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「で?大野が親と喧嘩なんて珍しいじゃん。」


学校までの道のりを並んで歩く二人だったが、こちらの思考を見透かすように聞いてみせる折原おりはらに思わず大野は苦笑いを浮かべた。


やはり折原にはどんな隠し事も通用しないようだ。


「実は……」と大野が口を開くと、会話は大野の愚痴を折原が聞く形となって続いていく。


「それで学力がどうとか、ちゃんと勉強しろとかさ……。外に遊びに行くのも控えろ、なんて言うんだぜ?」


「お前も大変だな……。わかるよ。親のそういう言葉ってけっこう心に来るからそればっかり言われるとしんどいよなぁ。」


心底同情する、というような目にうんうんと大野が頷く。


「でも大野ってそんなにテストの点低かったっけ?」


「あー、まぁ高くもないんだけどさ……」


改めて指摘されると正直ばつが悪いが、仕方がない。


テストの点数か……。


ここ最近だと漢字テストが70点、算数が46点、社会が62点……くらいだろうか?


「それけっこうやばくないか?!」


「算数は苦手なところだったんだよ。でも他はなんだかんだ半分以上はとれてるし、別にいいかなって……一応赤点でもないし。」


大きく目を見開いて叫ぶ折原に大野は思わずパッと目を逸らしてしまった。


それでも様子が気になってチラリと隣を見ると、折原は驚いたような、それでいて少し呆れたような奇妙な表情で固まっている。


「そうか……。それは、まぁ……大野がそれでいいなら別にいいかもしれないけどよ……。」


俺だったら絶対殺されるわ、と呟く折原に「そんなに?!」と大野は驚いて尋ねる。


「最低でもご飯抜きか、もしかしたら家を放り出されるかもな。」


「ひでぇな……。」


自分だったら絶対に耐えられない。


すれ違うクラスメイトに「おはよう」と返しながら歩いているうちに校門の前につくと、立っている先生に挨拶をして二人は土間の方へと向かった。


「テストといえばさ、大野。明日の音楽のリコーダーのテストは大丈夫なのか?」


「練習はしているよ。けどうまくできるかはちょっと自信ないな……。」


「へぇー。」


最後の方の音がうまく出せなくてさ、と話す大野に折原が相槌をうつ。


教室に入るとすぐに机に向かう彼の姿も、今ではもう違和感をもつことはなくなっていた。


彼のそれがいつも通りならば、こちらが別の友人に話しかけるのもいつも通りなのだ。


「えー、大野も大変だな。」


「大野の親厳しくない?せっかく午前中で授業終わるんだし、好きに遊ばせてくれてもいいのになー」


集まる共感に大野は胸の奥がすっとするのがわかった。


これぐらい普通なんだ……自分はまだ大丈夫だ……。


俺は別に、悪くない。


同情の声に会話を弾ませるたびに正しいのは自分の方なのだと思えてきて……心が軽くなるとともに、安心するのだ。



「じゃあ答え合わせをしていくぞ。問6の(1)を、佐藤!」


「はい。『9×2×3.14=56.62……』」


当てられた男子の声にじっとりと冷や汗が滲むのがわかる。


時は迫っている……よりによって苦手な算数の時間に、あと数分もたてばその質問は俺のもとにも回ってくるのだ。


「正解だ。それじゃあ(2)を山田!……山田?」


目の前の少年は机に突っ伏して眠っていた。


彼の隣の席に座る女子が背中をゆすると、ハッとした彼は慌ててどこを当てられたのかを確かめて答えを読み上げる。


「正解だ。眠いのはわかるけどもう少しだから頑張れよ。じゃあ(3)をーー」


来た……!


