テラーノベル
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同じネタで、もう一回。
重たい雨の音が、防音性の高いマンションの窓を叩いている。外の世界は嵐の予兆に騒めいているというのに、このリビングだけは、水槽の底に沈んだような静寂に支配されていた。
太宰治は、ソファの端に身を寄せて、キッチンから漂ってくる微かなコーヒーの香りを嗅いでいた。普段なら、彼が何か軽口を叩いて、それに対して中原中也が怒鳴りながらも笑って応える。それが二人の日常であり、婚約という約束を交わした恋人同士の、あるべき姿のはずだった。
けれど、最近の中也は、どこか決定的に壊れていた。
玄関の扉が開く音がした。重い足取り。金属が擦れ合うような、ひどく冷え切った気配。太宰は背筋を伸ばし、反射的に口角を上げる。仮面を被るのは得意だった。どんな絶望も、どんな恐怖も、道化の笑顔で塗り潰すことができる。
「おかえり、中也。今日は随分と遅かったね。仕事、大変だったのかい?」
努めて明るい声を出した。だが、返ってきたのは返事ではなく、濡れた上着を床に放り出す荒々しい音だった。中也は肩を怒らせ、太宰の方も見ずにリビングへ踏み込んできた。その瞳は濁り、どす黒い感情が渦を巻いている。
「……あァ、大変だったよ。クソみたいな連中の相手で、ヘドが出るほどにな」
中也の声は低く、地を這うような震えを帯びていた。彼は太宰の目の前まで歩み寄ると、見下ろすようにして足を止めた。太宰は逃げなかった。逃げる場所など、この部屋のどこにもないことを知っていたからだ。
「そんなにイライラしなくても。温かいコーヒーでも淹れ直そうか? それとも、私がマッサージでも……」
言いかけた太宰の言葉は、鋭い衝撃によって断ち切られた。
鈍い音と共に、太宰の頬に中也の拳が叩き込まれる。衝撃で頭が跳ね、視界が白く火花を散らした。ソファから転げ落ちるようにして床に突っ伏した太宰の視界に、中也の磨き上げられた靴が見えた。
「マッサージだ? ふざけんなよ。手前ェのその、何もかも分かってるってツラが一番ムカつくんだよ!」
吐き捨てると同時に、中也の足が太宰の腹を蹴り抜いた。内臓がせり上がるような痛みに、太宰は呼吸を忘れる。丸まって身を守ろうとするが、追撃は容赦なかった。襟首を掴まれ、無理やり引きずり起こされる。
「中也、待って、私は……っ」
「黙れよ、青鯖! 手前ェはいつもそうだ。そうやって被害者みたいな顔して、俺を苛立たせる……!」
突き飛ばされた体はリビングテーブルの角に当たり、太宰は床に転がった。全身を走る痛みに視界が滲む。逃げなければ。そう本能が告げているのに、体は鉛のように重く、指先一つ動かすことができない。
床に這いつくばった太宰の頭の上に、冷たい感触が乗った。
中也の靴の底だった。
「動くなよ。そのまま、ゴミらしく床に張り付いてろ」
後頭部をじりじりと踏みつけられる。床に押し付けられた頬が痛い。中也の体重がじわじわとかかり、頭蓋が軋む音が脳内に響く。太宰は嗚咽を漏らした。なぜ、こんなことになっているのだろう。互いに愛し合い、将来を誓い、指輪を交わしたはずなのに。
「……っ、う……、あ……」
言葉にならない悲鳴を上げながら、太宰は床を爪で引っ掻いた。中也の荒い呼吸が上から降ってくる。どれくらいの時間が経ったのか分からない。数秒だったのかもしれないし、数時間だったのかもしれない。
やがて、頭を抑えつけていた重みが、不意に消えた。
しんと静まり返った部屋の中で、中也の膝が床に落ちる音が響いた。
「……あ。……おい、太宰」
先ほどまでの狂気を含んだ怒声が嘘のように、中也の声は弱々しく震えていた。太宰が恐る恐る顔を上げると、そこには顔を真っ青にした中也が立ち尽くしていた。彼は自分の両手を見つめ、まるで初めて自分の血の汚れに気づいた子供のように絶望している。
「……嘘だ。俺、また、お前に……」
中也はふらふらと這い寄り、震える手で太宰の肩を抱き寄せた。先ほどまで暴力を振るっていたその手は、今は壊れ物を扱うように優しい。
「ごめん、太宰。ごめん……! 悪かった、俺、どうかしてた。仕事が、その、うまく行かなくて……でも、お前に当たるなんて最低だ。もう絶対にしない。誓う、二度とこんな真似はしねェ。頼むから、俺を見捨てないでくれ……っ」
中也は太宰をきつく抱きしめ、その肩に顔を埋めて泣き始めた。ボロボロとこぼれる涙が、太宰の首筋を濡らす。
太宰は、打たれた箇所が熱を持って疼くのを感じながら、中也の背中に細い腕を回した。
「……私は、大丈夫だよ。中也」
