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ふと目覚め、座ったままずっと眠っていたこと、今起きたこと、自分は特別なものの何もない子供だということに少女は気づいた。
目の前のパソコンは無機質な明かりを灯しているが、部屋はぼんやりと薄暗い。
カーテンの隙間から差す太陽の光に目を細め、眉根を寄せる。一つ伸びをし、椅子に座ったまま室内灯から垂れ下がるひもに手を伸ばす。すらりとした手が紐をつかみ、少女は舌打ちをして、忌々し気にひもを引っ張る。頭の中が靄がかっていて、意味もなく回転いすを揺らした。
ふと机の横の本棚の端に並ぶ大学ノートに気が付く。本棚に並んでいるのは少女が子供の頃から読んでいた絵本や児童書、小説に漫画が主。教科書や参考書、ノートの類は勉強机に据え付けたスチール棚に並んでいる。
十数冊のノートに手を伸ばし、端の一冊を抜き取る。指についた埃っぽい感触をシャツの裾で拭い、表紙に目を落とす。汚い、下手な、幼い文字で『わたしのまほうのほん』と書いてあるらしかった。『わ』は『れ』に見え、『ま』と『ほ』は反時計回りの円を描いている。二つの『の』は天井を突き抜けていた。
中には幼い子供の夢のような、妄想が沢山詰め込まれている。空を飛び、猫と話し、お姫様のドレスを身にまとう。残りのノートも似たような類だ。
昨年までこの遊びは続いていた。おおよそ一年に一冊ノートを消費する。ペースが多少崩れることはあったが、一年ものあいだ放ったらかしにしたのは初めてのことだ。全てのノートを引き抜き、中身を読んだり、観たりした。とても長い文章を書いているノートがあれば、べたべたとシールを貼り付けているノート、妄想の動物や妖精を描いている、と思われるノートもある。絵心は特段優れているわけではないので、誰かが見ればお化けや怪物と思われても仕方ない。おおよそ十年に渡って行われた遊びなので、手がけた少女の精神年齢の違いのせいか中身はとりとめがなく、決まった方向性や統一性というものがなかった。
少女はおもむろに勉強机の引き出しを開けて新しい大学ノートを取り出した。今の自分は昔の自分と違うという思いが少女の中にあった。想像の具は蓄えられ、妄想は大いに膨れ、それを意味ありげに取りまとめられる。字も随分綺麗に書けるようになったし、多少物事の好みも変わった。絵心は相変わらずだが、このノートには必要がない。
幼い頃から昨年までの妄想ノートを読みつつ、一つの創造として取りまとめていく。勉強以外で真っ白なノートに鉛筆で書くのは久しぶりだった。その当時は考えもしなかった別のノートのアイデアを組み合わせ、体系づけ、魔法だとか、神話だとか、陰謀だとか【意味付ける】。
なぜこの一年この遊びをしなかったのかを、妄想に溺れながら、思考の片隅で考える。
必要がなかったからだ。この一年はこの遊びをしなくても楽しかった。それだけだ、と少女は思った。
じゃあなぜ、もう一度この遊びをしているのか、と考えたが、その先は考えないことにした。
まるでノートの中の想像の世界に入り込んでしまったかのように、勉強机から離れられなくなった。過去のノートを読み返し、分からないことをネットで調べ、再びノートの空白に立ち向かう。この一年の空白を埋めてしまうみたいに鉛筆でひたすらに【書き連ねた】。時間を忘れ、時間に忘れられ、一つのノートを使い切ってしまった時、ふと気づく。
夜が白んでいる。いつの夜が明けているのかすぐには分からなかった。さっき目覚めた時が日曜日だった事に気づくが、今が何曜日なのかすぐに出てこない。慌ててカーテンを開け、東の空に昇る太陽を見る。太陽ではなくカレンダーを見るべきだと気づき、カレンダーではなく時計を見るべきだ、と気づく。
