3年前の夏。
僕は高校を卒業し、祖母が営んでいた定食屋を手伝いながら暮らしていた。
祖母は年よりだいぶ若く見え、病気もせず元気だった。
僕を綾ちゃんと呼び、いつも子供扱いしてくるが僕もその優しさに甘えていたのかもしれない。
ある朝、いつもの時間に目が覚め、洗面所へ行き顔を洗う。
その時ふと静かだと思った。
祖母は僕より早起きだ。普段ならこの時間には朝食を作っているはずなのに。
「…」
台所を見に行ったが祖母の姿はなく、家は不気味なほど静かだった。
どうしたんだろうか。
店の方も確認してみたが姿はない。
もしかして、まだ寝ているのだろうか。
僕が滅多に立ち入った事がない、祖母の部屋を尋ねてみた。
ドアをノックして、「婆ちゃん、いる?」と声をかけるも返答はない。
「なんだ、いないのか」
少し気になり、ドアを開ける。
「あれ、まだ寝てる」
祖母の部屋は和室で、畳の上に布団を敷いていた。
いつも早起きでしっかりものの祖母がまだ寝ているなんて、具合でも悪いのかと心配になる。
「ねえ、大丈……」
息を飲む。祖母の顔が見えた途端、僕は全てを悟った。
祖母は、穏やかな表情をしてた。
…苦しく、なかったんだろうか。
頭が真っ白になっていく。手が震えて、触れることさえ出来なかった。
「………っ」
その顔は青白く、生きている人のものではなかった。
口の中が乾いて、喉が熱い。
うまく息ができず、浅い呼吸を繰り返す。
冷や汗が全身を伝い、気持ち悪い。
「……はっ…」
込み上げてくる何かに、口元を押さえた。
しばらく、そうしていた。
祖母との思い出が、浮かんでは消えていく。その笑顔が頭から離れなくて、目の前の現実がまるで嘘かのように思えた。
「…婆ちゃん、起きてよ。……お別れくらい言わせてほしかった…」
祖母の部屋で、眠る姿にそっと呟いた。
少しの間を空け、深呼吸をしてスマホを手に取る。僕は祖母の一人息子である父に電話をかけた。
お通夜が開かれ、そこには沢山の人が訪れた。父は、涙を見せなかった。兄はちょっと泣いていた。
僕と兄は2年ぶりの再開だったが、一言も話すことはなかった。今はそんな事どうでもいいけど。
夜が遅くなって家を抜け出し海岸に行った。
夜の海は真っ暗で、月明かりだけが浮かんでいる。
祖母が突然亡くなったが僕は平気なふりができていた。
両親は思ったより平気そうで良かった、祖母も安心できるだろう、なんて言ってた。
鏡に映る僕はうまく笑えてて、自分でも本当は悲しんでなんかいないんじゃないかと疑ってしまうほどだった。
全然、そんな訳ない。
今だって、苦しさを押し殺しているだけだ。
どうして、僕はこうなんだろうか。なんで、婆ちゃんが死んだのに平気な顔してられるんだ。
いっその事、ただの子供みたいに泣き叫びたかった。
あの時無理やり引っ込めた涙は、今はもう出てきてくれないようだ。
苦しくて、まるで溺れてるみたいだ。
「綾」
いつの間にか、隣に海が立っていた。
「…何でいんの」
「探したんだ。綾がどっかで泣いてないかと思って」
「は?」
海とは今日の昼にも会った。海が、棺で眠る祖母をどこか寂しそうな目で見つめていたのを覚えている。
「ちゃんと泣いたのか? 」
「泣いてないし、泣かない」
「…俺は、綾が言う事はあまり信じてない。だってお前、嘘つきだからな」
「お前に言われたくない」
下を向く。何も見たくなかった。
「…海はさ、婆ちゃんの病気の事知ってた? 」
祖母は心臓を悪くしていたという事を、僕は今日父に告げられて初めて知った。
「…ああ 」
「皆揃って何で僕に教えてくれなかったんだ。言ってくれれば僕は」