「大野!」


「はい!えっと……」


どうにか深く息を吸って、大野はノートに書かれた途中式に目をやる。


恐る恐る式を読み上げるその時さえ、バクバク鳴る心臓を抑えるのに必死だった。


「ーー.04÷2=56.52……。」


小さく途切れる声に、後を追うチョークの音がピタリと止まる。


先を促す声が響き、じっとりとした無数の視線に思わず怯みそうになるのをグッと堪えて大野は続く言葉を絞り出した。


「すみません……この先はまだ計算できてないです。」


「そうか……。それじゃあ、誰か他にわかる人ーー」


ーーよかった、助かった。


思いのほか早く解放されて、大野はほっと息をついた。


これでやっとまともに息ができた気がする……いずれ当てられることを一度確信してしまうと、それが終わるまではとてもじゃないが安心なんてできない。


冷たい視線がすっと興味を無くしたようにこちらを離れるのを遠くに感じながら、大野は黒板の上にある時計に目をやる。


一方では次々と上がる挙手から指名されたただ一人が、続く答えを大野に代わって読み上げていた。


「正解だ。それじゃあ(4)をーー」


授業は個人の意思とは無関係に進んでいく。


どうして皆は最近習ったばかりのものを坦々と使いこなせるのだろう、と大野は思った。


教科書のページをめくってはいちいち公式を確認して、そうじゃなくても計算の速さがまず追いつかなくて、焦りながらどうにか答えを考えてはこちらはその問題を当てられないことを祈るばかりだというのに。


それがまだ得意不得意とか、好き嫌いみたいな「個人差」で片づけられるものならまだよかった。


酷い場合は自分一人に限らずほとんどが手も足も出ずに考えている問題さえも、見渡せばきまって何人かは多少の迷いを覚えつつも決して鉛筆を握る手をやめないのだ。


彼らを評する声はいつだって遥か遠く、星のように眩しかった。


彼らははたして何を……一体どんな世界を見ているのだろうか。


「じゃあ今から練習用のプリントを配るのでもらった人から順に始めてください。早く解けた人はぜひわからない人に教えてあげるといいな!」


今度はプリントか……。


前からまわってきたそれを一枚とって後ろにまわしていると「先生ー」と誰かが声を上げた。


「席を立って教えに行くのはいいですか?」


「いいぞ。あぁ、でもすぐに答えだけを教えないようにな。できるだけ一緒に考えて、どうやって答えを出すのかがわかるよう教えるように。」


別に答えだけ教えてくれてもいいのになぁと名前を書きながら大野は思った。


いざ問題に目をやると、様々な図形が大野を見つめ返してくる。


どれだけ考えたって、難しい問題はただの模様にしか見えないのに。


プリントの端に書いた公式を見ながら机に筆算を書いては消して、空欄をうめる作業を大野は続ける。


先生は最後に明日の授業で答え合わせをする旨を伝えると、難航する大野を差し置いて一人、また一人と解き終わった生徒が席を立ち始めてなんとなく落ち着かない。


「なぁ、こっそり答えだけ教えてくれよ。俺これ宿題になったら嫌なんだよ……。」


「えー。代わりに今日の給食のおかず多めによそってくれるならやるけど……」


「わかった、やるよ!約束する!」


「よし!じゃあ(4)の式からな……。」


けれども解き終わった人が多いからといって、このクラスが優秀だとかプリントが簡単だということにはならないのだ。


そして時に、このような巡回する先生の目をかいくぐった「闇の取引」が人目を忍んでひっそりと行われる。


ーーよし、今日は運がいいぞ!


