テラーノベル
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そもそも、何故楓が綾乃を怖がるようになったのか。その発端は、一枚の絵にあったのだ。
初夏。
うちの学校は芸術に力を入れているということもあり、美術専攻の生徒はみんなその時期に写生会に参加することになる。高校の美術で学ぶ内容は学校によってまちまちだが、この学校は油絵と水彩画、両方に力を入れていることでも有名だったようだ。写生会の絵は、水彩画で描かれるのが一般的だった。
子供っぽいと言って水彩画を嫌う人もいるが、楓は水彩もけして嫌いではない。というか、絵を描くこと全般お気に入りだった。なんなら鉛筆や色鉛筆で描くのも好きなくらいだ。眼の前にある光景を、自分なりの感性でどう描くのか。それを考え、想像するだけでわくわくが止まらない。
楓にとって絵とは、自分の世界を示す最たる手段なのだ。幼い頃から、絵を描くのが本当に好きだった。鉛筆を持ち、真っ白な紙に“何を描こう?”と考えるだけで気持ちが高揚したものである。
幼い頃と比べると、楓の実力は間違いなく上がっていることだろう。
それもそのはず、美術部に入って、先生にみっちり鍛えられたからである。美術部顧問の藤沢先生は、教師であると同時に著名な画家でもあるのだった。彼女もまた、色鉛筆、水彩、油彩の三つの手法を巧みに操る人物だった。技量で言えば、楓などけして足元にも及ばないが。
『うーん、根本的にデッサンが狂ってるわね……』
そんな先生は、指摘も相当厳しいものがあった。
それこそ去年入部したばかりの頃は、楓もデッサンの基礎力がないことをメタメタに指摘されてヘコまされたものである。
『この女の人のとおりにポーズ取ってみなさいな。ほら、こんな感じで、こう』
『あ……腕の角度が、おかしいですね。そして普通に転びそう……』
『そうでしょう?人体って無機物よりずっと難しいの。鉛筆で描く時に基礎をサボると、色を塗った時さらに悲惨なことになるわけ。貴女はちょっとデッサンをナメすぎね。ちゃんと練習したことないでしょ』
『うう……ぐうの音も出ないです』
その絵は女の人が走っている姿を描いた鉛筆画だったのだが。鉛筆の時点で、それはもう指摘の嵐だったわけである。
実力がないことはわかっていたが、まさかこれほどだったとは。気が遠くなりかけた楓に、先生は「だけど」と続けたのだった。
『貴女の絵、わたしは嫌いじゃないわ』
『え』
『躍動感があるというか、イキイキしてる気がするの。影の付け方も、指導を受けてないわりに上等ね。……みっちり練習しなさい。そうすれば、ちゃんと上手くなるから』
『は、はい!』
この先生についていけば、きっと思い通りの絵が描けるようになるはず。楓は美術部に入って以来、藤沢先生の元でみっちり鍛錬を積んだのだった。厳しい先生だが、頑張りはちゃんと認めてくれる人である。廃部の危機だった美術部もなんとか部員が五人を超え、楓が二年生になる頃には十人を超えることになった。
みんなは楓のおかげだなんて言うが、楓がここまで頑張れたのは先生の助けと、仲間たちの支えがあってこそ。感謝してもしきれないと思っている。
そして一年生の時の写生会では素人に毛が生えた程度だった絵も、二年生になればかなりまともな出来になったと思うのだ。あれだけ藤沢先生に目をかけて貰ったのだから、上手くなっていなければどうにもならなかっただろうが。
『すごい、楓!うっめーじゃーん!』
『あ、ありがと、冬香さん……』
結果。楓の絵は高校生水彩画コンクールの校内選考を通った。そもそもクラスに楓以外に美術部員がいないし、なんなら中学の時美術部だったなんて生徒もいなかったというのが大きいのだろう。
冬香と由衣はもちろん、クラスメイトたちも多くが楓の選抜を喜んで讃えてくれた。教室の後ろには、美術専攻の生徒たちの写生会の絵がずらずらと飾られた。そして、楓の絵には校内選考を通った証の金色のリボンがつけられたのだ。楓自身もそれを、誇らしく思ったものである。
しかし。それに、納得できない人物が、ただ一人。
『何調子乗ってんの?ばっかみたい。エコヒイキで選ばれただけのくせに!』
綾乃だった。彼女は楓の絵を睨みつけてこう吐き捨てたのである。
『あたしの方がずっと上手いのにあんたが選ばれた理由なんて一つしかないでしょ。あんたの見た目が、先生たちの好みだったのね。もしかして、校長先生相手に枕営業でもしたわけえ?』
さすがに、楓も固まってしまった。まさかそんなことを言われるなんて想像もしていなかったがゆえに。
『そ、そんなこと、するわけ、な……』
『ふん、どーだか。ジョシコーコーセーに興奮するオッサンって昔からいるみたいだし?』
『ふ、ふざけないでください!』
次の瞬間、自分でもびっくりするような大きな声が出た。
確かに、楓の絵もなかなか上手かったと思う。彼女が選ばれてもおかしくはなかったのではないだろうか。美術部で勉強したわけではない分デッサンや影の付け方に甘いところはあるとは感じるが、他のクラスメイトたちの絵と比べれば草花の鮮やかな色も出せているし、時計台も綺麗だし、目を引く絵であるのは間違いない。
だけど。
枕営業、なんて。そんなこと、自分がするはずがない。選考を有利に進めてくれなんて誰かにお願いしたはずがない。
何より。
『わかっていますか!?貴女のその発言は、校長先生への侮辱ですよ!?』
この学校が、楓は大好きだ。先生たちのことも好きだ。
校長先生と直接話す機会は多くはないが、それでも何度か言葉を交わしたことはある。朝礼の“校長先生のお話”は例の如くちょっと長いとは感じるが、いつもにこやかに挨拶してくれる、気のいいおじいちゃん先生だ。
