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ふかふかの白猫を抱いて、夜道に立っていた北原龍之介は、住宅街の角を曲がってきたSUVが、いつもは車がついていてないアパートの駐車場に止まるのを見た。
貞弘悠里の部屋の駐車場だ。
彼女はいつもは歩きなので、夜の散歩をしているとき、たまに遭遇する。
颯爽と歩いてくればモデルのようなのに。
何故かいつも、ひょこひょこ歩いているので、距離があってもすぐに彼女だとわかる。
運転席側から降りた男は背が高いようで、大型SUVの上から頭が見えた。
「待てよ。
よく考えたら、お茶漬けなんだから、家で食べてもいいな」
という声が聞こえてきた。
大きくないのに、よく通る声だ。
深夜の住宅街では、少々迷惑かもしれないが。
上に立つ人間のような発声と喋り方だった。
「ビックリですよ、社長の口からそんな庶民的な意見が聞けて。
あっ、でも、我が家には上げませんよっ」
「なんでだ、霊がいるからか。
霊に遠慮してんのか」
男はそんな不思議な会話を悠里と繰り広げている。
そこでようやく、悠里がこちらに気づいて、
「あっ、ただいま帰りましたっ」
と頭を下げてきた。
「おかえり」
と言うと、男が胡散臭げに、こちらを見て言う。
「誰なんだ、この存在感のない綺麗な顔をした男は。
そうか。
もしや、こいつが霊か?」
「いやあの……、それだと霊、部屋からはみ出しちゃってますけど。
っていうか、社長、霊見えるんですか?」
と言ったあとで、悠里は、そのひどく整った顔の男を紹介してくれた。
「すみません。
お騒がせして。
この方、うちの社長なんです。
社長、この方はうちの大家さんです」
「大家?
偉く若い大家だな」
「大家さんってお年寄りが多いんですか?」
「なんかそういうイメージじゃないか」
「よくわかりませんが、いい大家さんですよ。
……私は悪い店子ですが」
と悠里はなぜか自虐的になる。
二人は何処でお茶漬けを食べるかで揉めているという。
料亭か、居酒屋か、悠里の部屋か。
悠里は部屋に上げるのは嫌そうだった。
まあ、若い女性としては、簡単に部屋に男を上げることはできないだろうな、と思いながら言ってみた。
「あ、そういえば、お茶漬けならうちにあるよ。
シャケでいい?」
はい、というように腕の中の白猫が、な~と鳴いた。
「おはようございます、社長。
……どうかされましたか?」
翌朝、後藤が社長室に行くと、座り心地の良さそうな椅子に背を預けた七海は、なにか考え込んでいるかのように、額に長い指先を当てていた。
苦悩したような顔で目を閉じているのが、彫りの深い顔によく映えている。
この人に靡かない女などいるのだろうかと、ふと思ったが。
かなり身近なところにいたようで。
目を開けた七海は渋い顔で言ってくる。
「昨日、俺は定村を夕食に誘ったはずだったんだが」
「貞弘です、社長」
「気がついたら、あいつんちの大家のところで鮭茶漬けを食っていた。
ユーレイ部屋を所有している、なんか綺麗な顔した大家のところだ」
そうなんですか……としか相槌が打てなさそうな話だ。
「アパートのすぐ近くにあるその大家の家は、和風モダンの素敵な家だった。
足が楽な今風の掘りごたつ。
火のない暖炉の前では、白い猫が気持ちよさそうにクッションに寝ていて――。
ああ、俺は、ここんちの子になりたいと思ってしまった」
あなたは幾つなんですか。
っていうか、お気に召したのなら、そういう家をお建てになればいいのに。
金なら幾らでもあるでしょうに、と後藤は思う。
まあ、白い猫が気持ちよさそうに……のくだりは自分も気になったが。
「そこで、ニートで大家だという、北原白秋みたいな名前の男の話を聞いていた」
「大家なら、ニートじゃないじゃないですか。
あと、北原白秋に似てるって、北原はくなんとかって名前なんですか?」
「いや、北原龍之介だ」
似てないです。
あと、貞弘の名前は名字すら覚えていないのに。
何故、大家さんはフルネームで覚えてるんですか。
「その大家は、大手外資系IT企業で血反吐を吐くほど働いて倒れて。
金は持っているが、今、ニートらしい。
ちなみに、アパートはニートになったとき、親がひとつ分けてくれたそうだ」
「あの……気のせいかもしれませんが。
社長、貞弘より、その大家さんに関しての方が詳しくないですか?」
「そうかな?
