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「私のほうが稼いだら離婚して! 土下座して謝って!」
奈緒は叫んでいた。
この男と一緒では絶対に不幸になるとの確信が、奈緒を突き動かしていた。
「なっ…!」
史博は一瞬、驚いた表情をしたが、すぐに鼻で笑ってきた。
「寝言は寝て言え」
そして、いつもと同じようにスマホを弄りはじめる。
「ほら、早く飯作れよ。仕事に遅れるだろうが」
奈緒は何か反論しようとして、止めた。
粛々と朝飯を作り、史博を仕事に送り出す。
その日常が、奈緒をいくぶん冷静にさせた。
(わかってる…)
自身の発言が、荒唐無稽で現実味のないことくらい。
30過ぎで、なんの資格もない子持ちの主婦に、正社員の史博よりも稼ぐ手段があるとは思えない。
(勢いで馬鹿なこと言っちゃった…)
弱気になる。だけど…。
(このままじゃ絶対に不幸になる。男性ランクG。ゴミレベル…)
自分が不幸になるのは、仕方ない。
こんな最低ランクの男を夫に選んだ責任がある。
けれど六花には、なんの落ち度もない。
(…この能力を使って、お金儲けできないかな?)
急に目覚めた人のランクを見る不思議な能力。
まだ現実味はないが、実際に見えるので、事実として受けれてしまっていた。
この能力で正社員の史博よりお金を稼ぐ手段があれば…。
(駄目だ。思いつかない)
しばらく考えてみたが駄目だった。
想像できるのは、地雷男を避けて高ランクの優しい金持ちを見つけることくらい。
だけどそれは、男に依存している生き方に過ぎない。
史博の言う「女を使う」とどう違うのだろう?
もっと自由で自立した生き方を、奈緒は望んでいた。
ふと、玄関の傘が目に入る。
雨の日、ランボルギーニに乗った青年からもらった傘だ。
彼のことは何も知らない。
けれども、あの優しくて余裕のある態度は、奈緒の憧れる自立した人間に違いないと、そう感じられた。
奈緒は傘を開いた。
上品で骨組みのしっかりしたネイビーの傘。
その内側には、晴れた空の絵が描いてあって、ユーモアと情緒に富んでいた。
(素敵…)
どんなつらい時も、明るい空を見て歩けるように…。
そんなメッセージに思えた。
プルルル!
スマホが着信を鳴らした。
ドキリとした。
また何かミスをしてしまったのだろうか?
「え? お父さん」
史博ではなかった。父からの電話だった。
電話に出ると、聞きなれた信秀の声が聞こえてくる。
「さっき母さんに聞いた。喧嘩したんだって? もう大丈夫なのか?」
ぶっきら棒で優しい声だった。
思わず温かいものが込み上げてくる。
もちろん、大丈夫ではなかった。
「ううん。大丈夫じゃない…」
やっとのことで声を出す。
「だったら、帰ってきなさい」
「いいの?」
「ああ、母さんは説得しておく」
(大丈夫かな…)
奈緒は少しだけ不安になった。
信秀は婿入りで、小夜子に頭が上がらない。
信秀の意見が通ったことなど、奈緒の知る限り記憶になかった。
けれども、ここにはもう居たくなかったし、小言は言われても実家を追い出されることはないだろう、と思った。
「六花。おじいちゃんの家に帰ろうか」
六花に話しかけると、六花はきゃきゃっと笑った。
「あ、そうだ。離婚届」
喧嘩で実家に戻るわけではない。
明確な離婚の意志を持って、決別するのだ。
(たぶん、同意はしてくれないだろうけど…)
それでも、自分の名前を書いた離婚届を置いた状態でなければ、ここを出る意味はないだろう。
「役所に行って、まだ戻ってきて…」
市役所までは遠い。