掠れた声で、太宰は囁いた。 大丈夫なはずがなかった。体中が痣だらけで、呼吸をするたびに脇腹が痛む。恐怖で指先はまだ震えている。けれど、こうして自分にすがりついて泣く男を見ていると、彼を許さないという選択肢が、太宰の中から消えてしまうのだ。
「中也は疲れているだけなんだ。分かっているよ。大丈夫……怒ってないから」
「太宰……っ、ああ、愛してる。手前ェだけだ。手前ェだけが、俺を分かってくれる……」
中也は何度も太宰の髪に、額に、唇に、切なげな口づけを落とした。先ほどまでの獣のような暴行が、まるで悪い夢だったかのように、今の彼は至極真っ当で、献身的な恋人の顔をしている。
この温度。この抱擁。これがあるから、太宰は彼から離れられない。 中也の愛は暴力という形で溢れ出し、その後で必ず、この圧倒的なまでの優しさで太宰を包み込む。それは猛毒の後の解毒剤のようで、一度味わってしまえば、もうそれなしでは生きていけない。
けれど。
一週間も経たないうちに、また同じ夜がやってきた。
「……遅かったね、中也。今日は……」
「うるせェって言ってんだろ!」
リビングに響く衝撃音。突き飛ばされる体。 太宰はまた、冷たい床の上で丸まっていた。腹部を蹴られ、肺から空気が押し出される。先日の誓いも、涙ながらの謝罪も、中也のイラつきの前では霧散してしまったらしい。
「何が『大丈夫』だ。手前ェのその余裕そうな面が、俺を馬鹿にしてるんだよ……!」
中也の靴が、再び太宰の視界を塞ぐ。 踏みつけられる苦しみの中で、太宰は泣いていた。痛い。苦しい。怖い。助けてほしい。けれど、助けを求める相手は、今自分を踏みつけている男しかいないのだ。
中也は狂ったように暴言を吐き、太宰を蹂躙した。その顔は怒りに歪んでいるが、どこか泣きそうにも見えた。彼は彼で、自分の感情の制御が効かないことに絶望しているのかもしれない。
嵐のような時間が過ぎる。 中也の足が離れ、部屋に静寂が戻る。
太宰は荒い息をつきながら、次にくる「儀式」を待っていた。
案の定、数分後には中也が崩れ落ちる気配がした。
「……あ、あ……太宰、おい……」
怯えたような声。 太宰の体に触れる、震える指先。
「ごめん、太宰。嘘だろ、俺、また……。死んで償う。だから、そんな顔で泣かないでくれ……っ。俺が悪かった。お前がいないと俺はダメなんだ。頼む、太宰……!」
縋りつく中也を、太宰はまた抱き返した。 学習能力がないと言われればそれまでだった。周囲がこの関係を見れば、間違いなく「異常だ」と断じるだろう。早く逃げろ、別れろと、正論を投げつけるだろう。
けれど、太宰にとっての救いは、この暴力の果てにある、中也の全存在を懸けた「謝罪」と「溺愛」の中にしかなかった。中也に壊されることでしか、自分たちが繋がっていることを実感できなくなっていた。
「いいんだよ、中也。……もう泣かないで」
太宰は自分の頬を伝う涙を、中也の肩で拭った。 青紫に変色した腕が、中也を優しく包む。
「私はどこにも行かないよ。中也がどんなに私を壊しても、私は中也のものだから」
「太宰……ああ、愛してる。愛してるんだ……」
二人は床の上で、互いの体温を確かめるように強く抱き合った。 婚約指輪が、室内の灯りを反射して冷たく光っている。
中也は明日になれば、また「最高に優しい婚約者」に戻るだろう。太宰のために朝食を作り、痣を隠すためのコンシーラーを器用な手つきで塗ってくれるかもしれない。すまないと何度も口にして、甘い菓子や花束を贈ってくれるかもしれない。
そして、その数日後には、また理由のない苛立ちと共に太宰を床に叩きつけるのだ。
終わりのない円環。 愛情と暴力が混ざり合い、もはやどちらが本質なのかも分からない混沌。
太宰は中也の背中に顔を埋め、目を閉じた。 これが幸せなのかと問われれば、胸を張って頷くことはできない。けれど、この地獄以外の場所で、中也と生きていく術を太宰は知らなかった。
「……ねえ、中也」
「……何だ、太宰」
「次は、もう少し優しくしてね」
冗談めかした太宰の言葉に、中也は喉を詰まらせて、「ああ、分かってる……絶対だ」と答えた。
その約束が守られないことを、太宰は心のどこかで確信していた。 けれど、確信しながらも信じるふりをするのが、この家での、二人の「愛」の形だった。
外の雨は、まだ降り続いている。 水槽の底のような部屋の中で、二人はいつまでも離れずに、互いの痛みを共有し合っていた。
それはあまりにも歪で、あまりにも残酷な、相思相愛の物語。
コメント
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これで中也を太宰が見捨てたらどうなるのかが気になってしまう自分がいるッ!! …本当にで泣き始めちゃう中也さんかわいいです。