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四日目の夜。
煌はどうしても眠れなくて、月明かりだけが差し込む冷たい廊下を一人でうろついていた。
別に、あいつを心配しているわけではない。ただ、どうしても目が冴えて眠れないだけだ。
そう自分に言い聞かせながらあてもなく歩いていると、ふと、南棟へと続く冷え切った空気の向こうから、かすかに沈香の香りが漂ってくることに気がついた。
足が、勝手に止まる。
(……三日も調律できてないって、神様的にどのくらいまずいんだろ)
考えるな、と頭が言う。だが、身体が言うことを聞かない。
気がついたときには、煌は瞑想の間の前に立っていた。格子戸の隙間から、頼りない薄光が漏れている。
静かに、音を立てないように格子戸を細く開けると――。
月光の射し込む、白檀と沈香の香りが濃く漂う静寂のなか、朱雀が目を閉じたまま座していた。
いつもの豪奢な上着は脱ぎ捨てられ、白い単衣一枚の姿。燃えるようだった緋色の髪は、月明かりを受けてくすんだ色に沈んでいる。
その横顔は、ひどく疲弊していた。
圧倒的な存在感で部屋中の空気を支配していた、あの朱雀が、今は触れれば壊れてしまいそうなほど痛々しい。
(……嘘だろ)
煌は格子戸を掴んだまま、息を詰めた。胸の奥が、嫌な音を立ててきしむ。
そのわずかな気配を感じ取ったのか、朱雀がゆっくりと目を開けた。光を失いかけた黄金の瞳が、まっすぐに煌を捉える。
「……来たか」
「……別に、来ようと思って来たわけじゃねぇ」
「そうか」
それだけ言うと、朱雀はまた静かに目を閉じた。追いかけてこない。強引に引き寄せもしない。いつものようにニヤニヤと揶揄ってもこない。
その拒まない拒絶のような態度が、煌には逆に堪えた。
「……っ、バーカ」
誰に言うでもない悪態をひとつ吐いて、煌は格子戸を引き開け、部屋の中に踏み込んだ。朱雀のすぐ目の前に、どかりと胡坐をかいて座る。
「手、出せ」
「……」
「聞こえなかったか。手、出せっつってんだろ」
朱雀が静かに手を差し出す。煌はその節立った長い手を、乱暴に、でも確かな体温を求めるように強く握りしめた。
「勘違いすんなよ。これは……燕花にめちゃくちゃ頼まれたからだ。それだけだからな」
「……そうだな」
「アンタのことが心配なわけじゃ、全然ないから」
「……あぁ」
「ほんとに、それだけだから」
「……煌」
「なんだよ」
「ありがとう」
煌の喉の奥で、言葉が詰まった。
怒鳴ろうとして、吐き捨てようとして。でも、今夜の朱雀の声には、いつものような余裕も、からかいの色も、何もなかった。
ただ、静かで。
ひどく、人間くさかった。
「……礼とか言うな、気持ち悪い」
「ははっ」
「笑うな」
「すまない」
握り合う朱雀の手から、じわりと熱が伝わってくる。煌はその熱が、いつも受ける強引な質量に比べて、今夜は妙に頼りなく揺れていることに、気づかないふりをした。ただ、その熱を少しでも吸い上げるように、指先へさらに力を込める。
繋いだ手を離さないまま、二人は無言で格子窓の向こうの月を見た。
(……明後日には、作戦を動かさないといけない)
煌は朱雀の青白い横顔を盗み見て、すぐに痛む胸を隠すように視線を逸らした。
(こんなに弱ってる状態で、こいつを囮にするのか、俺は。……静遠の奴、本当に来るんだろうな)
朱雀を危険に晒すことへの恐怖と、裏切ったことへの割り切れない感情。胸の奥で複雑に燻る熱を、煌はぎゅっと奥歯を噛みしめて押し込んだ。冷戦の終わりは、同時に、仕掛けられた罠のカウントダウンを意味していた。
コメント
1件
煌さん、無理してるの痛いほどわかるよ……「心配なんかじゃない」って何度も言い聞かせながら、結局手を握って離せないところが切なくて。あの朱雀がこんなに静かで人間らしい声で「ありがとう」って言うのも、胸にくるね。弱ってる姿を見せてもいいと思えた相手が煌さんなんだと思うと、二人の距離がじわじわ縮まってるのが伝わってきた。でもその分、作戦のカウントダウンが怖い。最後の煌さんの覚悟と恐怖が混ざった表情が、ずっと頭から離れないよ……🌙