公共交通機関を使うしかない奈緒にとって、子連れの移動は気が滅入った。
それでも、この家から出ていく為だ、と気を奮わせる。
「え?」
奈緒は驚きの声をあげた。
念のためスマホをで離婚届について調べていたところ、とある事実を知ったのだ。
「離婚届って、コンビニで手に入るの!? うそ!?」
なんでもあるのがコンビニだとは思っていたけど、これにはびっくりした。
(気軽なのは良いけど、なんか複雑だなぁ…)
奈緒は早速コンビニで離婚届をプリントアウトし、机の上に広げて置いた。
郵送できるよう封筒と切手も添えておく。
「六花。お家にバイバイしようか?」
六花の小さな腕を握ってバイバイさせて、結婚してから住み始めたこの家を後にした。
実家には夕方前に着いた。
奈緒の実家は山間の小さな村で、一言で言うと田舎だ。
都会にいる人には信じられないだろうが、中に誰か人がいる場合、玄関の鍵をかけない家も多くある。
奈緒は実家の鍵を持ってはいなかったが、ドアに力を入れると、するりと横に開いた。
「ただいま~」
若干小さな声で、帰宅を告げる。
「え? なんで奈緒さんがいるの?」
驚いた声で出迎えたのは、義姉の美晴だった。
奈緒の実家には、兄夫婦が同居していた。
育休を取っていると以前に聞いたことはあったが、まだ続いていたとは知らなかった。
奈緒は少し義姉が苦手だった。
小夜子とは妙にウマが合い、当たり前のように奈緒に小言を言ってくる。
つまり、口うるさい小夜子が増えたようなものだった。
「ちょっと、史博さんと離婚することになって…」
誤魔化してもすぐにバレることなので、正直に答えた。
「ぶはぁっ! ウケる~」
美晴が他人事のように笑った。
いったい何がおもしろいのだろう?
離婚という単語を聞いて、おおよそ人がする反応とは思えなかった。
義姉との会話がないまま、気まずい時間を実家で過ごしていると、認知症気味の祖母がデイサービスから帰ってきた。
ややあって、小夜子も仕事から帰ってくる。
「え!? なんでここに居んのよ!?」
帰ってきた早々、文句を言われた。
「お父さんが帰ってきていいって…。聞いてないの?」
「甘やかすなって言ったんだけどねぇ」
どうやら伝えてはいたが、案の定、断られたらしい。
それを奈緒に伝えなかったのは、帰ってきさえすれば、追い返すことはしないだろうとの判断かもしれない。
「居ちゃ駄目なの?」
「史博さんはなんて言ってるの?
「知らない。離婚届置いて出てきた」
「馬鹿じゃないの? 今すぐ謝ってきなさい!」
案の定、頭ごなしに否定された。
「なんで? 少しくらい話を聞いてくれてもいいじゃない!」
奈緒の剣幕に小夜子はやや気圧されたようだった。
奈緒は小夜子に、史博の酷いモラハラと浮気の件を話した。
「もう耐えられない!」
「で? どうやって生活していくの?」
奈緒はショックを受けた。
血のつながったはずの母親なのに、同情の言葉もなく、すぐに厳しい現実を突き付けてくる。
「それは…」
「それに、長年夫婦をやってれば喧嘩のひとつやふたつくらいするわよ。みんな必死に耐えて夫婦をやってるの」
小夜子が言っても説得力はなかった。
確かに、小夜子と信秀が喧嘩したこともあったが、小夜子が一方的な不満を信秀にぶつけているだけで、理不尽に耐えていたのは信秀のほうだ。
嫌な思いをしたけど別れなかったことを「耐えた」と言ってるのだろうか?
「みんな苦労してるの。私だって苦労して必死に頑張って、あんたたちを育ててきたの。それくらいで逃げ出してちゃ、妻なんて勤まらないわよ」
(なんで伝わらないの?)
暗い絶望が襲ってきた。
どうして史博の態度を異常だと思わないのか?
