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設楽理沙
#仕事
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「月5万あれば、十分だろ」
夕食のテーブルに放り投げられた、茶封筒。
中身がスカスカで重みを感じさせないそれが、陶器の皿に当たってカサリと虚しい音を立てた。
中から覗くのは、数枚の千円札。
私の目の前には、今朝市場で仕入れたばかりの脂の乗ったアジの開きと
根菜をたっぷり入れて煮込んだ豚汁が並んでいる。
湯気が白く立ち上るそれらは、彼に一口も箸をつけられることなく、ただ静かに冷えていく。
「…透さん、これじゃあ光熱費を払ったら、食費は数千円しか残らない。今月は特に寒かったから、電気代も……せめてあと2万、せめて1万だけでも、予備費として置いておいてくれない?」
必死で声を絞り出す。
しかし、対面に座る男の耳には、私の切実な訴えなど不快なノイズに過ぎなかったようだ。
「は?やりくりできないのはお前の能力不足だろ。俺の稼ぎで、こんな港区の高級マンションに住めてるんだぞ?少しは感謝して、身の丈に合った生活しろ」
透は、私の言葉を遮るように吐き捨てた。
組み直された彼の左腕には
先月「仕事の士気を高めるため」と豪語して買ったばかりの、100万円の高級時計が巻かれている。
リビングの計算されたライティングを反射して、それは嫌味なほど鋭く輝いていた。
彼は何も知らない。
このマンションの15階、リビングのワイドスパン窓から見える宝石を散りばめたような東京の夜景も。
素足に心地よい床暖房も、特注の大理石カウンターも。
彼が「俺の一流の証」と信じて疑わないこの場所が
実は私の実家が資産管理の一環として所有する物件だということを。
「誰のおかげで、専業主婦なんて優雅な身分でいられると思ってるんだ?俺が外で泥水を啜る思いをして稼いできてる間、お前はここでふんぞり返ってるだけだろうが」
透は椅子を乱暴に蹴るようにして立ち上がると
クローゼットからカシミヤのコートを掴んで玄関へ向かった。
すれ違いざま、加齢臭を消すための香水の甘い香りが、一瞬だけ鼻をかすめる。
「……行ってきますの一言もないんだ」
バタン、と重厚な玄関ドアが閉まる音が、静まり返った部屋に長く尾を引く。
一人残されたダイニングで、私は箸を手に取り、冷え切った豚汁を口に運んだ。
出汁を丁寧に取り、味噌の銘柄にまでこだわったはずなのに、驚くほど味がしない。
透は一流企業に勤めているが、その給料のほとんどは自分の見栄───
高級外車、時計
そしておそらくは夜の街での「別の何か」に消えている。
一方の私は、彼が「普通の地方公務員家庭」だと思い込んでいる実家の父に頭を下げ
相場30万円を超えるこの部屋を
夫のプライドを守るために「月5万円」という破格の家賃設定で貸し出してもらっていた。
つまり、彼が今しがた「十分すぎる」と投げ出した5万円は
本来ならこの部屋の管理費にすら届かない金額なのだ。
「身の丈に合っていないのは、どっちかしらね……」
私はスマホを手に取り、一通の通知を確認した。
不動産管理会社の連絡先として登録している、父からの個人メッセージだ。
『来月、賃貸契約更新の時期だが。例の件、どうするんだ?いつまでもあんな男のために、うちの資産をタダ同然で提供し続ける必要はないと思うが』
画面の冷たい光が、照明を落とした部屋を青白く照らす。
私はもう、言い訳を探すのをやめた。
彼を変えられると信じていた3年前の自分は、もうどこにもいない。
強張った指で、私は一文字ずつ、終わりの言葉を打ち込んだ。
『お父さん、もう、いいよ。更新……しないで。法的手段を含めて、明け渡しの手続きを進めてほしい』
3年間の我慢が、音を立てて決壊した。
自分がこの世界の中心だと
成功者だと信じ切っているこの家が、ただの砂上の楼閣だと気づいたとき
家賃の補助という「魔法」が解け、真の身の丈に引きずり降ろされた時。
透さんは一体、どんな顔をして、どこへ帰る場所を探すんだろう。
窓の外に広がる、手の届かないほど美しい夜景を見つめながら
私は初めて、暗闇に溶けるような冷たい笑みを浮かべた。