雨音が屋根を叩く夜。高橋悠大は布団に横になりながらも、眠れずに天井を見つめていた。押し入れの隙間で見つけた手書きの計画書が、今は心の支えになっている。「風呂場の下に通気口あり。夜は廊下の灯りの並びに注意」——指示通りに行けば脱出の糸口がある。しかし、旅館の静けさは、逆に恐怖を増幅させていた。
布団の中で手が震える。廊下の向こうから微かに木の床が軋む音が聞こえる。雨のせいか、風のせいか、それとも――誰かがいるのか。悠大は息を殺し、耳を澄ませる。音は徐々に近づき、止まった。目を閉じると、暗闇に浮かぶ影がこちらを見ているような錯覚に陥る。心臓が跳ねる。背筋に冷たい汗が伝う。
深呼吸を整え、悠大はそっと布団を抜け出す。懐中電灯を握り、廊下に足を踏み出す。木の床は雨で湿り、踏むたびに軋む。壁に沿って手をつき、音を立てないよう慎重に進む。廊下の灯りは薄暗く、光が揺れるたびに壁に伸びた影が歪む。息を整え、心拍を感じながら、一歩ずつ進む。
計画書の指示通り、風呂場の下に小さな通気口を見つけた。手で押すと、わずかに隙間が開き、冷たい空気が流れ込む。指先に触れる金属の冷たさが、異様な現実感を突きつける。悠大は体を折りたたみ、慎重に通気口に滑り込む。狭く、湿った通路は埃と木の匂いで鼻腔を刺激し、呼吸を整えるたびに微かに咳が出る。
通路を進むうち、床の一部に微妙な沈みを感じる。踏めば音が鳴る仕掛けだ。悠大は片足ずつ慎重に踏み出す。背後で低く人の声が聞こえ、心臓が跳ねる。
「…誰だ?」
息を殺し、体を壁に押し付けた。声はやがて遠ざかり、静寂が戻る。冷たい空気が体を包み、湿った匂いが鼻腔を刺激する。悠大は体の震えを抑え、進む方向に目を凝らした。
狭い通路の先には、古い押し入れが現れる。扉には鍵がかかっている。計画書の最後の指示を思い出す。
「梁の赤い印を押せ」
懐中電灯で梁を照らすと、かすかに赤い印が光った。手を伸ばすと、カチッと小さな音がして扉が静かに開いた。
裏庭に出ると、雨に濡れた土と苔の匂いが自由を実感させる。足元に気をつけながら駆け、庭を抜ける。しかし背後に気配を感じ、心臓が再び跳ねる。廊下の灯りが揺れ、誰かが監視しているような影が一瞬見えた。悠大は振り返らず、全力で車まで走る。
泥で滑らぬよう足を踏みしめ、雨に打たれながら山道へ出る。胸の鼓動は収まらず、手が震える。車にたどり着き、ドアを閉めると、ようやく少し息をついた。エンジンをかけ、霧に包まれた山道を抜けると、遠くに街の明かりが見え始める。
夜の旅館の影は遠ざかるが、心の奥で旅館の秘密がすべて解明されたわけではないことを悠大は知っていた。雨の夜、あの建物は静かに次の客を待ち、閉ざされた謎を抱えたまま森の奥で息を潜めているかのようだった。
悠大は深く息を吐き、窓の外の霧を見つめた。自由を取り戻した喜びと、夜の旅館の不気味さが同時に胸に押し寄せる。安全な場所に戻ったと思えるのはほんの一瞬で、あの静寂はまだ彼の心の中に生き続けていた。
※この話はフィクションです人を建物内に閉じ込めると監禁罪になります
条文:「不法に人を逮捕し、又は監禁した者は、3月以上7年以下の拘禁刑に処する」。
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