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勇斗side
仕事を終え、勇斗は駐車場へ向かっていた。
予定より少し遅くなった。
明日の入り時間をスマホで確認しながら廊下を歩いていると。
足元に何かが落ちているのが見えた。
「……ん?」
スマホだった。
誰か落としたのか。
拾い上げて。
勇斗は眉を寄せた。
「これ……」
見覚えがある。
仁人のスマホだった。
「なんで?」
もう帰ったと思っていた。
落としたことに気づかず、そのまま帰った。
そう考えることもできた。
でも。
妙に引っかかった。
仁人が。
スマホを落としたまま気づかないなんて。
ないとは言えない。
それでも。
何となく。
嫌だった。
この感じが。
「仁人?」
呼んでみる。
返事はない。
静かな廊下に、自分の声だけが響いた。
勇斗は周囲を見回す。
そのとき。
少し先にある扉が目に入った。
普段なら気にも留めない場所。
そのうちの一つが。
わずかに開いていた。
勇斗の表情が変わる。
「……仁人?」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
胸の奥がざわついた。
考えすぎだ。
そう思いたかった。
ただの偶然。
スマホが落ちていて。
たまたま扉が開いているだけ。
それなのに。
足が勝手にそちらへ向かっていた。
近づくほど。
嫌な予感が強くなる。
扉の前で足を止める。
「……仁人?」
やはり返事はない。
勇斗は扉に手をかけた。
「……開けるよ」
ゆっくり押す。
薄暗い部屋。
使われていない机。
壁際に積まれた椅子。
その奥に。
#そのじん
のりもちさん
361
1,897
人がいた。
壁際に座り込んでいる。
顔を伏せたまま。
動かない。
「……仁人?」
その姿を認識した瞬間。
勇斗の身体が固まった。
仁人だった。
でも。
一目で。
何かがおかしいと分かった。
乱れたシャツ。
なくなったボタン。
引っ張られたように歪んだ襟元。
破れた袖口。
シャツの前を両手で押さえている。
その指が。
震えていた。
「……」
頭の中が。
一瞬、真っ白になった。
どうして。
なんで仁人が。
こんな。
勇斗は息を飲んだ。
胸の奥が急激に冷えていく。
「……仁人」
名前を呼ぶ。
仁人の肩が大きく揺れた。
それだけで。
勇斗の中にあった嫌な予感が。
さらに形を持った。
ゆっくり顔が上がる。
「……勇斗」
顔色が悪い。
目元は赤い。
泣いた跡がある。
勇斗は何も言えなかった。
見れば分かる。
何かあった。
それも。
軽いことじゃない。
「……何があった?」
声が低くなる。
仁人の指が。
シャツを強く握った。
隠すように。
その動きを見た瞬間。
胸の奥に。
嫌な想像が走った。
勇斗は奥歯を噛んだ。
誰が。
そんな言葉が浮かぶ。
でも。
今は違う。
聞くべきじゃない。
今の仁人に。
何があったのかを言わせるべきじゃない。
「仁人」
一歩。
近づこうとした。
その瞬間。
「来ないで!」
鋭い声が響いた。
勇斗の足が止まった。
心臓が大きく跳ねる。
仁人自身も驚いたように目を見開いている。
「……ごめん」
すぐに顔を伏せた。
「勇斗、ごめん……」
その姿を見て。
胸が締めつけられた。
「謝らなくていいよ」
できるだけ。
いつもと同じ声で言った。
本当は。
全然いつも通りじゃなかった。
何があった。
誰がやった。
どうして仁人が。
そんな言葉ばかりが頭の中を回っている。
でも。
出したらだめだと思った。
今。
自分まで取り乱したら。
仁人をもっと怖がらせる。
勇斗はそれ以上近づかなかった。
少し離れた場所にしゃがむ。
「俺、ここにいるから」
仁人は何も言わなかった。
勇斗は視線を少し外した。
見られることすら。
今は嫌かもしれない。
仁人のスマホを、自分のポケットへしまう。
手のひらに力が入っていた。
気づけば。
