好きな人にはどうしていつも好きな人がいるのだろう、と彼女は思う。初恋の相手然り。二度目の男然り。兄然り……。
思うに、女を想うことで発生する情緒が、女を惹きつけてやまないのだ。女を想い、自制心を持ち、自分の気持ちを封じたり、逆に、目いっぱい彼女の前では感情を表に出す――そのさまが、愛おしい。思い浮かべるたびに彼女は胸苦しい気持ちになる。兄も、同じだった。
親友の彼女を想う荒木はあまりに美しかった。
なお、美冬は母の再婚で二度姓が変わることとなり――荒木美冬。なんだか寒々しい名前になってしまった。友達には散々からかわれた。
兄も父も母も仕事をしているゆえ、皆、忙しかった。必然、彼女がかなりの家事を担当することとなる。兄と読書以外に興味が湧かなかったので、部活には入らなかった。なので、なお一層家事を頑張ることにした。
家じゅうをぴっかぴかに磨いたり、美味しい煮込み料理を作る。成長過程の彼女だ。家事の腕はあがる一方だった。
母が、入院患者にその話をすると――なんと、まだ高校生の彼女に、家事をして欲しいと頼む者が現れた。
仕事となると真剣にやらざるを得ない。彼女は本やネットで清掃について独学で勉強をし、お小遣いのなかから業務用の薬剤や道具を購入した。家族は仕事中なので、彼女は大きなスーツケースも購入し、道具一式をそれに入れて依頼先へと向かった。どのクライエントも、喜んでくれた。
口コミで彼女の評判は広まり、放課後、仕事でいろんなお宅にお邪魔することとなった。思ったのは――自分たちのような家庭はレアケース。みんな両親が揃っており、きょうだいが一人ふたりおり、母親はパートに出ている……ということだ。家庭生活を盗み見るようで、気が引ける部分もあったが、仕事は仕事として行った。
兄は、彼女の仕事ぶりに驚いたようであった。「みっちゃん。まだ高校生なのに……すごいね。うちのなかも綺麗にしてくれているし」
「適材適所ってものがあるのよ」兄に認めて貰えたことが嬉しいが、その感情は出さないようにする。「なんだかわたし、この仕事向いているみたいだから。出来る限りのことをしようと……思うの」
彼女は大学の経済学部に進学した。経営のことを勉強したいと思ったのだ。掃除や、炊事、それから子どもの送り迎えをするアルバイトは継続。彼女の仕事ぶりを賞賛するひとばかりだった。クレームなんか滅多に貰わなかった。
兄がパソコンに詳しいので、助けを得てウェブサイトを作り、そこで募集を受け付けるようにした。仕事と学業の両立はなかなか大変だったが、それでも、子どもを育てる母親たちの力になりたくて、彼女は頑張った。
大学卒業後はコーヒーチェーン店に就職した。現場の店舗で二年、本社で一年勤務した。何故、コーヒーを選んだというと、兄が好きなのを知っているのだ。兄は……システム部に勤務する傍ら、小説を書いており、賞を受賞した。大きな出来事ではあるが、兄は、家族以外の誰にもそれを言わなかった。終盤に性描写があり、ちょっと恥ずかしい……と、彼は語っていた。
兄の作品を読んで彼女は悟った。兄は――自分の切ない恋心を投影しているのだ。兄はまだ、好きなのだろうか。親友の彼女を。結局それは聞けずじまいだった。
生活の激変を経ても、兄への――信頼や愛が、揺らぐことはなかった。家族としての静かな情愛――兄に対する感情を表すならそれだ。セックスしたいとは思わない、でも、兄には幸せでいて欲しい。
とはいえ、まだ若く、性欲盛んな彼女は、いろんな男と寝た。どの相手も、彼女持ちで……どうして自分と寝る男は他に女がいるのだろう。仕事や好きなことがめきめき上達する一方で、この裏の現実を知る者は誰もいない。うんざりもしていた。
彼女は実家暮らしを継続し、コーヒーチェーン店で勤務もしているのでお金を貯めて、やがて――花見町にテナント募集があるのを見つけ、念願のコーヒーショップを開くことにした。カフェを開くとなるとコーヒーは機械で作るのが一般的だが、敢えてのハンドドリップコーヒーにした。時間はかかるが、美味しいものを頂ける――隣の古本屋に見合ったクオリティのものを提供したかった。
