ユカリとレモニカ、ベルニージュが水を吐き、咳き込みながら、水没した地下墓地から足を得た山椒魚のように這い出てきた。
四阿から離れたところにネドマリアがいて、天空の剣を握るアルメノンの前で跪かされている。ネドマリアの背後にはモディーハンナがいた。
「ああ、海水なんて流し込んだら遺構が傷んでしまうのに」とモディーハンナが嘆く。
「ごちゃごちゃうるさいなあ。後にしなよ」とアルメノンが吐き捨てるように言う。「そんなことより今はネドマリアだ。ねえ、手がかりだけでも教えて。ね! お願い!」
アルメノンは天空の剣の腹でネドマリアの頬を撫でる。ネドマリアは険しい顔で目を瞑り、歯を食いしばって何かに耐えている。
ユカリに具体的なところは分からなかったが、それが魔術による拷問であることは察しがついた。
ユカリもベルニージュもレモニカも各々がネドマリアを助けようと動き出そうとしたが、天から流れ込んできた海水が滝のように降り注ぎ、三人を地面に押さえつける。呼吸をするのが精いっぱいで、体中が砕けてしまいそうな水圧の連続だ。
「逆に聞きたいよ」とネドマリアがアルメノンを睨みつけ、嗚咽に似た声で言う。「確かにエーミちゃんはあの年にしては優秀な方かもしれないけど、聖女自ら出張ってこんな風に追い求めるほど特別なものなの? 分かんなかったね、私には」
アルメノンは呆れた様子で首を振る。「誰もが特別な人間なのさ。価値のない人間なんていない。君はそうは思わないの?」
ネドマリアは何も答えず、代わりに苦しそうに呻く。
ユカリたちは何とか滝から脱出しようともがくが、抵抗空しい。声が出せないどころか呼吸も難しい。
「まあ、人攫いから幼気な少女を助けるだけだよ。見過ごせないよね」とアルメノンは言った。
「人攫いはお前たちだろ」ネドマリアは怒鳴る代わりに痛ましく枯れた声で言い返す。「姉さんを攫ったくせに。子供たちを何人も連れて行ったくせに。人攫いだと? 沢山の親子を、兄弟姉妹を引き裂いて。お前たちに人心はないのか! 悪鬼め! けだものめ!」
アルメノンは仄かに笑う。「いずれ話したくなるだろうさ」
モディーハンナがネドマリアの後頭部を撫でて何事かを呟くと、ネドマリアの口が閉じ、開かなくなった。
「さあ、シャリューレ!」アルメノンが屋根を見上げて言う。
庭を囲む家屋の屋根の上に溟海の剣を持ったシャリューレがいた。アルメノンに呼ばれると庭へと飛び降りる。
「その剣でユカリを殺せ」アルメノンは滝に押さえつけられたユカリを見据え、シャリューレの耳元に唇を寄せて囁くように命じた。しかしその視線は移ろう。「ん?」
アルメノンが気づいたのはネドマリアの微笑みだった。ネドマリアが口を開く。言葉は出て来ないが唇は罵っている。「死ぬのはお前だ」と。
次の瞬間、アルメノンの足元が崩れ落ちた。アルメノンの両手は何につかまることもできず、宙を掻き、水に満ちた地下墓地へと呆気なく消えてしまった。その水面はネドマリアの魔術で格子模様に波打っている。
ユカリたちに歩み寄るシャリューレのもとにネドマリアが駆け寄り、呪文を唱えて抱きとめる。シャリューレは表情を変えず、しかし足を止めた。
その背後でモディーハンナは何も言葉を残さずに逃げてしまった。代わるようにネドマリアの声が取り戻される。
「姉さん! 私が分からないの!? 一体何をしようとしているの!? ユカリは私の友達なの!」
そしてネドマリアは手指で何かの形を作り、滝を指さす。と、ユカリたちの頭上に流れ落ちてくる滝が勢いそのままに歪んだ。
「ほら、この石飾り」そう言ってネドマリアはシャリューレの首に石飾りをかける。「こっちは姉さんのだけど、今までずっと大事に持っていてくれたんでしょう?」
水圧から解放されたユカリがネドマリアに向かって叫ぶ。「ネドマリアさん! 名前を――」
しかしユカリが肝心なことを尋ねる前に、ネドマリアの背後に何者かが現れ、首根っこをつかんで後ろへと引き倒した。そのままネドマリアはアルメノンの落ちた穴に、自ら用意した罠に、不思議な格子模様の水の中に消えてしまった。
「君の罠だろ。責任持って猊下を連れて戻ってきてね」と言ったのはジェスランだった。ジェスランはアルメノンが取り落としたらしい天空の剣を拾い上げる。「と言ったものの、シャリュちゃん。君が溟海の剣で地下の海水を引き上げれば解決するんだけど……猊下の命令しか聞かないか」
シャリューレは何かの時を待つようにしてじっとユカリを見つめている。