小夜子の一度思い込んだら他人の言葉を聞かない性格は知っていたけど、ここまで酷いとは思っていなかった。
「そもそも史博くんを怒らせる奈緒さんにも、問題があるんじゃないの?」
唐突に言葉が襲ってきた。
隣で聞いていた美晴が、口を挟んできたのだ。
信じられないという感情で、まじまじと義姉の顔を見る。
「あんたは小さい頃から気が利かないところあったからねぇ。何度も注意したんだけど…。本当、苦労したわ」
小夜子も母親なのに、美晴の言葉を認めてきた。
ここには奈緒の味方はいなかった。
それとも本当に、自分が悪いのだろうか?
「奈緒さんは、史博くんと六花ちゃんの面倒を見ればいいだけでしょ?」
美晴が大変そうなため息をついて、続ける。
「私はこの家全部任されてるの。奈緒さんよりも大変なんだから」
「いつも感謝しています」
小夜子がお礼を言う。
「いえいえ」
美晴が謙遜する。
そして笑いあった。ウマが合う者同士の、仲の良いやり取り。
そしてふたりは、如何に自分たちが苦労して我慢しているか、というマウント合戦のもと、夫たちの悪口を言いはじめた。
共通の相手に共通の不満があるからこそ、気が合うのだろう。
「ただいま」
そうしているうちに、父親の信秀が帰ってきた。
ちらりと奈緒を見て、何も言わずに自分の部屋に入っていく。
朝方のあの優しかった声の記憶が、ふぅっと消えていく。
一言、声をかけてほしかった。
「ご飯の準備しなきゃね。奈緒も手伝って。家に居るんだし」
小夜子に言われ、奈緒は重い腰をあげた。
「美晴さん、六花を見ててもらえますか?」
「え? なんで?」
「な、なんでって…」
自分は食事の準備をするのだ。その間、六花の面倒を見ることはできない。
「そういうとこじゃない? 私が食事の手伝いをするときは、大地の面倒も自分で見てるわよ」
鼻で笑われるように言われた。
奈緒は食事の手伝いをしながら、美晴の様子を観察する。
テレビの前でスマホをいじり、息子の大地のほうは一切見ていなかった。
どこか史博を彷彿とさせる姿だ。
そして、大地と六花の面倒は信秀が見ていた。
誰に言われたわけでもないが、常識的に誰かが面倒を見ないといけない。特に今は、同じ年の赤ちゃんがふたりなのだ。
信秀らしい気遣いだが、美晴としては自分が頼んだわけではないから、代わりに面倒を見てもらっているという認識はないのかもしれない。
そのときだ。
家の電話が鳴った。
「お義母さん、電話だよ~」
「はいは~い。ちょっと待ってね」
手を拭こうとした小夜子がぴたりと動きを止めて言う。
「っていうか、奈緒。あんたが出てよ」
「え?」
奈緒は驚いた。
どうして自分が? という違和感がある。
手を拭く必要があるのは自分も同じだし、しばらく帰っていない実家の電話に出る意味もわからない。
電話の近くにいて、スマホを弄っている美晴には、どうして頼まないのか?
不満はあったが口に出すことはせず、言われたまま電話に出ようとした。
そして、動きを止める。
ぞわぞわっと悪寒が走った。
「どうしたの?」
その様子に目ざとく美晴が気づいた。
彼女は他のことをやっていても、こういうものには、よく気が付くのだ。
「奈緒、早く出なさい」
奥から催促する小夜子の声が届く。
「あ、史博さんからだぁ~!」
奈緒の様子を変だと思った美晴が無駄に行動力を発揮して、電話のディスプレイを覗き込んで言った。
奈緒は恐怖で心臓を締め付けられた。
念のためスマホの電源は落としている。史博と話す気はなかったからだ。
離婚届を見て、こちらの意図は察したはずなのに、実家に電話をかけてくる神経が理解できない。
「奈緒、出なさい!」
事情を察した小夜子が、叱るように言う。
「嫌よ、絶対に嫌!」
「はい、もしも~し」
奈緒が拒絶した隙に、美晴が電話に出た。
「喧嘩したんだって~。うん、居るよ。駄目じゃ~ん、モラハラしたら」
陽気な感じで話をしている。
命の危機を覚えるほどの奈緒の本気の離婚を、日常の会話として取り扱っていた。
思えば美晴は、史博ともウマが合った。
史博は上下関係を気にする性格なので美晴に対しては腰が低く、営業職なのでトークも上手だった。
「うんうん。電話出ないってさ。嫌われたね~。大丈夫、大丈夫。すぐに戻ってくるって。しばらく気ままに過ごしたら~。それじゃ~ね」
美晴は一度も奈緒の顔色を見ることなく電話を切った。
「ちょっと! 勝手なこと言わないでください!」
「感謝してよ~。無視したって煩く電話鳴るだけでしょ? それに、ちゃんとモラハラは注意したじゃん」
美晴は悪びれるどころか、奈緒に態度にムッとした様子だった。
(注意って…。あんなに軽いものじゃない!)
