テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#ハッピーエンド
十色
116
#ハッピーエンド
高瀬船
786
#外科医
水羽凛
126
#シングルマザー
水羽凛
56
この世から泡のように消えて無くなろうと、思っていたら私より先に死にそうな人がいた。
ここは海へと続く森の獣道。
頭上には真珠のごとく月が輝いていた。遠くから潮騒の音が聞こえるだけの静かな夜だった。
その人は、太い幹の下で倒れていた。
その人から聞こえる、ひゅうひゅうと間隔の短い呼吸音はまるで頼りない海風のようだ。
意識はないらしく、体の周りには赤黒い血溜まりが出来ている。月光にその表面がぬらりと怪しく光る。周囲に漂う森の木々の香りに、濃厚な土の匂い。
そして血臭。
濃厚な死の気配が私の足を立ち止まらせていた。
はぁはぁと乱れる私の呼吸。
酸素を肺に送りながら、なぜこんなところに人が血塗れで倒れているのだろうか。
死の気配に絡め取られたかのように、倒れている人に近寄ってしまう。
「だ、大丈夫ですか」
この世から消えてしまいたいと思ったのに、つい声を掛けてしまった。怪我人はどうしても見捨てておけない。
倒れている人の顔を覗きこんで、私は息を呑んだ。
「なんて美しい人……」
それはあまりにも綺麗な美貌の男性だった。
歳の頃は多分、二十代半ばだろう。
黒絹の髪に白い顔。その顔に飛び散る血飛沫さえ、白い椿に点る朱の如く艶やか。このような状況なのに見惚れてしまうほど、彼は酷く端正な姿をしていた。
血に塗れ、泥を被ってもなお、彼が纏っているのは気品を失わない仕立ての良い軍服。
だが、その胸元は無惨にざっくりと裂かれ、その裂け目が月光に照らされ、赤黒く濡れていてゾクリとする。
「これは──誰かに切られたの……?」
つい声に出してしまう。男性は答えない。
周りには誰もいない。何故こんなところで切られて、倒れているのだろうかと胸に疑問が浮かぶが、夜の森が答えてくれるわけもない。
ただ夜風が問答無用で、鼻先に微かに海からの潮の香りと強い血臭を運んで来るだけ。
いくら疑問やなぜと思っても、こうして立ち止まっている暇などない。
私──|八尾《やお》|真那《まな》は今日、十九歳になった。
無理やり結婚式を挙げさせられ、長年自分が騙されていたと知って、逃げ出してきたのだ。
祝言だけであれば耐えられた。
しかし騙されていたことや、相手から子を成すと、告げられて私の心の琴線がぷつりと切れた。
これからは私の《力》や知識だけではなく、体や未来まで搾取される可能性に耐え切れなかった。
私がこれ以上、あの人たちに利用されないためには泡のようにこの世から消えるしかないのだ。
「だって私は|稀人《まれびと》だから……!」
そのとき、ざわっと大きな風が木々をゆらしてびくっと肩を跳ねさせた。
ごくりと喉を鳴らして後ろを振り向くが、鬱蒼とした森が広がっているだけ。
しかし、直ぐにでも私を捕まえようと追っ手がそこまで迫っているかもしれない。
男性から目を離して、崖へと続く薄暗い獣道を見つめる。
この人を置いて、あと少し歩けばいい。
それで私の希望は叶うのに……動くだけなのに。足がこの場から動かなかった。
「──ダメ。この人を放ってはおけない」
ぐっと強く拳を握る。
やはり怪我をしている人を見過ごせなかった。これはきっと私の血筋のせいなのだろう。そして、自分の為でもあった。
「……最後にいいことをしたら、きっとあの世でお母様もお父様も褒めてくださるわ……」
意を決して、助けられるかはわからないが、倒れている人の手当をしようと思った。
一瞬だけ、この日の為に身に付けさせられた白絹の婚礼衣装の裾が汚れるかと思ったけれど、そんなの今更だ。
屋敷から抜け出し、森を駆け抜けて、化粧も髪も乱れてしまった。草履はとっくに脱げている。
着物などどうでもいいと思い、膝を突いて倒れている人に近づき、声を掛けるが無反応。
次に血溜まりに無造作に置かれた手首の脈を取るが、弱い。
「脈が触れている。体温も低い。そして、この出血量。命が危ないわ」
上体を仰向けにして手当てを開始する。まずは止血せねばと、迷うことなく軍服を脱がした。
「治療の現場に恥じらいなど不要よ」
そう自分に言い聞かせるが、僅かな羞恥心を感じてしまいながらも、男性の白いシャツも脱がした。
滑らかな肌に、鍛え抜かれた上半身。
月明かりでも分かるほどに、そこにはざっくりと赤黒い傷が走っていた。
「左前|胸部《きょうぶ》から腹部にかけての|裂創《れっそう》活動性出血あり。呼吸微弱」
生家の知識と東堂家で叩き込まれた医療知識が、体に染み付いていたのでこのような物言いになってしまった。
男性の症状を口にしながら、私は着物の袖を口で引き裂き、帯を解いて、その男性の傷口へと止血を始める。
胸部以外にも左腕にも大きな傷があった。きっとこれは体を守る時に出来た|切創《せっそう》だろう。
こちらも止血のためにキツく縛る紐が要ると、焦りながら辺りを見回すが、都合良く紐など落ちてはいない。
「はぁ、帯や着物を割いたものだけでは到底足りないわ……!」
いつの間にか額から汗が流れ落ちる。
迷ったけれど、左右の髪を結っていた、お母様がくれた髪紐の片方を使用することにした。
しゅっと髪から髪紐を解く。はらりと髪が解ける。
深い青糸と銀糸で編まれた美しい髪紐。
他にもたくさんお母様やお父様を偲ぶ思い出の品物はあったけれど、あの人達に全て奪われてしまった。
「お母様。ごめんなさい。使わせて貰います」
きゅっと紐を握り締めて、腕の止血を再開する。
「うっ」と男性が呻き声を上げた。
そのとき、妙な呼吸音に気が付いて私は耳を澄ます。
「なんだろう……このゴロゴロした音は……まさか、|水泡音《すいほうおん》っ!? |裂創《れっそう》が|胸腔内《きょうくうない》に達している……!」
これでは止血などをしても到底助からない。最低でも|外套針《がいとうしん》とゴム管、それから|水封瓶《すいふうびん》。優秀な医師に看護婦。それらが揃った最先端の病院にて、|胸腔穿刺《きょうくうせんし》の手術が必要だ。こんな夜の森の中では手術など臨める訳がない。
──この男性は、助からない。
体から流れ出た血液は、まさに溢れ落ちた命そのもの。
なんとかしなければと思う反面、冷静に死を見つめてしまう自分が嫌だった。
でも私には──稀人たらしめる、死をも覆す力と言われる《《人魚の力》》がある。
強力な回復の力。この人にその力を使うべきかどうか、迷った。なにしろ──
「い、今までは私が、直接使ったことはない。今までは血を抜かれて、それを薬として加工されていたらしいから……」
迷いと動揺が言葉に出てしまった。
私の血を抜いた『東堂家』の人達は言っていた。私の血液は直接使うと強力過ぎる。
通常の人間だと私の血が勝って体を活性化させてしまい、寿命を早めるのだとか。
コメント
1件
おお、これはめっちゃ引き込まれる序章やったわ…! 主人公の絶望感と「それでも助けずにはいられない」葛藤が生々しくて、一気に感情移入した。 美形の軍人男性と「稀人」「人魚の力」の設定も気になりすぎるし、この先どうなるかめっちゃ読みたい🔥 次話楽しみにしてます!