大野は途中で止まっている式を消しゴムで強くこすって消すと、近くの席で行われるそれにじっと聞き耳を立てる。


「どの問題を考えているんだ?大野」


フレンドリーな声に思わずビクッとした大野が顔を上げると、ニコニコと人の良い笑顔がこちらを見つめ返していた。


「えっと、(4)です……先生。」


「(4)か。(4)はな……。」


盗み聞き作戦はあえなく中止となったわけだが、それでも親身になって教えてくれる声が、無意識に折原と重なる。


席が近かった時は皆で囲んで教えてもらっていたけれど、いつしか彼が誰かに教えるために席を立つことが少なくなってからはそんな機会もなくなってしまった。


折原になら言えるのにな……と大野は思った。


折原になら、なんだって恐れずに聞くことができるのに。


何を聞かれたって思考がまとまらない……わからないことが多すぎて、何がわからないのかわからなくなってしまった。


わからないならちゃんと聞くべきだ、と頭ではわかっていた。


けれども「こんな簡単なものもわからないの?」と思われるのが怖くて、どうしても先に進めなかった。


何もできない奴だと思われるのが怖い……どうしようもない奴だと思われるのが怖い。


チャイムが鳴ると仲のいいグループで集まって手を洗いに行く皆に混じって給食当番のやつが何人か急いで手洗い場の方へと走っていく。


そんな様子を横目で見ながら大野は机の上のゴミを集めるとゴミ箱のある教室の前方へとゆっくりと足を進める。


どうすればいいかを語るのは簡単だが、現実はそううまくいくはずもないこともわかっていた。


結局のところ己の無知を曝け出すのが怖くて、誰かに聞くのも億劫になっていく自分が忌々しくて、嫌になるのだ。



夏を目前にした生徒たちは年齢を問わずどこか賑やかで活気に満ちている気がする。


植物と同じで今が育ち盛りの子どもにとって体力な気力は一時的に衰えることはあったとしても、決して尽きることを知らない。


多感な高学年も気が散りやすい低学年も、娯楽と楽しみの前には無力なのだ。


「ほらほらこっち来いよ、大野!」


「こっちだこっちーー来た!逃げろっ」


走り回る生徒たちの声が響く昼休みの校庭で 伸ばした手が空を切ると、二手に別れたクラスメイトは散り散りになって大野を笑う。


「ちっ……!待て!」


せっかく追い詰めたと思ったのにまたふりだしに戻ってしまった。


肩で息をしながら大野が立ち止まると、汗がグラウンドにポタポタと落ちるのが見えてグッと唇を噛む。


恒例だった鬼ごっこも、最近はもう何が楽しいのかよくわからなくなってきた気がする。


じゃんけん、多数決、誰かの指示……めっきり鬼になることが増えてからは心なしか皆の態度も冷たくて、そうしているとどこにも居場所がないような……誰にも必要とされてないような気分になって、酷く落ち込むのだ。