以前話した時は、孫と犬が可愛くてたまらないと、目尻を下げて語ってくれた。それから、いつも奥さんが作ってくれるカレーが大好きなのだという話も。――そんな人が、家族を裏切るような愚かな真似をするはずがない。
『私に対して文句があるならそれも結構です。でも、先生方を侮辱する発言は看過できません。取り消して下さい!』
あとにも先にも、あんなに怒ったのは初めてのことだった。直後に、感情をコントロールできなかった己を恥じ入ることにもなるわけだが。
そして、怒鳴られた綾乃は――一瞬固まった後、顔を真っ赤にして、それで。
『はああああああああ!?枕営業でもないなら、あんたが選ばれるわけないでしょうが!いい加減なこと抜かしてんじゃないわよ、この売女っ!!』
『きゃあっ!』
『おいてめえ、野間!何しゃがんだっ!』
『野間さん、離してよ!何するのっ!!』
髪の毛を掴まれて引きずられそうになった楓を、冬香と由衣が助けてくれた。さらに慌てて綾乃を止めようとする歌も加わり、他の生徒たちも騒ぎ出して一時乱闘のような状態になってしまったのである。
火事場の馬鹿力は、本当にあるのかもしれない。
激怒した綾乃の力は凄まじく、彼女は冬香を突き飛ばして叫んだのだった。
『どいつもこいつも、このクズクズクズクズクズクズクズクズばっか!こんな薄汚い絵、こうてやるわっ!』
そして。
綾乃は壁に貼られていた楓の絵に手をかけると――その場で、ビリビリに破り捨ててしまったのである。
『あ、ああ、あ……』
油絵の具と違って、水彩画は画用紙だ。女子高校生の力でも、引き裂くのは容易なことだっただろう。
紙吹雪のように舞い散る絵の欠片を見ながら、楓は呆然とその場では膝をつくしかなかったのだ。あまりのことすぎて、涙さえ出なかった。頭が追いつかなかったとも言える。
『あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!!』
そんな絶望した楓を見下ろし。
ビリビリになった絵の破片を踏みつけながら、綾乃は笑ったのだった、
『ざっまぁみろゴミ女!これで、あたしの絵が一番よね!選ばれるわよね!あはははははは、はははははははははははははははっ!』
『て、てめえええええ!何しやがんだ!ぶっ殺す!!』
高笑いする綾乃に殴りかかる冬香。大きくなる怒声、罵声、悲鳴。騒ぎは、先生が教室に飛び込んでくるまで続いたのだった。
当たり前だが、このようなことをして綾乃の絵が選ばれるはずかない。彼女の親まで呼び出される騒ぎになり、ますます本人は不満が溜まったようだった。
しかし、そうなったところで、楓が必死で描いた絵が戻ってくるはずもない。
そして本当に悲惨なのは、これで全てが終わりではなかったということ。
そもそも、綾乃が楓の絵を破り捨てたのは、自分がコンクールの校内選考で選ばれるためであり、そのために楓が目障りだったからであるはず。みんなの目の前で絵を破り、大顰蹙を買い、あまつさえ親まで呼び出されたのに彼女は目的を達成できなかったのである。苛立ちが増すだけの結果になったのは、想像に難くない。
そして、彼女の中では何故か、楓は男の先生たち全員と枕をして絵を選んでもらった売女ということで確定的になっているらしい。その日から、これみよがしに悪口を言われる機会が増えたのである。
『自分が認められるために、平気で足を開くような女が同じクラスにいるなんて、信じれない!』
『教室が毎日臭いと思ったら、どこかの楓お嬢様の下半身の臭いだったわけねー』
『今日は誰と寝るの?ひょっとして、女の先生ともレズプレイしてるわけ?美術の先生を抱き込めばそりゃ絵の選考にも通りやすくなるわよね』
そのたび冬香や由衣が庇ってくれたし、時には他の生徒も助けてくれた。歌が綾乃を止めようとしたこともある。
しかし、美術部で使っているノートを破り捨てられたり、絵の具をトイレに捨てられたり――あまつさえ尊敬する藤沢先生まで貶められるとあっては、楓も黙ってはいられない。
そう、この時はまだ悲しい気持ちや怖い気持ちより、怒りのほうが勝っていたのだ。だから。
『どうしても、自分は正義だって言いたいみたいね』
綾乃がそう言ってきた時、乗ってしまったのだ。
『いいわ。じっくり二人だけで、誰にも邪魔されずお話しましょうか。放課後、四階のトイレに来なさいよ。あそこ人があんま来ないし』
『……わかりました』
きちんと説得して、自分がそのような真似をしていないことをわかってもらおうと思ったのである。同時に、先生たちへの暴言に関してはちゃんと謝ってほしかったというのもある。
だが。
楓はすぐち知るのだ。世の中には、自分の正義をけして覆せない人間がいると。話し合いなどではけして解決できない、埋められない思想の差があることもあると。
自分は本当にどこまでも――認識が甘かったということを。
コメント
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うわ…第10話、心臓がギュッてなったよ。 楓が必死に描いた水彩画を綾乃に破り捨てられるシーン、読んでて息が止まった。 「ざっまぁみろ」って笑いながら踏みつけるところ、マジで胸が痛い。 楓は絵に真剣に向き合ってて、先生への尊敬もちゃんと持ってて、だからこそ綾乃の言動に真っ向から怒れたんだよね。でも、その正しさが逆に綾乃の執着を強めちゃって…話し合いで解決しようとした楓の純粋さが、逆に辛かった。 続きが気になる…😔
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