すでに夜は明けていて、今日は月曜日だった。少女は中学二年生で、学校に登校すべき時間を三十分過ぎている。
朝の支度をいつもよりも少しだけ慌ただしく行い、朝食は食べなかった。いつの間にか制服を着ていて、いつの間にか制鞄を握りしめている。ケータイにハンカチ、財布とポケットティッシュを持っているかどうかは分からなかったが、玄関の扉の鍵はきちんと閉めた。その時初めて、母がすでに仕事に出かけていたことに少女は気づく。
マンションの六階、いつもなら他に登校する生徒を下界に眺めることができたが今は見当たらない。ケータイは持っていたので時間を確認すると、すでに朝礼は終わり、一時限目の授業が始まっている。急いで学校に行く気はなくなってしまった。走ろうがテレポートしようがタイムスリップできないのであれば、遅刻は遅刻だからだ。
初夏の通学路、薄い影の落ちる住宅街を抜け、何もない河原で釣りをする壮年の男を横目に橋を渡り、湿った空気の大通りを過ぎ、学校に至った。厳格さを体現したかのような校門はきちんと閉められているが、通用口は開いている。少女が以前から懸念していたセキュリティー上の問題点について、今日だけは目を瞑ることにした。
遅刻して教室に入室する際は、現在授業を行っている教師に謝罪するため黒板の側の扉から堂々と、あるいは臆面もなく入らなくてはならない。国語教師に謝罪を済ませ、他の生徒からも多少のからかいを受けつつ、少女は自分の席に座る。授業はとても退屈で瞬く間に過ぎ去った。
休み時間になり、朝のルーチンの一つを忘れていたことに気づいた。教室を出て、女子トイレに入ろうとしたまさにその時、「オリビア!」と自分のあだ名を呼ぶ声を少女は聞いた。さすがに少し気恥しい気持ちになる。廊下の反対側から別のクラスの生徒が呼びかけていた。
こちらに走ってくる親友の姿を見て、「リン、ダ!」と無理やり大きな声を出す。か細くなった絆をしっかりと掴むために。
お互いにしか通じないあだ名を久しぶりに呼ばれるのも、竜胆という名字に由来する親友のあだ名を呼ぶのも少し恥ずかしかった。
とても美しい子だ。豊かな黒髪は羊毛みたいにふわふわで、すべらかな白肌はほんの少し赤みがかっている。語れば楽しく、喋れば賑わい、笑顔も少し曇った顔でさえもその場を彩ってしまう。
中学一年生の時に同じクラスとなって知り合い、色々なことを何度でも語り合い、様々な場所に出かけ、前年度の一年間はまるで夢のような彩り豊かな時間だった。
竜胆の見上げる視線を受けて、受け止めきれずに受け流す。
「どうかした?」と呟く少女の声は少しかすれてしまった。
「数学の教科書忘れちゃったの。二限目なんだけど借りてもいい?」
少しだけ思案するふりをして少女は首を縦に振る。
「大丈夫。こっちは三限目だから終わったらすぐに返してくれれば」
竜胆は大げさに抱きつき、「ありがとうございます。オリビア様。この御恩は一生忘れません」と大げさに感謝する。
「邪魔」と言葉を投げかけてきたのは同じクラスの女生徒、蘇芳だった。
竜胆は「ごめんね」とそれでも明るく謝罪し、二人して退いた。
蘇芳が目の前を通るのを待って呟く。「教室の、鞄に入ってるから持って行っていいよ」
「あ、そか。トイレだね。ごめんごめん。じゃあ、ありがとう。終わったらすぐに返すからねー」
竜胆が手を振りながら去っていくのを横目にトイレに入る。
教室に入る前から、ざわついていることには気づいていたが、それが少女自身にかかわることだとは思いもよらなかった。
何故かまだ竜胆が教室にいて、そして竜胆が珍しく怒鳴っていた。あまり迫力はないが、怒りは確かに伝わった。蘇芳がいつも通り嫌な笑い方をしている。
