
「嘘じゃないんだろ?」
「そうだけれど・・・」
「じゃあ問題ない」
うっ。
淳之介さんはきっと気が付いているんだ。
荒屋さんかマスターに聞いて知っているに違いない。
それでも、今ここで、私から話すことはできない。
そんなことして麗華が首になったらかわいそうだもの。
「じゃあ、せいぜい猫と仲良くなるんだな」
「・・・」
淳之介さんって本当に意地悪だ。