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「新藤さん?」目の前の女――吉井律、いや、今は荒井律か――に声を掛けられたので我に返った。
見慣れた大栄建設のモデルハウス内の壁紙や家具を脳内が認識した。そうや、今は仕事中。しっかりしろ。
「あ……ああ……申し訳ございません。あまりに綺麗な字で御座いましたので、驚きました」
流石の俺でも予想できなかった。まさに青天の霹靂。
結果、言葉に詰まってしまった。
「ええー、そうですか? クセも酷いですし、そんなこと無いですよ」
謙遜したのか、彼女は照れ笑いを浮かべた。
「いえ。とても綺麗な字です。素晴らしい」
お前、その男は誰や。
吉井律――俺の記憶が正しかったら、お前は俺(ハクト)に夢中で、ずっと俺だけを愛してくれてたはず。
十年も欠かさず俺にファンレター送ってきてたくせに!
死ぬほど裏切られた気分になり、思わず睨むように彼女を見つめた。
彼女が大栄に入って来て一目見時からいい女だと思った。
今でも忘れられない、俺の心に棲みついている空色の女が実写になったらこんな感じだろうと思った。
綺麗な黒色の長いストレートの髪、切れ長の情熱的な一重の瞳に、整った鼻筋。少し小さめの桜色に染まった可愛い唇。
本人は隠しているつもりだろうけれど、まったく隠れていない大きく隆起がみられる胸の膨らみ。
ややゴスロリっぽい黒基調のクロスデザインがあしらわれたジャケットにスリムなボトムス。
華があるなと一目で惹かれた。こんなことは初めてだった。
彼女のクセ字を見て、俺が彼女に惹かれた理由がわかった。
いつか会ってみたいと思っていた女に、まさかこんな所で出会うなんて――
俺が睨むようにして彼女を見つめていると、空色はかなり焦って目をキョロキョロさせている。
ふん。俺を裏切って他所(よそ)の男と結婚したんや。せいぜい焦らせてやる。
「では、またご案内させていただきます。こちらは先ほどお渡しした名刺と違い、私の携帯番号を書いた名刺になりますので、お持ちください。工場見学の詳しい場所の資料は、別途帰り際にお渡しいたします。来週の朝十時に現地集合になりますので、朝早くになりますが遅れないようにお願いします。それまでに、簡単なお見積りのパターンを作って出しておくように致します。今後、奥様――律さんにご連絡させていただきますね」
いつもの営業マンの新藤ではなく、白斗になったつもりで彼女を見つめた。
ステージの時の俺を思い出し、全てを射殺すような目を相手にぶつける。何年振りかな、白斗を思い出すのは。
わざと『律さん』って呼んでやった。嫌でも他の男のものになった苗字なんか呼びたくない。
さあて、気が付くかな? 俺の正体。
気づいた時にお前はどういう反応するかな――そう思ったけれど彼女は俺のことなんかまるで気づきもしないで、マイホーム建設のための工場見学の資料を受け取って、旦那と一緒に帰って行った。
まあ、もう俺のことなんか忘れているよな。
追っかけのファンなんて所詮その程度。期待するだけ損。
会ったことも無い女に夢を抱きすぎた。
だからこそ余計に勝手な想像して、自分に都合いい存在として彼女を感じていた。
残念や。
皮肉なことだと思わず嘲笑が漏れる。あれだけ知りたいと思っていた空色の所在をこんな形で知ってしまうなんて。こんなことなら知りたくなかった。
お前だけは遠い空の下、俺だけを愛してくれる唯一の女だと思っていたのに。