まあ、ともかく、そこで、三人で美味い茶漬けを食って。
ずっと、こんな風に暮らしたいなと思ってしまったんだ。
俺はやはり、貞弘に惹かれているのだろうか」
いや、その家庭、ひとり多いみたいなんですけど、
とこたつに三人で入っているところを想像しながら、後藤は言う。
社長室を出たあとで、ちょうど悠里に出会ったので訊いてみた。
「貞弘、お前のところの大家の名前は、北原龍之介か」
「そうですけど?」
……何故、大家の名前だけ間違えないのだろうかな、あの人は、
と思いながら歩いていく。
「あれっ?
後藤さん、大家さんとお知り合いなんですか?
後藤さん?
後藤さーん」
「おい、派遣秘書2」
うっかりそう呼んでしまったことに気づかないまま、七海は返事がないのを訝しく思い、顔を上げた。
悠里はお茶を出しかけ、止まっている。
「……1は何処に」
と呟くのが聞こえた。
「1はお前の前の奴だ」
「ああ、吉崎さん」
「そうそう。
あの人はいい人だった」
いや、私は、という顔を悠里がする。
「吉崎さんは、今、産休だったか」
「そうなんですよ。
上のお子さんも可愛らしい盛りで。
たまに派遣会社の事務所の方にお子さん連れで顔を出されて。
お菓子差し入れてくださるんですよ」
「そうか。
子どもが生まれたら、教えてくれ。
なにかお祝いを贈っておくから」
お気遣いありがとうございます、と悠里は頭を下げた。
吉崎ひとみがこの会社に戻ってくることはないだろう。
しばらく育児に専念したいと言っていたし。
だが、なかなか気の利く良い秘書だったので、出産祝いくらいは贈っておこうと思う。
「今日は暇か?
……貞弘」
さっき、後藤が、
『貞弘です、社長』と言ったのを思い出しながら、そう呼びかける。
何故だかわからないが、この貞弘悠里の、顔や声は覚えられるのに。
名前だけが、しっくり来ず、覚えられなかった。
「暇じゃないです」
「そうか。
ラーメン食いに行かないか?」
「聞いてませんでしたか? 社長。
暇じゃないです」
「何時まで暇じゃない?」
悠里は律儀に小首をかしげ、考えはじめる。
「……8時半くらいですかね?
友だち、9時のドラマ見たいって言ってたんで」
「じゃあ、8時半からは暇なんだな。
ちょうどいい。
俺もそのくらいから暇だ」
「社長は人の話、聞かないですよね」
「聞いてるぞ?
8時半から暇なんだろ?」
「いやー、でも、その頃、私、疲れてるかもです」
「そうか。
じゃあ、申し訳ないな。
でも、お前の顔を見たかったんだ」
……今、見てますよ、という顔をしたので、
「悪かった。
また誘う。
ゆっくり眠れ」
と言った。
ゆっくり眠れって、なんか最後、射殺とかされる悪役の人みたいだな、私、
と思いながら、悠里は社長室を出た。
ほんと、強引な人だな、と思いはしたが。
『でも、お前の顔を見たかったんだ』
とまっすぐ自分を見つめて言う七海の瞳を思い返すと、ときめかないこともないこともないこともない。
でもまあ、あんな顔で見つめられたら、誰だって。
相手が好みだろうと好みじゃなかろうと、ときめくよな、
と結論づけ、あまり深く考えないようにした。