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猫を抱いて離れた悠里を見ながら、後藤秀馬はよく冷えた炭酸飲料を買った。
まだ寒い日もあるが、もうかなり春の陽気になっている。
悠里は黒のタイトスカートにストライプのシャツを着ていた。
制服のようにも見えるその通勤服が、モデルのようなスタイルの彼女によく似合っていた。
彼女が小洒落たオフィスの中に立っていると、まるで、雑誌の一ページのように見える。
だが、後藤は勝手にこう思っていた。
スタイルはいいが、まったく肉感的でないので、可愛い系の美人だが、あまりモテないかな、と。
実は、悠里がここへ来て、しゃがんで猫をかまいはじめるところからずっと見ていた。
彼女に興味があったからではない。
この猫の動向に興味があったからだ。
何故だ……。
俺には、なかなか懐かなかったのに。
後藤は恨みがましく、猫と悠里を見た。
悠里は胸に猫を抱いたまま、こちらを見ている。
猫の尻尾が右へ左へ揺れていて。
身長のある悠里と猫とで、まるで、振り子時計のように見えた。
……黒いスカートに猫の毛つくぞ、と思いながら、後藤はその場を立ち去る。
仕事を終えた悠里は友だちと待ち合わせて食事をしたあと、ほろ酔い気分でバスに乗っていた。
手すりにつかまり、車窓から暗い夜の公園など眺めていると、スマホが鳴る。
おっと、車内で迷惑だな、と思った悠里は切ろうとスマホを取り出した。
画面に出ていた文字は『しやちゆう』。
引き継ぎのとき、社長の仕事の用のスマホの番号を転送してもらったのだが。
七海という名前だけではわかりにくいので。
何処の会社の社長かわかりやすいように名前を打ち直そうと思った。
だが、引き継ぎの慌ただしさの中、時間がなく。
とりあえず、『社長』と入れたはずが、『しやちゆう』になってしまっていた。
『しやちよう』ですらなかったのだが。
まあ、いいか、とそのままにしていた。
……七海社長からか。
とりあえず、うるさいから切ろう。
悠里は他の乗客の迷惑を考え、七海からの電話を切った。
「あっ、こいつ、『ただいま電話に出られません』にしやがった」
七海は帰り支度を終えたデスクでスマホを見ながらそう叫ぶ。
「ほんとうに出られないんじゃないですか?」
後藤はそんなことを言ったあとで振り返り、
「ところでどちらに電話を?」
と訊いてきた。
「あれだよ、あれ。
ほら、なんて言ったっけな?
新しく派遣されてきた奴。
えーと……
そう、定長とかいう」
「貞弘ですよ」
「そう、そいつ、結構気に入ってるんで、食事にでも誘おうかと思ったんだが」
後藤は壁にかけてあるシンプルな木製の時計を見上げた。
「もう11時ですよ」
「俺はこれから夕食だが」
「私もですが。
普通の人間は寝る時間です」
そうなのか、と言いながら、七海はスマホを見つめ、
「じゃあ、明日のランチにでも誘うか」
と言った。
「あの、ほんとうに貞弘を気に入ってるんですか?」
懐疑的に後藤が訊いてくるので、
「ああ。
何故、疑問に思う?」
と問うてみる。
「いえ、名前も覚えてらっしゃらないみたいなので」
「名前は覚えていないが、言動は覚えているぞ。
ユーレイ屋敷に住んでいる奴だ」
ユーレイ屋敷? と後藤は今度は訝しげな顔をした。
「よくわからんが、ユーレイ屋敷に住んでるんだそうだ」
「社長は、人の顔や名前を覚えるのはお得意のはずですが……」
そう言いかける後藤に、
「そうだな。
大事な商談相手だとすぐに覚えるぞ」
と言って、
「では別に貞弘は大事ではないのでは……」
と言われる。
「そうか?
