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その迷いから、手当てする血まみれの手を止めた瞬間。男性の力なく項垂れていた手が、私の手をがしっと掴んだ。
「!」
男性の血に汚れ、ぬかるむ指先。その手の力強さに困惑する。こんな力がどこに残っていたのだろう。今際の際の最後の力なのかと驚く。
「……こんなところで、し、死ねるか……っ」
男性は苦しそうに言葉をこぼしながら、そればかりか体を起こそうとする。私は慌てて、その上半身を抑えた。
「動かないで下さいっ! あなたはとても危険な状態ですっ」
「それが、どうしたっ……! この|蒼波《そうば》|千尋《ちひろ》、亡き弟と交わした将官になる約束がある。それが叶うまで、死ねるものかッ」
「約束、あなたには自分の命より大事なものがあるのですね……」
「そう、だっ」
羨ましいと思った。
|唯唯諾諾《いいだくだく》と過ごしてきた私とは違う。
彼の力強い言葉に反応するように、ざざっと波音のように風が森の木々を揺らして、冴え渡る月光が男性の顔を照らした。
蒼波千尋と名乗った男性は、瞳を閉じていると人形のような硬質な美貌だと思ったが、彼が瞳を開けると、眩いばかりの力強い雄々しさを感じた。
凛々しい秀眉を歪ませ、形のよい額に脂汗を浮かべ、頬にはべったりと赤い飛沫が張り付いている。
その苦渋の表情や痛々しさこそが、死への抗いだと全身全霊で訴えていた。
それでも彼に纏わりつく死の気配を振り切れないでいた。
しかし本人は呻き声を噛み殺し、死の気配を振り切るように私の制止を無視して、必死に起き上がろうとしているのでびっくりする。
男性の体を抑え込み、その顔を見つめる。
「それでも人には死という終着点があります。お願いだから動かないで!」
あなたは肺を切られていて、酷い痛みがあるはずです。呼吸すら苦痛なはず。
自ら痛みを加速させなくても、このまま静かに、じっとしているほうがよっぽど楽で安らかなのにと言いたくなる口をきゅっと結び、瞳で訴える。
しかし、彼は──ニヤリと笑った。
「それでも、のうのうと死を受け入れるなんて真っ平ごめんだ」
「!」
ぜぇはぁと「俺を切ったアレは、まがいものに決まっている」と、熱にうなされたかのように美しい唇を動かす男性。
その意味は私にはわからない。
しかし私を押し除けて、なおも立ち上がろうとする意思に私は体が震える。
私は両親が死んでから、東堂家の人に私の力が世の中の役に立つと言われて、それを信じて今まで生きてきた。
私は《《稀人》》だから。人とは違うから。世間に稀人だと見つかると、どこかに連れて行かれてしまうらしいと両親に聞いた。
でも東堂家は私を世間から守ると言いながらも、長らく騙していた。無理矢理結婚も進められた。
東堂家にこれ以上、私の力を利用させないようにするには……私が消えてしまえばいい。
最初で最後の抵抗は死しかないと思った。
だから私は屋敷を抜け出し、ここまで走って来た。
けれどもそんな私の悩みなど、小さなことだと言わんばかりの、蒼波千尋様の力強いその瞳。
黒瑪瑙如き漆黒の深みと、瞳の奥に玻璃のような光を湛えていて、あまりにも強い意思を持つ瞳にごくりと息を飲んだ。
私の本能が告げる。
この方はこんなところで──理不尽に死んではならない!
「蒼波様は生きたいのですね?」
考えるよりも早く、口が言葉を紡いでいた。
「はぁ、はぁ。し、死にたいなど、一言も言ってない、っ、ぐうっ」
「分かりました。では、私の命をあげます」
「……何を言って──ッ」
蒼波様は私の言葉に驚く暇もなく、ごぶりと口から血珊瑚のような、真っ赤な血泡を吹き出した。とうとう上体を起こすことも出来ずにその場で倒れそうになったので、その体を受け止める。
私の腕の中にずしっと感じる蒼波様の体。すうっと深呼吸する。血と土に混じって、蒼波様の髪から白檀の香りがした。
「海の泡になって死ぬより、私は誰かの命の礎になりたい。私の……真那の命をお使い下さいませ」
蒼波様は私の耳元でごふっと呻いた。きっと『何を言っているんだ』と、言いたかったのだろう。だから、私は安心して下さいというように、蒼波様の冷や汗が浮いた背中を撫でる。
蒼波様の体に止血はしたとはいえ、多くの血が流れた。傷はあまりにも深い。
きっと私の血の多くを与えないと、治癒はしないだろう。
けれど、人間の寿命を早めるという私の血の毒性は──蒼波様ならきっと屈しない。
人魚の力をモノにしてきっと、またこの世界を誰よりも力強く泳いで行くことだろう。
私は最後にそんな人の一部となれることを、誇らしく思いながら体をそっと離し、自らの唇を犬歯でぶつりと刺した。
痛みのあとに、すぐにじわっと口の中に血が広がり、背中に回した手を離し、蒼波様の頬へと触れた。
蒼波様がぴくりと眉を動かした刹那。
迷うことなく、紅に染まった蒼波様の唇に自らの唇を重ねた。
唇の表面を覆う、ぬるりとした血の感触。
舌先に感じる僅かな生ぬるい鉄の味。
そして蒼波様の体温と動揺が唇から、全身へと伝わる。
あぁ、このような身勝手な血の口付けをお許しください。
でもこれであなたは生きる。私が生かしてみせる。お願い、私の分まで強く生き抜いて……!
ぐっとさらに唇を強く重ねる。
「うっ」と、蒼波様が声を漏らすが、私はさらに自分の唇を押し付けた。
唇の傷から流れ込むだけの血で、蒼波様の体全体へと行き渡らないのは百も承知。
しかし、私は稀人。
理屈じゃない奇跡をこの体に宿している。
私は己の血にありったけの|命《力》を込めるように、蒼波様の治癒を願いながら口付けを続ける。
私の命と引き換えでも構わない。
必ずや奇跡を起こしてみせる!
そして、これは私の生涯で最初で最後の口付け。
私は誰かを好きになったことなんかないけど、この口付けに後悔などない。
そのとき、蒼波様がまたグッと苦しそうに体を震わせた。
その苦しみも、あと少しで解放されるからもう少しだけ耐えて欲しいと思った。
お願い生きて!
唇から蒼波様の熱い血潮を感じながら、祈りながら私は口付けをするのだった──。
コメント
1件
ああ、もう、胸が熱くなりました……。自分の命を差し出してでも、誰かを生かしたいと思えることって、なかなかないですよね。真那さんの「私の命をあげます」という言葉に震えました。それでいて、口付けを「生涯で最初で最後」と決めているのが切なくて。蒼波様は生き延びて、彼女の想いをきっと受け継いでいくんだろうな。 素晴らしいシーンをありがとうございます。次が待ち遠しいです。