「地下に罠を張ったの?」とユカリがベルニージュに尋ねる。
「うん。ネドマリアさんがね。こっちが先にあいつらに気づいたから。入るのは簡単だけど簡単には出られない。そういう封印。それでもネドマリアさん自身が魔術を解けばすぐに出てくる。ただしアルメノンと一緒にね。備えて」
魔法少女の杖と大地の剣を構えて、静止したシャリューレと向かい合い、地下墓地に通じる穴を見つめる。
ジェスランは穴を覗き込み、聖女の帰還を待っている。しかしいつまで待っても戻ってくる様子はない。その上ネドマリアの封印は解けない。
「ねえ、出て来ないよ。ベル」とユカリは不安を押し殺すように呟く。
「ユカリ。もしもアルメノンが死んだらシャリューレを支配する魔法がどうなるか、どういう魔術なのか、ワタシには分からない」ベルニージュの声もまた何かを押し殺している。心の内から滲み出る何かだ。その表情は悲痛に歪む。「支配から解放されるかもしれないし、あるいは最期の命令『その剣でユカリを殺せ』に従うかもしれない」
アルメノンの死に付随する意味をベルニージュは避けている。
ジェスランが乾いた笑いを零す。「姉は生きてたってのにそれほど憎らしいものかね。どうやら憎さ余って心中するようだ」
ベルニージュが怒りに任せて怒鳴るように呪文を唱えると、無数の炎の鳥が一斉に空中に爆ぜ、ジェスランに飛び掛かる。ジェスランは全て躱して見せ、魔術で発条のように跳ねて飛び上がり、屋根の向こうへと消えた。そしてベルニージュも、ユカリの制止も聞かずに駆けて行ってしまった。
「ユカリさま。事が起きても二対一ですわ」とレモニカは言い、ユカリの手を強く握り、焚書官から本来の姿に戻る。「魔導書の数でもこちらが圧倒しています。ネドマリアさまが戻ってくるまでの辛抱です」
レモニカの覚悟は戦いに備えたものだ。ユカリは頷き、過去に見たシャリューレの人間離れした剣技を心の奥底に仕舞い込み、すぐにでも飛び立てるように構える。
果たしてレモニカの予感は正しかった。シャリューレの些細な変化も見逃すまいと構えていた二人は、杖から空気を吐き出す魔法少女の第五の魔法とグリュエーの力で、シャリューレから逃れるように飛び上がる。次の瞬間、シャリューレの振るった溟海の剣が家屋の壁を柔かな粘土のように切り裂いた。爆発的な音と共に礫と粉塵が舞い飛ぶ。
ユカリは土煙の中に目を凝らし、シャリューレの姿を探すが見つからない。
「上ですわ!」と言うレモニカの声に反応し、杖から空気を噴射して退く。
目の前を海水が降り注ぐ。溟海の剣の力だ。泡の神殿に穴を開けて、上下左右から水流が噴き出している。襲い掛かって来る海流をユカリとレモニカは紙一重で躱して逃れる。
ウィルカミドの街の一角ではベルニージュの怒りの炎が燃え盛って、海水でさえも蒸発させていた。
背筋の凍るような悪寒が走る。上下左右に伸びた水柱が凍り始めた。
ユカリがシャリューレの狙いを察する。と同時にその手に握った大地の剣が閃いて、ユカリの胸の辺りまで迫り来た溟海の剣を何とか受け止めた。が、魔法少女の小さな体は剣に込められた圧に吹き飛ばされる。
一瞬だけ見たシャリューレの表情が目に焼き付く。それは確かに抵抗を意味していた。歯を食いしばり、支配下で藻掻いている。シャリューレもまた戦っていた。下賜された名に支配された体を取り戻そうとしているのだ。
「レモニカ!」
手を握っていたはずのレモニカがいない。
「ここですわ!」
焚書官姿のレモニカはシャリューレが造った氷の柱の一つに乗っていた。街を覆う泡の神殿はまるで巨大な蜘蛛の巣のように氷の柱が縦横無尽に伸びている。
レモニカのもとへ向かおうとしたその時、凄まじい跳躍力で矢のように飛んできたシャリューレの溟海の剣を受け止めた大地の剣は弾き飛ばされ、そのまま鋭利な刃によって前から後ろへ、ユカリの首が掻っ切られた。
しかし首は切り離されず、頭はくっついたままだった。ユカリはレモニカのそばに叩きつけられ、喉の奥の異物感に咳き込む。
「生きてる? 何で?」ユカリは震える声で囁き、涙を滲ませる。
首の中を刃が通る冷たい感触がまだ残っている。
レモニカが息を切らして、しかし伏せるユカリを落ち着かせる声音で言う。「そのまま動かないでください。わたくしが『神助の秘扇』で風を吹きかけ続けていました。きっと切り裂かれるそばから再生して、一瞬たりともこと切れなかったのですわ」