けれども、ここで美晴と喧嘩しても、居心地が悪くなるだけだ。
奈緒は我慢するしかなかった。
みんなで夕飯を食べていると、再び小夜子が愚痴を言いはじめた。
「あの程度のことで家を飛び出すなんて、我慢が足りないわよ。出戻りなんて恥ずかしくて世間にも顔向けできないわ」
信秀はそれを隣で黙って聞いていた。
奈緒はちらりと信秀を見る。
男性ランク:D
経済力:E
成功:D
人望:D
育児力:D
家庭力:D
モラル:B
人間力:B
自分の親のステータスを見るなんて、複雑な気持ちだった。
それと同時に、このステータスは概ね当たっているとも思った。不器用で派手さはないが、優しい父親。
(家庭力はD…)
戻って来いと言ったのは信秀だ。けれども、小夜子の愚痴から奈緒を守ってくれる気配はない。
優しい性格だけでは、家庭を守ることはできないのかもしれない。
「男のほうが稼ぐんだから、家事をするのは女の役目なの」
そんなことを言う小夜子のステータスは見えない。美晴も祖母も同じだった。
(男の人のステータスしか、見えないの…かな?)
実家に帰省する際の記憶を辿っても、男性のステータスしか見えなかった気がする。
だとしたら、本当に男に依存するだけの惨めな能力かもしれない。
「特にあんたは仕事もしてないんだから、完璧に家事をやって当然なのよ!」
もしかしたら、その点は信秀も同じ考えなのかもしれない。
信秀はまったく家事ができなかった。
婿入りで小夜子に頭が上がらなくても、家事だけはしてもらっているのだ。
味方だと思っていた父が、急に遠い存在に思えた。
「あれ? なんでいるの?」
食事の片づけをしていると、兄の幸人が帰ってきた。
「あ、うん。いろいろあって…」
(あれ? そういば、お兄ちゃんの食事は…)
見ると、テーブルの上にラップのかけられた、おかずの皿が置いてあった。
「お、うまそ~。いただきます!」
幸人は特に文句を言うわけでなく、自分でご飯をよそい、誰もいないテーブルでひとりで食事を始めた。
(なんで怒らないの? 史博さんだったら土下座ものなのに…)
奈緒は恨めしい気持ちになった。
小夜子も美晴も自分のほうが苦労した、ちゃんと主婦業をしていると言うが、それがこれなのだ。
優しい夫に許されているから、モラハラを理解できない。自分たちとウマが会う史博が「悪」なはずがない。
そんな偏ったフィルターで物事を見ている。
自分が生まれ育ったはずの家。
それなのに透明な壁の向こう側に、自分だけが立っている。中にいても中に入れていない。
ここにはもう、自分の居場所はないのかもしれない。
同じ時刻。
史博は激しい屈辱を覚えていた。
疲れて仕事から帰ってきたのに、食事の準備がされていない。
夫を侮辱する行為だ。
自分でコンビニ弁当を買ってきて、ひとりで虚しい食事。
「くそっ! 俺をコケにしやがって! 妻なんだから、大人しく言うことを聞けよ!」
史博はビールの空き缶を握りつぶしながら、忌々し気に呟いた
「絶対に…連れ戻してやる」