本当の友達ってなんだろう。


それよりも、彼らは友達といえるのだろうか。


彼らは自分のことを「友達」だと思っているのだろうか。


問いただすのはきっと簡単だろう。


それでも今になってそんなことを聞けるはずもなくて、疑惑が確信に変わる前に気づけば今日もまた笑って口を閉ざしている。


そんなことをしても全部見透かされているんじゃないか……考えないようにしている不安はいつだって唐突に、こうやって思考を掻き乱していく。


「ーー痛!……なんだよ、これ」


腕を襲う衝撃に思わず大きな声を出してしまったが、振り返ると見慣れた休み時間用のボールが少し離れた足元に転がっている。


どこの誰が投げたのかわからないが、どうやら腕に当たったのはこれらしい。


「ごめん!怪我してないかーーー」


その声に大野が顔を上げると、こちらに気づいた相手の声がすっと低くなって目つきが変わる。


「……なんだ、お前か。」


ーー何かと思えば、あいかわらず偉そうに。


大野が毅然きぜんとして睨み返すと二人の視線は強く、真正面から激しく衝突する。


一対一で話す機会はなかったが、初対面というにはあまりにも意地が悪く人を小馬鹿にする態度には見覚えがあった。


かつては休み時間のたびにこぞって場所を取り合い、折原やかなめと一緒に揉めに揉めた上級生グループの一人が、今まさに大野の目の前に立っていた。


「謝れよ。ついにボールさえまともに投げられなくなったのか?」


「いいから返せよ。そっちこそ、そんなところで一人ぼっちで惨めみじに突っ立ってんじゃねーよ!」


「……あぁ、そうだな。」


冷たく答える大野の声に、さっと相手の笑みが消える。


体を時計回りに動かすこと約90度……大野は感情のままに手に持っていたボールを力いっぱい放り投げると、それは大きな弧を描いて運動場の遥か遠くへと転がっていく。


「なっ……てめえ、ふざけんなよ!!!」


「お前のせいだろバーカ!!」


八つ当たりされたらおっかない……鬼ごっこをしていたことを思い出して大野が走り去ると、それにしたがって罵声も遠ざかっていく。


目の前で悔しそうに歪んだ顔があまりに愉快で、大野は声を出して笑った。


あれだけ遠くては取りに行くのもさぞ苦労するはずだ……さんざん意地悪な態度をとられていた仕返しに、 胸の奥につっかえてた不満がみるみるうちに消えていくのがわかる。


すぐにチャイムが鳴らなかったのがきっとせめてもの救いだろう。


運がよかったな、と心の中で嗤いながら大野は隙を見てクラスメイトの一人の背中に触れる。


ーー嫌なこともあるがそればかりじゃない。


楽しくないこともあるが、辛いことばかりでもない。


仄暗い憂鬱に苛まれては人生はそれだけではないことを思い出して、苦悶と安堵を繰り返す日々は何も成さないまま過ぎ去っていく。


事態が大きく転落したのは七月のある日だった。


「もうすぐ七夕かぁ……みんなの家って笹飾ったりする?」


ある休み時間にそう誰かが口を開いた。


その場には大野と折原の他に数人のクラスメイトがいて、七夕の話題はそんな流れの中でごく自然に振られたことがわかった。


「俺の家はそういうのはないかな……お前の家は飾るのか?」


「多分な。俺の家は妹が幼稚園で笹もらってくると思うからそれを飾ると思う。」


七夕かぁ……。


昔は短冊に願い事を書いて飾ったりしていたな、と大野は思い出した。


七夕祭りに行ったり、短冊を書いて笹に飾ったり、他にも折り紙を切って色々な飾りを作ったりなど、昔の方が行事をもっと楽しんでいた気がする。


願い事を笹に飾らなくなったのはいつ頃だっただろうか。


こうして考えると一年に一回の貴重な日を「そうなんだ」程度で終わらせてしまうのは少し寂しいことのような気がする。


「大野の家は?」


「たぶん飾らないと思う。……昔とかはちゃんと飾ってたはずなんだけどな。」


「たしかに昔は俺も毎年飾っていたな……。」


「年をとるとなんか飾らなくなるよね」


「わかるわかる。木村のとこみたいに兄弟とかいるとまた違うかもしれないけど、俺もいざ飾ろうってなったら願い事とかどこまで本気で書けばいいのかわかんないもん。」


「確かに短冊を書くのって難しいよなぁ。みんなに見られるってわかってると何書いていいかわからなくなるというかさー」


「わかる。あれって個性でるよな。俺も道端とかで見かけるとついつい面白いのないかなって探しちまうんだよな。」


あるある、十人十色ってやつだな……多岐にわたる相槌には例外なく大野自身のものも含まれている。


「テレビとかでもたまにやってるよね。年のわりに妙に貫禄があったり、欲望に忠実なやつ。」


「一億円くださいとか、小さい字で端から端までびっしり書いてあるやつとかな。」


「あるある。俺なんてこの前『最初から全員に同じ数だけ飴を買ってきてください』っていうの見て笑っちゃってさ!塾の前だったからたぶん割り算のテストとかだと思うんだけどなんだか懐かしくてよ……!」


「あれってなぜか毎回人数分買わずにわざわざ後で分けようとするんだよな……。俺も『鶴と亀がちゃんと並んでいますように』って書いたことあるから親近感があるな!」


「ーー鶴と亀?」


誰かが不思議そうにあげた声に便乗して大野も目をやる。


「鶴は足が二本だけど、亀は四本あるだろ?並んでいる鶴と亀の数の合計と足の数の差を使って、鶴と亀がそれぞれ何匹づついるのかを求める問題があるんだよ。」


素朴な疑問を前に、彼は嫌な顔一つすることなくそう答えた。


「うわっ、そんな問題があるのか……。」


「まあパターンは決まってるから楽なんだけど、いちいち面倒くさいんだよ……あれ。」


「懐かしいなぁ。頭と足の数がわかるならちゃんと整列させて数えとけよって俺も思ってたもん。 たまにカブトムシとか八咫烏が混じっているともっと面倒くさいんだよなぁ……。」