「返してよ」と言ったのは竜胆で、対面した蘇芳がノートを高々と掲げていたから、竜胆が意地悪をされているのかと思って、少女ははらわたが煮えくり返る。喧嘩するような勇気はないのに、人ごみを通り抜けて蘇芳の元へ歩いていく。そして自分の机の上に広がっている、そこにあるはずのない物に目を奪われる。
蘇芳やその取り巻きのからかいの言葉が熱したナイフみたいに突き刺さる。妖精とか、お姫様とか、選ばれし者とか、生み出した想像が想像者をえぐる。
少女は無我夢中でノートを搔き集めた。顔が熱い。消えていなくなりたいと思った。
十年分の妄想ノートを掻き抱いて、次へと移る思考の隙間に竜胆が「ごめん。オリビア」と呟いた。
そのあだ名もまたクラスメイトたちにからかわれた。
少女は竜胆の顔を見ることもできず、何か言うこともできず、廊下の外へ飛び出した。階段を駆け降り、校庭へ。特別早くも遅くもない歩みで通学路を順に戻っていく。どこへ行こうとしているのか自分自身にも分からなかった。息苦しい大通りは人がまばらで、隠れるところのない河原にはまだ壮年の男がいて紫煙をくゆらせつつ、帰り支度をしていた。土手から河原に降り、少女は男に声をかける。
「ライター。貸してもらえませんか?」
男はじろりと目を向ける。少女の抱える大量のノートを見る。「いいけど。どうするの?」
何と言えばいいのか思いつかず、ノートを見下ろして考えるが、ついに言葉は出てこなかった。
「まあ、火の始末をちゃんとするなら、いいけど」男はライターとバケツを寄越した。「あげるよ。川に捨てちゃだめだよ」そう言って立ち去る男に感謝の言葉も言えなかった。
ライターに火を灯すと少しだけ怯む。昔に火傷した記憶が一瞬だけ思い起こされた。慎重に一冊目のノートに【火をつける】と地面に置き、燃え移らせるために次々と十数年分の魔法と空想、神秘と幻想を【火にくべた】。かがむと顔に熱を感じる。相変わらず顔に熱を感じる。
ほとんど燃え尽きて、灰になったところで細い足が踏みつけた。駆けつけた竜胆が何度も何度も火を踏みつけて消火する。
「なんで!」と竜胆は言い、悲しそうな目で少女を見つめた。
その言葉の意味するところが少女には分からなかった。
「だって」と言いかけた言葉の続きも思いつかなかった。
何の意味もない行為だったのかもしれない、と少女は思う。すでに恥をかき、ノートを焼いたところで恥がそそがれることはない。もしもタイムスリップできたとしても耳に残る嘲笑が消えることはないだろう。
二人は何の言葉も見つけることができず、その内にぽつりぽつりと雨が降り始めた。わずかな残り火がじゅうと鳴って、熱を失っていく。やがて白い煙も止まる。乳白色の空を見上げ、竜胆が持っているノートに少女は気づく。蘇芳から取り上げて持ってきてくれたのだ。
「返して、ノート」という少女の言葉はやけに冷たくて、とても親友だった女の子にかける言葉とは少女自身にも思えなかった。
「やだ」と竜胆はすねた子供みたいに口をとがらせて身を引く。少女が手を伸ばすと身をよじる。「何で蘇芳にからかわれたからってオリビアが大切なものを捨てなきゃいけないの!」
「リン……竜胆さんには関係ないでしょ!」言葉が反射的に紡がれる。「私が不注意で……。竜胆さんのせいで……」
【はっと気づき】、続きの言葉を【せき止めた】が、もう手遅れだ。
竜胆が泣いていた。大粒の涙を拭いもせずにすがるような目線を少女に向けていた。
泣きたいのはこちらだ、と少女は【思った】。【立ち上がり】、無理にノートを【奪う】と勢いあまり、【足を滑らせ】、【尻もちをつく】。
気が付くと大雨だ。これではもう火はつけられない。
【泥も拭わず】【立ち上がり】、【川に向かって駆け出す】。ノートは濡れ、もう中身もぐちゃぐちゃかもしれないけれど、そうせずにはいられなかった。
川に投げ込もうと振りかぶったノートを竜胆がつかむ。ノートは千切れ、勢い余って少女の体は川に【投げ出された】。