でも、ユーレイ屋敷に住んでいるというあいつの話は頭に焼き付いてるぞ」
「それは誰でも焼き付くと思います」
と後藤が言ったとき、悠里からかかってきた。
「お、感心感心」
とスマホの画面を見る。
そこには、
「派遣秘書2」
と書いてあった。
派遣秘書を導入したのは、悠里の前の人からなので、悠里は派遣秘書2だった。
「おい、腹は減ってないか。
一緒に飯でもどうだ?」
「小腹なら空いてます」
「じゃあ、美味い茶漬けの店がある。
行こう」
と話は早くまとまり、電話を切る。
お疲れ様、と鞄を手に出ていった。
「……仕事並みの速さだな」
となんのことだかわからないが。
妙に感心したように、後藤が呟くのが扉越しに聞こえてきた。
「あのー、お茶漬け食べに行くって言いませんでしたっけ?」
七海と合流した悠里が、七海の大型SUVで連れて行かれたのは、圧倒されそうな門構えの料亭だった。
政治家とかがすごい車でやってきそうなその料亭の塀沿いにある駐車場で降りながら、七海が言う。
「ここの茶漬けは美味いんだ」
「いや、美味しいんだろうなとは思いますけどね……」
料亭の歴史の長さを感じさせる、森のような庭を窺い見ながら、悠里は呟く。
「メニューにあるんですか? お茶漬け」
「言ったらなんでも作ってくれるぞ、ここ」
落ち着くいい店だ、と七海は言い出す。
「私は落ち着きません。
居酒屋とかで食べましょうよ。
だいたい、もう閉店時間では?」
「でも、いつでも開けてくれるぞ。
子どもの頃から通ってるから。
親がいないときは、ここから仕出しが――」
「行きましょう、居酒屋に。
ね?」
と悠里は砂利の敷かれた駐車場に止まっている車に七海を押し戻す。
暗い森のような料亭の木々が風にざわめく。
そのザワザワという音のせいか。
そんな木の陰から料亭の女将が、
まあ、小さい頃から見守ってきた坊ちゃんに不釣り合いな女が……、
と覗いているような恐怖を感じた。
「行きましょう、居酒屋。
行ったことありますか? 居酒屋」
と七海の背を押す。
「あるに決まってるだろ。
お前にユーレイ話を聞かされたのも居酒屋だろうが」
そういえば、そうだったな、と思い出しながら、七海の車で居酒屋に運んでもらいかけたのだが。
「あ、でも、居酒屋だったら、呑みたくなりますよね?
車、置いてこられます?」
と悠里は訊いてみた。
「それも面倒臭いな。
呑みたくなったら、車置いて帰るよ」
「居酒屋って、駐車場ありますかね?
あっ、そういえば、この間の居酒屋、うちの近くですよ。
アパートの私の部屋の駐車場、普段は空いてるんで、あそこに止められますか?」
「お前車ないのに、駐車場あるのか」
「それが駐車場もひとつただで借りれたんです。
……駐車場にもユーレイ出るんですかね?」
「そうだ。
ユーレイ部屋に住んでるのが、犯罪だとかなんとか言ってたな。
あれは、なんだ?」
「実は私、親と喧嘩して家を飛び出しまして」
「……なんか中高生の打ち明け話みたいな話だが。
お前、いい大人だよな?」
親と喧嘩して飛び出すってなんだ、と言われる。
「いやいや。
大人でもそういうこともあるんですよ。
っていうか、私、その当時、無職に等しくてですね。
でもまあ、学生時代からやってたバイトで少しはお金があったので、それで家を借りようと思ったんですが。
先々のことを考えたら、そんなに高い家賃のところは借りられないなと思って。
困って、トボトボ歩いていたら、見つけたんです。
いわゆる、『訳あり物件』というやつを」
ほう、と七海は相槌を打つ。
「商店街が近い、静かな住宅街という素晴らしい立地のアパートでした。
建物自体は古くないけど。
取り囲んでいるブロック塀は昔ながらのもので。
そこに毛筆で貼り紙がしてあったんです。
『ユーレイ部屋あり〼。
霊が見える人は通常価格より四千円引き。
見えない人は二千円引き』と。
見えなくても、他の部屋よりは安かったみたいなんですけど。
なんせ、お金がなかったので。
私はなんとかその部屋にいる霊を見ようとしました」
「なんとか見ようとして見えるもんなのか、それ」
「ともかく、霊のいる場所を指して、あそこに霊がっ、とやればいいんだなと思って。
精神を統一してみたり、ダウジングをしてみたり」
「お前がそんなことやってる間、大家、ずっと側についてたんだろ?
ダウジングとか、そんなもの出してくる時点で見えてないってわかったろうにな」
「いや、でも、そこですっ、と指差したところが当たってたみたいで。
四千円まけてくださいました」
「……それ、お前があまりに必死なんで、同情して安くしてくれたんじゃないか?
とりあえず、部屋も埋まることだし。
っていうか、付き合いのいい大家だな」
「いやー、見えないのにお金に困って、見えるって言っちゃったことがずっと気になってましてね。
嘘を真実とするために、なにかに祟られてみようかと思い詰めたりもしたんですが」
「その場合、その祟ってきたユーレイしか見えないんじゃないのか?」
あー、まあ、そうかもですね、とか言っているうちに、アパートに着いていた。