駅前でチラシ配りをしたり、HPを作って友人知人に告知をしたり。開店に向けてあらゆる努力をした。その努力は実り――無事、開業した。
カフェの名前は兄が名付けた。フローラ。あるゲームで主人公の花嫁を選ぶ分岐点があり、兄も彼女も貧乏で健気で主人公を想い続けたヒロインを選んだ。けども報われない運命に翻弄されるお金持ちの女性――いくら金があっても想いが成就しなければ意味がない。現実では報われて欲しいとの願いゆえだった。彼女もそのゲームのリマスター版をプレイし、兄の思想に共鳴した。
店を開いてからも家事代行やシッターの仕事は継続したゆえ、忙しかった。信頼出来る人間にある程度の経営を任せ、彼女は経営するカフェには朝と晩、立ち寄るようにした。経営者として監視の目を光らせないと――店員が緩んでしまう。幸いにして雇った学生やパートの人間は皆謙虚で勤勉で、美冬の望む通りの接客と技術を身につけてくれた。――ある一名を除いて。
「……すみません荒木さん。ここだけの話、ちょっと……困っているんですよ」
夜にカフェに訪れたバイトの大学生である伊藤《いとう》に打ち明けられたのは、開業して半年ほどが経過したときのことだった。
「困ったってどういう……」店の裏の従業員用スペースにて、彼女は大学生の告白に耳を傾ける。「バイトのこと? 人間関係?」
「両方です」と真顔で彼は答えた。「ここのバイト、気に入っているんで続けたいんですけど……甘原《あまはら》さんに付きまとわれていて」
「……甘原さんが?」彼女は驚いた。甘原は――主婦で、手際がよいと、周囲には評判だ。結婚して子どもも夫もいるはず――それが、大学生に、恋……?
彼女にはそのからくりがまったく分からなかった。ともあれ、甘原はその日は出勤しておらず、伊藤の言い分を信じて、彼のアパートに立ち寄ってみれば、甘原が――アパートの前に立っていた。真冬だというのに、Tシャツにデニム姿で。美冬はぞくりと背筋が粟立つのを感じた。
「かっちゃん……遅かったわね」狂気を宿した甘原の瞳。「はいこれ。お弁当。……あったかくして食べてね」
「いや、おれ、前も言いましたけど……そういうつもりないんで」
ここで物陰に隠れていた美冬は姿を現した。「甘原さん……残念です。これ以上、伊藤くんに付きまとうことがあれば、警察を呼びます」
みるみるうちに、甘原の顔色が変わった。「なによ! ……そうなの? そういうことなの? かっちゃんを荒木さんが……騙しているのね!」
美冬の言い分は通じなかったらしい。目を覚まして! と、甘原は伊藤の両肩を手で持ち、叫ぶ始末だった。「かっちゃん……あなたは騙されているのよ! この女! 父親の虐待が原因で離婚している欠陥品なのよ! 虐待をする男の血を引き継いでいるの!」
どうしてそれを……。
「あら。知らないとでも思った?」甘原は笑う。「ここから中野は近いじゃない。主婦の情報網を舐めちゃあいけないわ。――ね。かっちゃん。わたしの言うことを信じて? あなたは騙されているのよ?」
「――お断りです」
えっ? と甘原の表情が動いた。「なにを……言っているの。だってこの女……」
「育ちがどうだとか関係ない。おれは――ありのままの荒木美冬さんが好きなんです。甘原さん。あなたは……夫も子どももいる。彼女持ちの大学生になんか構っていないで、自分のご家庭を――大事にしたらどうです」
甘原の顔色が変わった。彼女は涙ぐみ、そうか、そうなの……と肩を落とした。
「わたしよりもその女がいいのね。……分かったわ。確かに、荒木さんは美人だもの……。わたしなんかより全然。でもね。――かっちゃん」
甘原はきっ、とふたりを交互に睨みつけ、
「あなたたちふたりが上手くいくとは到底思えないわ。……気が変わったら連絡ちょうだい」
そして、甘原は去った。美冬には……なにが起こったのか理解出来ない。ともあれ、ピンチは脱したようだ。美冬が伊藤の顔を見上げると、唇が封じられた。真冬に味わう若い男の唇は――かさついており、あまい、あまい味がした。
その日のうちに美冬は伊藤に抱かれた。嘘から出た誠――それからふたりは、互いの肌を貪る関係に発展した。
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