「お前らも大変だな……。それで話は変わるんだけど、面白い短冊がないかなって探しているとむしろ純粋すぎる願い事を見つけちゃって、逆にこっちが恥ずかしくなることってないか?」


「あるある!」


「俺も『織姫と彦星がちゃんと会えますように』っていうのを見た時は眩しすぎてまっすぐ見れなかったな……。」


「うわっ、そんなこともう俺書けないよ……。」


「穢れた存在になっちまったってことなんだろうなぁ……。」


思い当たる節に苦笑いを浮かべながらそれぞれの体験談を話すうちに、気づくと話題は互いの将来の夢へと変化していた。


「俺は小説家とかちょっと気になっててさーーみんなはもう将来の夢とか、決まってる?」


将来の夢、か……。


小説家を挙げた彼は作文が得意なだけではなく、いつだって面白い話をもっている奴だった。


彼ならきっと、誰もがあっと驚くような物語を書いてみせるだろう。


何かの賞をもらったりサイン会を開いている姿がなんとなく想像できて、言うなればそれは彼によく「似合っている」気がした。


「俺は医者かな。……色々大変だしまだまだ程遠いけど、やっぱり父さんみたいな医者になりたい。」


スポーツ選手やエンジニア、漫画家とそれぞれが夢を語る中……ポツリと明かされたそれには確かな重みがあって、大野を含む数人は微かに目を見開く。


折原ならなれるよ!と誰からともなく口を開いた。


「あぁ!きっといい医者になれると思う!」


「俺もそう思う!……勉強だって俺なんかよりずっと頑張ってるし、すごい頭良いじゃん!」


「俺も!ていうか、もし折原でだめだったら逆に誰がなれるんだよ?」


「でもそれだけじゃだめなんだよ……。気持ちは嬉しいけど、今からだってもう差はついてるんだ。ーー日本中で俺より頭がいい奴がそれ以上に頑張ってるのに、安心なんかできないよ。」


「やめろって、そんなこと考えたらキリがないぜ?それだったら俺なんて世界中に敵がいるんだ。考えたって無駄無駄……あー、でもそれなら向こうの国の子どもの方がもっと小さい頃から練習していたりするんだよなぁ……」


「お前まで悩むなよ!」


スポーツ選手を目指す彼への言及は笑い混じりに終わった。


……プロの選手になるということは世界中の無数のライバルと戦うことを意味している。


生まれた環境も条件も違うからといって、それを恨んでいるだけではどうしようもないのだ。


無数の期待と重圧を背負いながらも、コートの上ではいつだって彼らは孤独なのだ……どれほど頼りになる戦友なかまだって試合に出るためには枠を争うこともある。


ーーどんな時だって、信じられるのは自分自身しかいない。


その上で勝利を求めて歴史に名を残し、人々の記憶に焼きつくのが至高だとするならば……彼の言う通り、夢とは途方もないものなのかもしれない。


「それにしても意外だな、大野が船乗りになりたいなんて。」


「え、そうか?」


驚きを隠せない声に「それ俺も思った!」と声が重なる。


「船乗りってかっこいいよな!憧れる気持ち、俺にもよくわかるよ。」


「何かきっかけとかあったのか?」


「……あぁ、実はそうなんだ。話せば少し長くなるんだけどよ……。」


大野の脳裏に親友の顔が浮かんだ。


たった一つしかない、宝石のように眩しく輝く夢を共有した俺の親友。


いつまでも一緒にいられると信じて疑わなかったことに後悔したのは過去のことだ。


照りつける真夏の太陽の下、あるいは雷鳴の轟く荒れ狂う大波を前に、どんなことがあったって二人の絆は決して揺らぐことはない。


いつだって真っ白な制服を着た二人はどんな困難も乗り越えて、世界中の海をどこまでも、どこまでも遠く冒険する……


「それ、大野には無理なんじゃないの?」


語る夢は意外な声に遮られた。


「そんなの非現実的だし、無謀だよ。世界中を回るなら英会話とか地理の知識は絶対に必要だし、船を動かす工学だって大元は理科と数学なんだ。 どこをどう考えたって、今のお前なんかがなれる職業じゃないだろ。」


