夜明け前に屋敷を出た
ルシアンとエリアスは、
薄い霧の立つ森を進んでいた。
鳥もまだ鳴かず、
空気は冷たい。
「人影はなしか」
エリアスが静かに言う。
「帝国兵が残っていれば
即時戦闘だったが……
撤退したらしいな」
ルシアンは短く頷き、
エリオットの家へ向かう。
―――
昨日よりも
さらに冷たく、
さらに静か。
「……昨日見た通りだ」
ルシアンが呟く。
散乱した形跡はない。
争いもない。
最低限の生活の痕跡。
薬草、木刀、
椅子、寝具――
どれも、昨日と変わらない。
エリアスは
棚の上に目を留めた。
「――これだな」
古い革表紙のノート。
埃をかぶっていない。
つまり
使われていた。
「日記……?」
ルシアンが受け取り、ゆっくりと開く。
最初の方は
生活か記録か
短い文章が続く。
【薬草の香りが落ち着く】
【夜、咳がひどい】
【眠れない日が続く】
病の影。
進むにつれ
文章が途切れ途切れになり
息の浅さが紙越しに伝わる。
そして
ある日から突然――
見知らぬ名前が書かれ始める。
【少女を拾った】
【名前は……まだわからない】
【声が出ない】
【感情もない】
【でも生きている】
ページをめくる指が
わずかに震える。
【食べてくれた】
【寝ている】
【少し、ほっとした】
短い日々の積み重ね。
ぎこちない暮らし。
小さな報告。
そして――
ページの文字が
さらに弱くなる。
インクが薄れ、
線がふらつき、
かすれる。
【いち】
その一言のあと、
文字が続く。
【彼女は言葉を話せない
でもこちらを見てくれる】
【それだけで救われている】
【いちきみに会えてよかった】
【ありがとう】
そこで
一度頁が途切れた。
息遣いが
紙に染みるような
痕跡だけが残る。
次の頁。
【もう長くはないと思う】
【苦しくないように願っている】
【きみは誰かのもとへ行ける】
【生きてどうか生きてほしい】
にじんだ跡。
汗か涙かわからない。
【ぼくの名前忘れていい】
【ぼくがきみを忘れないから】
最後の行。
【ごめん】
ページは
そこで終わっていた。
静寂。
ページを閉じる音が
やけに大きく響いた。
―――
しばらく
誰も口を開けなかった。
「……あいつらしい」
ルシアンが呟く。
不器用で、
優しさばかり強くて、
命を使い果たしても
人を守ろうとした男。
エリアスは静かに言う。
「……名前を
忘れていい、か」
「イチに重荷を背負わせたくなかったんだな」
ルシアンは深く息を吸い、
日記を懐にしまった。
「……持ち帰る」
それはエリオットへの誓いでもあった。
―――
二人は森の外れへと向かい、
小さな集落で聞き込みを始めた。
住民たちは森に誰かが住んでいることは知っていた。
「ほそい少年だったね」
「病気だったのかい?」
「でも、彼は誰にも迷惑かけなかったよ」
ただ――
“誰かといた”
という話が出るのは数か月前から。
「ちいさな子を見たよ」
「いつも無表情でね……」
そして――
ある証言。
「事件のあった夜……
帝国の鎧が森へ入っていくのを見た」
「兵が、ですか?」
エリアスが問う。
「ええ、間違いない。夜明け前だった」
「そのあとすぐ森から出ていったよ。
……なんかすごく笑ってたよ」
ルシアンの拳が静かに握られる。
―――
二人はエリオットの墓へ戻った。
青い瑠璃草が静かに揺れている。
エリアスが低く呟く。
「……花を添えたのか」
ルシアンは頷く。
「イチだ」
エリアスの目が細くなる。
「言葉がないのに埋葬まで」
「遺された“行動”だけが彼女の答えだったんだろう」
ルシアンは墓の前に膝をつく。
「……必ず突き止める」
静かな誓い。
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