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仁人side
どうして、こんなことになったんだろう。
仁人は壁に背を預けたまま、動けずにいた。
薄暗い部屋。
使われていない机。
壁際に積まれた椅子。
閉まりきっていない扉から、廊下の明かりが細く差し込んでいる。
さっきまで。
何でもない場所だった。
仕事を終えて。
いつものように帰るだけだった。
明日も仕事がある。
早く帰って。
風呂に入って。
何か食べて。
寝る。
それだけだった。
なのに。
今は一人。
床に座り込んでいる。
仁人は自分の身体へ視線を落とした。
シャツは大きく乱れていた。
いくつかのボタンがなくなっている。
襟元は引っ張られたように歪み、片方の袖口も破れていた。
さっきまで着ていたはずの服なのに。
自分のものじゃないみたいだった。
直さなければ。
そう思った。
このまま外には出られない。
誰かに見られる前に。
せめて。
服くらい。
仁人は残っているボタンに指をかけた。
穴に通そうとする。
けれど。
指先が震えていた。
一度。
外れる。
もう一度。
また外れた。
「……っ」
違う。
こんなの。
いつもなら何でもない。
ボタンを留めるだけだ。
それなのに。
できない。
仁人は唇を噛んだ。
震える指を押さえつけるように握ってから。
もう一度。
それでも。
できなかった。
「……なんで」
掠れた声が落ちた。
とうとう諦めて。
シャツの前を両手で掴んだ。
隠すように。
強く。
握りしめる。
そのとき。
自分の手が身体に触れた。
たったそれだけだった。
なのに。
仁人の肩が跳ねた。
「……っ」
咄嗟に手を離す。
さっきまで。
自分ではない誰かの手が触れていた。
腕も。
肩も。
身体も。
嫌だと言っているのに。
勝手に。
何度も。
思い出した瞬間。
胃の奥がひっくり返るような気持ち悪さが込み上げた。
「……やだ」
自分の身体なのに。
触ることさえ嫌だった。
まだ残っている気がする。
もう誰もいないのに。
何もされていないのに。
触れられた感覚だけが。
身体に残っている気がした。
消したい。
全部。
今すぐ。
風呂に入って。
何度も洗ったら。
なくなるだろうか。
そんなことを考えて。
仁人はすぐに目を閉じた。
考えたくなかった。
怖かった。
嫌だった。
何度も嫌だと言った。
やめてほしいと言った。
離してほしいとも言った。
逃げようとした。
抵抗もした。
それでも。
止まってくれなかった。
自分の声なんて。
最初から聞くつもりがなかったみたいに。
何度拒んでも。
何度身体を離そうとしても。
どうにもならなかった。
それが。
怖かった。
でも。
それと同じくらい。
気持ち悪かった。
知らない人に。
自分の意思なんて関係なく触れられたことが。
どうしようもなく嫌だった。
仁人は腕を擦ろうとして。
手を止めた。
触れたら。
また思い出しそうだった。
何をしても。
あの感覚につながってしまう。
仁人は強く目を閉じた。
思い出したくない。
もう終わった。
あの人はもういない。
今、この部屋にいるのは自分だけ。
分かっている。
ちゃんと分かっているのに。
身体だけが。
まだ分かってくれなかった。
腕に力が入らない。
足も震えている。
呼吸も浅い。
少し気を抜けば。
さっきの感覚が戻ってくる。
押さえつけられたこと。
逃げようとしても動けなかったこと。
嫌だと言った自分の声。
そして。
自分のものなのに。
自分ではない誰かに勝手に触れられた身体。
「……っ」
気持ち悪い。
仁人は口元を押さえた。
吐きそうだった。
でも。
何も出なかった。
ただ。
身体の内側から込み上げてくる嫌悪感だけが消えてくれない。
仁人は耳を塞いだ。
「……やめて」
誰もいない。
もう何もされていない。
それなのに。
声が出た。
「……もう、やめて」
自分の声を聞いた瞬間。
胸の奥が大きく揺れた。
仁人は口元を押さえた。
泣くな。
泣いたところで。
何も変わらない。
帰らなければ。
とにかく。
ここから出なければ。
帰って。
風呂に入りたい。
全部洗い流したい。
何も残っていないと思えるまで。
そうしたら。
少しは元に戻れる気がした。
壁に手をつく。
力を入れて。
身体を起こそうとした。
けれど。
膝が震えた。
次の瞬間。
身体が崩れた。
「……っ」
床に手をつく。
立てなかった。
もう一度。
壁を掴む。
今度こそ。
そう思っても。
足に力が入らない。
「……なんで」
早く帰りたい。
ここにいたくない。
誰にも見つかりたくない。
何も聞かれたくない。
なのに。
立つことすらできない。
悔しかった。
自分の身体なのに。
自分の言うことを聞かない。
さっきだって。
そうだった。
嫌なのに。
逃げたいのに。
どうにもできなかった。
そのことを思い出して。
仁人は動くのをやめた。
壁に背中を預ける。
膝を抱えようとして。
途中で手が止まった。
身体に触れることさえ。
今は嫌だった。
仁人はそのまま手を下ろした。
何をすればいいのか分からない。
