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静かな夜だった。
銀の月が
夜気に滲む雲を透かして淡く光り
桜の葉を冷たく染め上げていた。
喫茶桜の裏手
居住スペースの建物の窓辺に
一羽の烏が止まっていた。
黒曜石を磨いたような羽は
月光を微かに反射しながらも
風に揺れることなくぴたりと静止している。
その漆黒の瞳は、ただ一点──
薄く開け放たれたカーテン越し
暗がりの室内を映していた。
そこに見えたのは、ひとつのベッド。
ソーレンとレイチェルが身を寄せ合い
静かに眠っている。
まるで互いの鼓動を頼りに眠る子供のように
腕を絡め、額を寄せて。
悪夢に泣き叫び、震えていた彼女は
今ようやく安らかな吐息を取り戻していた。
その瞬間を、烏は見逃さなかった。
数刻前──
彼女の夢の叫び声が
居住空間を震わせた刹那。
時也の指が止まりもせず
すぐさま烏を走らせた。
式神であるこの烏は
ソーレンとレイチェルの部屋の窓辺に潜み
ずっとふたりを見守っていた。
そして今、その役目を終え
受信用として居室に留まる
〝もう一羽〟のもとへ──
静かに報告を送り終えた。
⸻
一方、居住スペース最奥の居室。
静まり返った寝室のベッド。
重厚な天蓋が夜の帳に溶け込み
月の光がレースの布越しに広がっていた。
天蓋に包まれたベッドの上
白いシーツが乱れて波打っている。
その中央、上体を起こした男の裸の背に
汗が微かに浮かんでいた。
長くしなやかな指先。
端整な横顔に
寝起きの気怠さが残っているにも関わらず──
その瞳は
冷え切った夜気にさえ動じぬほどに
静かで、冷徹で、整っていた。
櫻塚 時也。
静かな吐息を一つ零すと
彼は腕に止まる漆黒の烏に目を向ける。
「⋯⋯実に、馬鹿らしいですね」
呟くように。
けれどその声音には
確かな冷笑が滲んでいた。
腕の上、微動だにしない烏。
だが時也は
その瞳の奥に〝彼女〟の様子を見ていた。
──レイチェル。
夢に怯え、泣き叫び
世界を焼き尽くすアリアと
共に破壊に至る〝自分〟の幻影に
絶望した彼女。
彼女は他者となり、その記憶をなぞり
誰より深く〝見る〟ことができる。
だからこそ
あの悪夢に宿った〝可能性〟は
否定しきれぬ未来の
一端だったのかもしれない。
だが──
「世界を壊す?
アリアさんの願いは、そんなことじゃない」
烏が、わずかに羽を震わせた。
彼の声は、たった一人の女にしか見せない
揺るぎなき信仰に満ちていた。
いや──
もはやそれは信仰を超えて
宿命そのものだった。
時也は視線を落とす。
隣で眠るアリアを見つめながら
そっとシーツを持ち上げ、その肩に触れた。
月の光が、彼女の肌に映る。
額にかかる金の髪。
紅潮した頬。
微かに震える呼吸。
静かに揺れる胸元。
その全てが、時也の目には神聖で、美しく
そして脆かった。
「確かに⋯⋯
僕はアリアさんの願いは
全て叶える心算です」
その言葉に、狂気はなかった。
むしろ、あまりにも真っ直ぐすぎて
冷たいほどだった。
──世界。
それは、アリアにとって呪いであり
牢獄であり、罰であった。
何百年も前、同族を焼き、血を流し
一人だけ生かされ
不死という業火に囚われた彼女にとって
この世界に〝救い〟など存在しなかった。
だが──
それでも
彼女はこの世界を憎み切れていない。
誰よりも壊れたその心が
まだ──祈ることを止めていない。
「⋯⋯世界が無ければ
人は人として在れないのです。
だから
アリアさんがこの世界を滅ぼすことなど──
あり得ない」
静かに紡がれたその言葉の重さに
烏が再び静かに羽を震わせる。
そして、時也はゆっくりと彼女の手を取り
絡めるように指を重ねた。
絡んだその指に、ほんの少しだけ力を込めて
彼女をその腕に包み込む。
「不死の解呪と、人間としての死──
それが、僕の〝妻〟の願いです」
アリアの首筋に、そっと唇を落とす。
ひとつ、紅を刻む。
だが──
それも不死の身体が
すぐに掻き消してしまう。
「世界なんかよりも⋯⋯
僕は、不死鳥という神を滅ぼします。
そして、今度こそ共に〝人〟として
最期を迎えるために──」
その言葉を最後に
時也はそっと彼女の身体を引き寄せ
腕の中に包み込んだ。
世界がどうなろうとも構わない。
神が滅ぼされようと、歴史が焼かれようと。
彼の目的は、ただひとつ。
〝彼女〟が、人として笑って死ねる日を──
この手で迎えさせてやること。
それこそが、櫻塚時也の願いであり
そして
決して誰にも覆せない〝選択〟だった。
月が、夜空を渡る。
烏は静かに、また次の風を待っていた。