「彼女がそう望んだんだ。大事な孫が悲しむ姿は見たくないと。それに、言ってたんだ。綾がいてくてれて今は本当に幸せだから、そのまま死にたいってな」
「…」
だからって、僕にだけ教えないなんて酷すぎる。それを祖母が望んだのなら仕方ないとも思えてくるが、そもそも何故気がつかなかったんだろう。
そういえば1度だって祖母が弱っている姿を見たことがなかった。
その事実が、どうしようもなく悔しかった。
やるせなさと虚しさが心を埋めつくしていく。
祖母の病の事を聞いたとき、僕は父に気づいていたと嘘をついた。その場に沿った言葉を取り繕って、思ってもない言葉を出任せに言った。
その言葉に、誰だって疑問をもつ人はいないはずだった。
「…綾、俺には綾が、ずっと泣きそうな顔してるように見えた。平気なふりしたって、周りがそれに騙されたって、俺にはそれが気になって仕方なかったんだよ」
「……何、それ」
鏡を見ても、自分でも分からなかったのに、何でこいつは分かったように言うんだろうか。
どんな顔してそんな事言ってるのかと横目で見たが 暗くて海の顔はよく見えなかった。
…ああ、やっぱりこいつも嘘つきなんだな。今は僕の顔、見えるはずないのだから。
それでも、嘘だとしても、そう言ってくれるのが嬉しかったんだ。
凍っていた心が熱を帯び溶けていくかのように、悲しいのか嬉しいのかよくわからずに、視界が霞んでいった。
「っ…」
涙が溢れ、服の裾で拭うがすぐには止まってくれなかった。
隣で海が僕の事をじっと見ていることに気がつき、咄嗟にその背中を押してしまった。
「っあ!?」
バッシャーン、水音とともに跳ねた水滴が頬についた。
「何だよいきなり」
「…手が滑った」
水滴と涙を拭いながら、平然と答える。
「ふーん」
海から上がってくるかと思いきや、伸ばされた手が僕の腕を掴んだ。
「え」
バランスが崩れ、体が宙に舞う。
気がつけば水の中にいて、僕はすぐに水面へあかる。
「お前さ…」
「あはは」
文句でも言ってやろうかと思ったが、もうそんな気も起こらなかった。
体の力を抜いて、仰向けに浮かぶ。
水温は少し冷たかったが、ちょうどいいくらいだ。
「綾は泳ぐの得意なのか?」
隣で浮かんでいた海が突然そんな事を聞いてきた。
「…まあ、もともと水泳やってたし」
空を眺める。夜空は幾億もの星が輝き、とても綺麗だった。ここってこんなに星が見えるの知らなかったな。
「……」
僕はぼーっと空を眺めていた。もう何も考えていなかった。
「綾」
突然、海が僕をぎゅっと抱きしめた。
「溺れる…」
そうは言いつつ、僕はその背中へ手を回した。
冷たい海の中、肌から感じた体温は暖かかった。
少しずつ沈んでいく。
肩越しに眺めた星空は、揺れて、歪んでいた。
海は今、どんな顔をしているだろうか。暗くて全くわからない。
それなのに心臓はうるさく鳴っていて、息はできないというのにこの体温を手放せずにいた。
「っはぁはっ」
砂浜に寝転がり、荒い息を繰り返す。
…何、馬鹿なことしてんだろ。
水中で息を耐えていたが、限界が来る前に砂浜に打ち上げられた。
息ができない苦しさよりも、離れてしまう方が嫌だった。
なんだか変な気持ちだ。
僕は隣に寝転ぶ海の頬に触れた。すると1粒の雫が指に触れた。
「…泣いてんの?」
「……」
顔が見えないが、触れた手でなんとなく分かってしまった。これは紛れもない涙だと。
海は、何も言わなかった。
今度は僕が海を抱きしめた。
海が何を考えていたのかも、何がしたかったのかも知らないし分かってあげられないだろう。
でも、あの時確かに僕はあのまま死んでもいいと思った。