恐ろしい出来事だ。死の呆れたような笑い声が聞こえる。
「ありがとう。ありがとう。レモニカ」全身に死の冷たさによる震えが広がり、ユカリは声を潜ませる。「シャリューレさんは? どこ?」
「遠くから窺っています。アルメノンの最期の命令で操られていても、殺せたかどうか、命令を果たしたかどうかは自分で確かめる必要があるのでしょう」
「たぶん操られていると言っても、命令の範囲内でシャリューレさん自身が手段を考えてるんだと思う。『神助の秘扇』を持つレモニカを警戒してるんだよ」
「このまま死んだふりをしていてくださいませ。命令に従うだけの人形ですわ。わたくしならば斬られることもありません。引導を渡して参ります」
「駄目。私を殺すまでは障害を排除する行動も命令の範囲内だと思う」
「ですが。他に方法がありますか?」
ユカリは安心させるように笑みを浮かべて言う。「一つ考えがある。シャリューレさんはジェスランの弟子だって話を前に聞いた。そしてジェスランの剣技も見たことがある。隙を見て石飾りの名前を読む」
「まさか、剣技の癖を見抜いたとでも? だとしてもあれはそういう次元ではありません! 分かっていてもあの早業を見切れるわけがありませんわ!」
「大丈夫。信じて」
その言葉にレモニカが口を噤み、小さく開く。「ずるいです」
「レモニカは大地の剣をお願いね」
ユカリを信じてその場から離れるレモニカに微笑みかけ、立ち上がり、別の氷の柱の上に立っているシャリューレを見据える。
眼下にはウィルカミドの街。頭上には海。正面には溟海の剣を携えたシャリューレ。魔法少女ユカリは元の姿に戻る。
シャリューレが人間離れした脚力でこちらへと跳躍した。投石機によって飛来する石礫のように弧を描き、空中で溟海の剣が閃く。その切っ先がユカリの命に狙いを定めている。
ユカリは魔法少女の杖を繰り出すが、シャリューレの一撃で大地の剣同様に弾き飛ばされる。しかし魔法少女の杖はシャリューレの返す刃より早く主の手元に戻り、ユカリは再び首を守るように構えた。
しかし溟海の剣は真っすぐに、ユカリの胸を、心臓のあるべき位置を刺し貫いた。
ユカリの名を叫ぶレモニカの悲鳴が氷の柱の間に響く。レモニカは『神助の秘扇』を構えるが、僅かに躊躇してしまう。刺し貫かれたまま癒せばどうなるのか、想像が理性の足を引っ張った。レモニカは硬直して、しかし目の前の光景に目を見開く。シャリューレもまた困惑の表情を浮かべる。
ユカリは溟海の剣に胸を刺し貫かれたままシャリューレの方へ歩み寄り、その首元の群青色の石飾りに手を伸ばし、その石に刻まれた名を読み取った。
「さあ、正気に戻って! 特別に晴れやかな娘さん!」
ソラマリアの表情から緊張が解け、戒めからの解放を示す。溟海の剣を手放し、よろめく。
ユカリは慌てて溟海の剣の柄を握り、慎重に胸から引き抜いた。
そこへ血相を変えたレモニカが走って戻ってきて、『神助の秘扇』をユカリの胸に必死にあおぐ。
「あれ? もう戻ってきたの?」とユカリは苦笑する。「見られちゃったか。大丈夫。あおがなくてもいいよ」
レモニカは恐る恐る仰ぐのをやめる。ユカリの胸からは血が噴き出たりしなかった。
「いったい……」と言ってレモニカの言葉が絶える。
「大地の剣はあった?」とユカリは何でもないかのように言う。
「大地の剣はすぐそこの氷の柱に突き刺さってましたわ」と言ってレモニカは確かに取り戻してきた短剣を見せてくれる。「そんなことより、なぜ無事なのですか? わたくし、確かに見ましたわよ。心臓を貫かれていました」
「その話は後」ユカリはそう言ってレモニカの手を握り、ソラマリアを置いて氷の柱から飛び降りる。「溟海の剣で海を元に戻さないと」
剣の表面からにじみ出る秘められた魔法を読み取って、ユカリはシグニカ北西の土地、ガミルトン行政区から全ての海を追い出す。ウィルカミドの街を覆っているフォーリオンの海が重い腰を上げて、故郷たる北の海へと流れていく。
ここはガミルトンの中でも北部の街だ。ガミルトン全体から完全に海が消え去るのはしばらく先だろう。しかし地下に流れ込んだ海水だけは速く引かせなくてはならない。
ユカリとレモニカは四阿を目印に飛んで行く。四阿とネドマリアが開けた穴からは既に海水が流れ出し始めている。ユカリとレモニカはただ運命の慈悲に祈るほかなかった。
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