帰りたい。
でも。
外に出るのが怖い。
廊下で誰かと会ったら。
エレベーターで誰かと二人になったら。
近くに立たれたら。
それだけじゃない。
もし。
肩がぶつかったら。
腕に触れられたら。
想像した瞬間。
さっきの感触が蘇った。
「……っ」
仁人は浅く息を吸った。
違う。
落ち着け。
大丈夫。
いつもみたいに。
そう思うほど。
呼吸がうまくできなくなる。
大丈夫じゃない。
そのことを。
自分が一番分かっていた。
仁人は顔を伏せた。
誰にも会いたくない。
誰にも見られたくない。
誰にも触られたくない。
でも。
一人でいるのも。
怖かった。
矛盾している。
自分でも分かっている。
誰かに来てほしいのに。
誰にも来てほしくない。
どうしたらいいのか。
分からなかった。
どれくらい。
そうしていたのか。
時間の感覚もなくなっていた。
そのとき。
廊下の向こうから。
声がした。
「……仁人?」
身体が強張った。
息が止まる。
誰かいる。
反射的に。
仁人は壁際へ身体を寄せた。
シャツの前を強く掴む。
「仁人?」
もう一度。
聞こえた。
その声を。
知っていた。
勇斗。
そう分かった瞬間。
張りつめていたものが。
ほんの少しだけ緩んだ。
勇斗だ。
知らない人じゃない。
ずっと一緒にいる。
何度も助けてもらった。
自分だって、何度も頼ってきた。
怖くない。
勇斗は。
怖くない。
そう思った。
扉の向こうから足音がする。
一歩。
近づく。
その瞬間。
仁人の身体が震えた。
「……っ」
違う。
勇斗だから。
分かっているのに。
足音が近づいてくる。
それだけで。
身体が勝手に思い出す。
近づいてくる人。
伸びてきた手。
逃げられなかった自分。
仁人はシャツを握る手に力を込めた。
怖くない。
勇斗は違う。
勇斗が自分の嫌がることをするわけがない。
分かっている。
それでも。
震えは止まらなかった。
やがて。
扉がゆっくり開いた。
「……仁人?」
顔を上げる。
そこにいたのは。
やっぱり勇斗だった。
「……勇斗」
名前が口から零れた。
顔を見た瞬間。
安心した。
本当に。
安心した。
一人じゃない。
勇斗がいる。
それだけで。
泣きそうになった。
でも。
勇斗の視線が。
乱れた自分の服へ向いた。
仁人は咄嗟にシャツの前を隠した。
見られた。
「……見るな」
声が掠れた。
こんな姿。
勇斗にだけは。
見られたくなかった。
勇斗の表情が変わる。
「仁人……」
一歩。
勇斗が近づいた。
その瞬間。
さっきの感覚が蘇った。
近づいてくる身体。
伸ばされる手。
触れられる。
そう思っただけで。
「来ないで!」
自分でも驚くほど。
大きな声が出た。
勇斗の足が止まった。
仁人も。
動けなかった。
違う。
そうじゃない。
勇斗が嫌なんじゃない。
勇斗に触られることが気持ち悪いわけじゃない。
分かっている。
それなのに。
誰かが近づく。
誰かに触れられる。
それだけで。
身体が勝手に拒んだ。
「……ごめん」
仁人は俯いた。
「勇斗、ごめん……」
悔しかった。
勇斗なのに。
こんなに安心したのに。
助けてほしいと思っているのに。
近づいてほしくない。
「謝らなくていいよ」
勇斗はそれ以上近づかなかった。
何があったのかも。
聞かなかった。
誰にされたのかも。
聞かなかった。
ただ。
少し離れた場所にいてくれた。
それが。
ありがたかった。
仁人は俯いたまま。
シャツを握っていた。
帰りたい。
一人では帰れない。
でも。
触れられるのは怖い。
勇斗なら大丈夫。
そう思うのに。
今は。
その自信さえなかった。
「……勇斗」
「ん?」
仁人は顔を上げられなかった。
少し迷って。
ようやく口を開く。
「……そこにいて」
情けないと思った。
来るなと言ったくせに。
今度は。
いなくなるなと言っている。
それでも。
勇斗は何も言わなかった。
少しして。
いつもと変わらない声で。
「うん」
それだけ答えた。
勇斗は近づかない。
触れない。
何も聞かない。
でも。
いなくならない。
仁人は俯いた。
ずっと我慢していたものが。
少しだけ。
緩んだ。
目の奥が熱くなる。
泣きたくない。
そう思ったのに。
一粒だけ。
涙が落ちた。
仁人は慌てて拭った。
けれど。
次の涙が落ちた。
その次も。
声は出さなかった。
ただ。
シャツの前を握ったまま。
俯いて。
静かに泣いた。
勇斗は。
何も言わなかった。
そのことが。
今は。
何よりありがたかった。
#snjn
nanana

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コメント
1件
うわ……読んでて、胸がぎゅっとなった。仁人の「身体が勝手に拒む」感覚、すごく細かく描かれてて、自分までもが息苦しくなったよ。理性的には「勇斗なら大丈夫」と分かってるのに、足音だけで震えが止まらない、その矛盾がリアルで…。そこにいてくれるけど触れない、何も聞かない勇斗の距離感、あの優しさが本当に沁みた。仁人の涙、一緒に泣きそうになった。続きが気になる。