「…さっき僕に平気なふりしてるなんて言ってたけど、それって海にも当てはまるんじゃない?」
「…うるせ」
小さく文句を言われ、笑ってしまった。
なんだかそれすら可愛いと思えてしまって、僕は頭がおかしくなったと自負する。
そしてどうしようもなく、この人が好きだと思った。
「本当にどうかしてる」
僕はまた笑う。
「そう、 だな」
海はそれ以上何も言わず 、ただずっと傍にいてくれた。
ぼんやりと意識が覚醒する。見慣れた天井に、ここは寝室だとすぐに分かった。
まだ少し体がだるくて熱っぽい感じがするが、朝よりはだいぶマシになっている。
起き上がるとちょうど海が部屋に訪れた。
「起きたんだな」
「…うん。帰ってたんだ。兄ちゃんは?」
兄と少し言い合いになった事を思い出し、小さくため息をつく。
「ああ。さっきまでいたんだが仕事が入ったらしくてな」
「…そっか」
正直ほっとした。会ってもなんて言葉をかけていいのか分かんないし。
「喧嘩でもしたのか?随分落ち込んでたぞ」
「…」
海はベッドに腰を下ろし、僕に視線を向けた。
「別に」
目を逸らし、下を向く。
「まあ、俺が説得しといたからすぐに仲直りできるだろ 」
「え?」
「そりゃ帰ったら泣いてるやつがいるんだ。話聞いて多少励ますくらいはする 」
「…ふーん」
それは、いい事かもしれない。なのに、面白くないと思ってしまう自分がいた。
「…家族は大事にした方がいい。いつ会えなくなるか分からないしな。綾だってそれはよくわかってるはずだ」
そりゃそうだ。婆ちゃんの事だってあるし
「…あ」
なんで、大切なことを忘れていたんだろう。
兄ちゃんは、僕が酷いことを言っても、避けたりしたって、会いに来てくれた。面と向かって話をしてくれた。
それなのに僕は、逃げてばっかりだったくせに、向き合ってくれた兄にまた酷い言葉をかけてしまった。
冷静だと思い込んでいた。馬鹿なのは僕の方だ。
僕なんかより、兄の方がずっと立派だ。
努力家でいつも正しくて前を見ている兄をずっと尊敬していた。
嫌いになった事なんか1度もない。
わしゃわしゃと海が僕の頭を撫でた。
なんだか照れくさくなってやめろと手をはたく。
「…詳しい事は知らないけど、兄ちゃんの件はありがと。次会ったらちゃんと謝るよ」
そう宣言し、再び布団へ潜り込んだ。
「やけに素直だな。いい事ではあるが」
仰向けの姿勢でじっと海を見つめた。初めて会った時から何一つ変わらない容姿。
でも、僕を見るその目はあの頃とは違う。
「……これからもずっと、僕と一緒にいてくれる?」
こんな事を口走ってしまうのは、熱のせいにさせてほしい。
ほんの数秒間沈黙が続いた。
どんな返事が来るのか、その答えを聞くのが怖かった。
思い通りの言葉じゃなくても、冗談だと笑い飛ばせばいい。
そうは考えても、やはり怖かった。
黄金色の髪が靡いて、僕の心臓がうるさくなった。
「…綾が老いぼれて死ぬまで一緒にいてやってもいいよ」
「ふは、何それ」
海は冗談で言ったかもしれないが、それでも嬉しいと思った。
海とずっと一緒に居たいと思うこの気持ちは、好きでどうしようもないこの感情は偽物なんかじゃない。
そうだ、僕はずっとそれが知りたかったんだ。
海を抱きしめる。
僕の見ていた世界が崩れ、暗闇に溶けていく。
いつの間にか、僕の手には何も残っていなかった。
その名前を必死に呼んでも、暗闇以外何もなかった。
いつしか自分がなにを叫んでいるのかも何を求めていたのかも忘れていく。
そして、僕はまた眠りにいた。
コメント
5件
綾…泣けてよかった…うん。そして海は容姿が変わっていない、海は何者なのか…謎が深まりますな
う