嘲笑う声に怒るよりも先に、驚いて息ができなくなった。


大きく見開いた目と、そこ映る歪んだ笑みに心臓が大きく脈打つ。


声の代わりにヒューヒューと短い音が漏れて、 じっとりと嫌な汗が滲んだ。


不気味な沈黙の中、全身を巡る鼓動と衝撃で少しずつ冷静を取り戻していくと、今度は湧き上がる確かな感情が代わって全身を支配していく。


理屈や動機を置き去りにして、言われた言葉のその意味をーー少しずつ理解していく。


「な……何だよ。何言ってんだよ、折原!」


「何って、事実を言っているだけじゃないか。そんな口先だけの夢物語、叶うわけないって言ってるんだよ!」


敵意をあらわにした鋭い目に、やっとのことで絞り出した震え声もそれ以上は続かなかった。


なんでだよ……一体どうしちまったんだよ、折原!


言われたこともショックだが、何よりも折原がそんなことを言うなんて信じられなくて、縋るように大野はその瞳を見つめる。


「……たしかに、ちょっと無謀だよな。」


呟くような誰かの声に、心臓がギュッと掴まれたような心地がした。


「あぁ。大昔じゃあるまいし、そうだとしても大野には無理な夢なんじゃないか?」


「大体、今習ってる勉強だって全然できてないじゃねーか!みんな言ってるぜ。大したことないのに意地っ張りで、えらそうなのはいっつも口先だけだってな! 」


「船に乗るなら船乗りより漁師とかにしとけって。それなら大野にだってできるだろ!」


こだまする笑い声にぐらりと大きく視界が揺れた。


好き放題言われて、馬鹿にされるのが悔しくて、情けなくて、握った手に突き立てた爪がわなわなと震える。


……だが、彼らの言う通りだった。


誰のどの教科をもってしてもその学力はこちらが劣る……それは紛れもない事実だった。


仮にこちらが足し合わせてもなお、勝てるかどうかはわからないだろう。


感情論では何が返ってくるのかわからなくて、行き場の失った思いだけがぐるぐると渦巻く。


しばらくして俯いた顔を上げると、もうそこには誰もいなかった。


酷い眩暈がする……。


見捨てられたのだ、と大野は思った。


疑念も正義も意味がないほどに、彼らにとってあの場の真実はどこまでもただ一つだったのだ。


たとえ誰か一人でも「そんなことないよ」と言ってくれたなら……どれほど救われただろう。


鋭く穿つ正当性に何一つ否定できなかった自分が重なって、思い出そうとすると息が詰まった。


だめだ……そんなのは今考えるべきじゃない。


大野は目元を軽く押さえると、何度も深呼吸を繰り返した。


このままでは裏切り者だ……今のままではどうしたって、杉山に顔向けなんてできない。


幸いにも彼の中の俺はまだあの頃の大野けんいちのままなのだ……彼の中の幻想を、崩すわけにはいかなかった。


胸を張って、自信を持って会えるくらいじゃないとだめなんだ……俺の知る杉山はそういう男じゃないか。


けれどもし、杉山にも幻滅されてしまったら……。


冷たい言葉を投げかけられる想像を慌ててかき消すと、嫌でもまだ自分が動揺していることがわかってしまう。


グチャグチャになった心を綺麗さっぱり洗い流したい。


言われたことを全部忘れて、全てをなかったことにしてしまえたら……きっと俺は楽になれるのに。



「ケンちゃん、話があるの。」


数日後、いつになく真剣な面持ちで告げる母親の手には一枚の広告が握られていた。


夕食を作る途中だったのか、エプロンをつけた姿でまっすぐにこちらを見据えている。


「夏休みに入ったら一ヶ月、ケンちゃんには〇〇塾の夏期講習に行ってもらうわ。今のケンちゃんの学力のこと、お父さんと話し合ってちゃんと決めたの……嫌ならお父さんからも言ってもらーー」