拳を握っている。
誰が。
こんなことをした。
考えるだけで。
怒りが込み上げた。
でも。
今は。
その怒りすら邪魔だった。
仁人の前で出すものじゃない。
勇斗はゆっくり息を吐いた。
落ち着け。
今は。
仁人だけ見ろ。
しばらくして。
小さな声が聞こえた。
「……勇斗」
「ん?」
「……そこにいて」
勇斗は仁人を見る。
俯いたまま。
こちらを見ようとはしない。
それでも。
いなくなってほしいわけじゃない。
そのことだけで。
少し胸が緩んだ。
「うん」
それ以上は言わなかった。
ただ。
そこにいた。
どれくらい経ったのか。
仁人が小さく息を吐いた。
それから。
「……帰りたい」
「うん」
勇斗は立ち上がる。
「帰ろ」
仁人が壁に手をついた。
ゆっくり身体を起こそうとする。
その途中。
膝が大きく揺れた。
身体が傾く。
「仁人」
勇斗は反射的に手を伸ばした。
でも。
触れる直前で。
止まる。
さっきの声が蘇った。
来ないで。
勇斗は手を引いた。
支えたい。
こんな状態で一人で立たせたくない。
でも。
自分が触れることで。
仁人がもっと苦しくなるかもしれない。
それだけは。
絶対にしたくなかった。
「無理しなくていいよ」
仁人は首を横に振った。
「……帰りたい」
「分かった」
勇斗は待った。
仁人が自分で立ち上がるまで。
急かさない。
近づかない。
ただ。
倒れそうになったらすぐ動ける距離にはいる。
やがて。
仁人が壁から手を離した。
一歩。
足を出す。
ふらつく。
勇斗の手がまた動きそうになる。
それを。
止める。
仁人は歩いた。
ゆっくり。
一歩ずつ。
勇斗もその隣を歩く。
少し距離を空けたまま。
部屋を出る。
廊下に出たところで。
仁人の足が止まった。
勇斗も止まる。
「……勇斗」
「ん?」
仁人は何も言わない。
視線を落としたまま。
指先だけが少し動く。
次の瞬間。
勇斗の袖に。
小さな力が加わった。
仁人が。
服の袖を掴んでいた。
ほんの少し。
指先だけで。
勇斗はその手を見る。
まだ。
震えている。
「……これなら」
掠れた声だった。
「大丈夫だから」
その言葉が。
胸に刺さった。
これなら。
大丈夫。
今の仁人にとって。
自分に触れることさえ。
大丈夫かどうか確かめなければならないことになっている。
勇斗は何も言えなかった。
少しして。
ようやく。
「うん」
それだけ答えた。
手は握らない。
肩も抱かない。
仁人が自分で決めた距離を。
絶対に変えなかった。
そのまま。
二人で歩き始める。
いつもなら。
勇斗の方が歩くのが速い。
気づけば仁人が少し後ろにいて。
早い。
そう文句を言われることもある。
今日は。
仁人が隣にいる。
袖を掴んだまま。
一歩ずつ。
ゆっくり歩いている。
勇斗はその速度に合わせた。
何があったのか。
誰がこんなことをしたのか。
考えれば。
今すぐにでも確かめたかった。
探し出したかった。
許せるわけがなかった。
でも。
今は。
それより仁人だった。
仁人が帰りたいと言った。
だから帰る。
近づかないでほしいなら。
近づかない。
触れられるのが怖いなら。
触れない。
何があったのか話したくないなら。
聞かない。
今は。
仁人が決めたことに。
全部合わせればいい。
袖を掴んでいる指が。
まだ少し震えている。
勇斗はそれを見て。
また胸の奥に込み上げたものを押し込めた。
何も言わず。
歩く速度を。
もう少しだけ。
ゆっくりにした。
コメント
1件
うわあ……第2話、すごく重くて苦しくて、それでいて優しいお話でしたね。勇斗の「今は仁人だけ見ろ」って自分に言い聞かせる感じ、胸が締め付けられました。触れたいけど触れられない、近づきたいけど距離を保つ…その葛藤の描き方が丁寧で、読んでいて自分も息を詰めてしまいました。最後に袖を掴む仁人の「これなら大丈夫だから」って言葉、切なすぎます。お互いを思いやる気持ちがひしひし伝わってきて、続きが気になります…!