〈ストーリー〉
※MVの設定を拝借します。また、多少の筆者の想像も含みます。
まだ息も整わないうちに、彼女は帰り支度を始める。決まって帰るのは彼女のほうが先だ。
服を着て乱れたベッドシーツを直す。
一体何のためにこんなことをしているのか、自分自身でもわからない。
ホテルの一室でたった二人。何を彼女に与えているのか。
壁時計を見上げると、その針は午後9時半を指している。来てから2時間ほどが経っていた。
鞄を持ってまさに出ようとしていた彼女を、「ねぇ」と短く呼び止める。
「俺なんてさ、居なくていいって思ってんじゃない?」
立ち止まったまま、振り返ることはない。
ベッドのふちに座って答えを待つ。
くるりと顔をこちらに向けると、勝ち気で僕よりも切れ長の目と視線が合った。
唇の端に、少しだけ笑みを浮かべただけだった。
僕は無表情を貫いたまま、その瞳を見つめて真意を汲み取ろうとした。
でも、まるでブラックホールのような漆黒のそれには何の感情も映していなかった。
彼女はゆっくりと歩み寄ってくる。僕の首筋に手が触れる。
愛で満ちたように優しく撫でるその指先も、冷たくてぞっとする。
そうだ、この愛情だって嘘偽りなんだ。
ずるい。僕にだけ火をつけておいて、彼女のほうはすっかり消え去っている。
そして鞄から小さな紙切れを出し、僕のシャツの胸ポケットに入れた。
「私のいないところで読んで」
そう告げると、出て行こうとする。とっさに口が動いた。
「待って」
かすれた声だった。ひとつ咳払いをし、
「……送っていってくれないか」
そんなことを頼むのは、初めてのことだ。いつもタクシーで帰っていて、彼女は自分の車だ。
彼女は黙っている。逡巡しているのかもしれない。
「地下のA。用意ができたら来て」
踵を返し、ドアの向こうに消えた。
重い腰を上げ、上着と鞄を持って靴を履く。忘れ物がないか確認して、電気を切った。
キーをフロントに返し、エレベーターで地下駐車場の階まで降りると、伝えられた通りAゾーンに彼女のビートルを見つけた。
すでに運転席に座っている。助手席に乗り込んだ。
「途中まででいいから」
彼女は何も言わずにうなずき、車を発進させた。
地上へ出ると、雨が降っていた。濡れゆく窓ガラスを漫然と見つめる。
彼女との出会いはSNSを通じてだった。だから、最初からそんなに本気ではなかったのかもしれない。
実際、最近はほとんど身体だけの関係だった。
でもこんなことになるなら、やらなければよかった。
彼女に渡してしまった時間は、もう返してくれやしない。ヨリなんて、きっと戻らない。いや、絶対。
なのに僕だけ諦められないのはなぜだ。
隣の彼女を見てみるが、運転に集中していてこちらを向く気配は微塵もない。
こうなれば、こっちから切ってやりたかった。でもすぐに別れたいわけでもないから、すがってしまう。
そんなの笑えないな、と自分でも思った。大人げないというか情けない。
でもきっと、終わりはもうすぐやってくる。
そんな時の行方は見えそうなのに、結末を知りたくない気もする。
また車窓の外へ視線を戻すと、相変わらず住宅街が流れていく。一体どこに行こうとしているのだろうか。
もうこのまま、あやふやで虚ろなまま暗い夜に溶けて消えてしまいたい…そう願った。
続く