「……あぁ、わかったよ。」


「えっ」


早すぎる返答に、母親は驚いて目を見開いた。


「本当なの、ケンちゃん! 夏期講習よ?あんなに勉強を嫌がってたのに、一体どうして……!」


「それはわかってるよ、母さん。その……何というか、俺もちゃんと勉強をしないとなって、最近ちょっと思ってて……」


家であの忌々しい出来事を話したことは一度もなかったが、考えるきっかけになったのは確かだった。


続く言葉に感銘を受けたのか、目の前の母さんはパッと顔を明るくするとけんいちを強く抱きしめて言った。


「よかった……!やっとケンちゃんもわかってくれたのね!私たちができることなら応援するからね、ケンちゃんも頑張るのよ!…… お父さんも最近は仕事で忙しいけれどケンちゃんのこと応援しているって言ってたわ。よかった……本当に良かった……!」


「ちょ……苦しいよ、母さん!」


こんなにも嬉しそうな母さんを見たのは久しぶりだ。


あまりの変化に驚きながらも、けんいちはそれだけ長い時間……自分のせいで母親に心配をかけていたのだということに気がついた。


今できることの第一歩はこの思いに報いることだろう……けんいちはゆっくりと目を細めると、温かいぬくもりに身を委ねる。


塾の夏期講習に行くことは、杉山への暑中見舞いにも書くことにした。


なんとなく書くことに困っていた大野には良くも悪くも渡りに船だったのだ。


葉書を書いたのは去年の年賀状以来だったが 引き出しを開ければそこに、今年の干支の絵の書かれた葉書と、その横に添えられた彼の字がいつだって目に入ってくる。


夜になると、話を聞いた父さんにその姿勢を褒められてけんいちは少し照れくさかった。


その日は久しぶりに家族三人でご飯を食べると、お互いの色々な話をして、お互いによく笑った。


夜になって寝るために自分の部屋に戻ってきたけんいちは静かに息をついた。


まだ始まったわけじゃない……問題はここからなのだ。


絶対に見返してやる……絶対に、絶対に。


ふと、いざ夏期講習に行ったら何から手をつけるのだろうと大野は思った。


例の塾は建物自体は何度か見かけたことがあるが、人生で一度も塾というものに行ったことがないせいで中がどうなっているのかは見当もつかない。


まあ行けばきっとわかるだろう……その日になれば大抵のことはどうにかなるのだ、こういうのは……。


ストンと眠りに落ちるその時にはもう、心配はどこか遠いものになっていた。


……夏はもう、すぐそこまで近づいている。


固い決意とは裏腹に、それでもただ一つ、大野は人の変わったような折原の声だけが今でも気がかりだった。


“そんな口先だけの夢物語、叶うわけないって言ってるんだよ!”


……辛い記憶には蓋をするのが一番だ。


あれ以来、折原とはなんとなく顔を合わせない日々がズルズルと続いている。


だからといってわざわざ思い出す意味なんてない……今までだってそうしてきたはずなのに、なぜか心の奥底がざわざわする。


俺の知っている折原は、本当にあんなことを言う人間なのだろうか。


こちらを射抜いたあの目は、針の雨を浴びせるようなあの言葉は、本当に折原の本心だったのだろうか。


自分だけが知らなかったとか、彼の本性は実はそうだったという可能性もあるはずなのに、大野にはそれは真実なのかただの現実逃避にすぎないのかわからなかった。


平穏そのものだった彼らとの談笑も、信じたくない嘲笑や、その後の罵声も……いったいどこまでが本当で、何が真実なのだろう……。


知りたいけど、知りたくない……食い違う記憶と思い知った真実とのギャップでくらくらする……。


夜も朝も、家でも学校でも……その葛藤はふとした時について回って、いつまでも大野のもとを離れなかった。

ちびまる子ちゃん 大野くん悲しみの東京生活(仮)

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