残響のような空気が、教室に残っていた。椅子を上げた机の列。かすれた黒板の文字。
夕日が沈む前の灰色が、窓から静かに差し込んでいた。
遥はまだ席にいた。
鞄も持たず、背もたれに凭れかかるように座っていた。
日下部は、声をかけるタイミングを何度も逸した。
何かを壊すのが怖いのではなく、
もう壊れてしまったものを前にして、何を言えるかわからなかった。
「……昨日、外で見かけた。駅のとこ」
返事はない。
「誰かに……何かされたのかって、思ったけど」
そこまで言って、遥がゆっくりと首だけを傾けた。
笑っていた。唇の端だけで。
「それ、今さら聞くこと?」
静かだった。だがその静けさには、深い裂け目があった。
「……おまえ、」
言いかけて、日下部は言葉を飲んだ。
“助けたかった”とか、“やめてほしい”とか──
言えばすべてが嘘になると思った。
「何も知らなかった、みたいな顔すんなよ」
遥が言った。
「……おまえ、ずっと見てただろ。あの頃から」
その声に、日下部の指が揺れた。
「なのに今さら、“大丈夫か”とか。冗談きついって」
「……ちがう、そうじゃない」
日下部の声は、自分でも気持ち悪く感じるほど浅かった。
「ちがわねぇよ」
遥は笑った。
だがそれは、自分でもう笑うしかない人間の笑いだった。
「おまえがちがうとか、優しいとか、思ってたわけじゃない」
「だったら、なんで──」
「……おれがバカだっただけだろ?」
視線が合った。
その目は、もう何も求めていなかった。
でも、どこかで「答え」だけを欲しがっているような、
迷子のまま死にかけた動物の目だった。
「おまえ、俺のこと──なんだと思ってた?」
その問いは、鋭い刃ではなかった。
ただ、どうしようもなく冷たい絶望だった。
日下部は答えられなかった。
「“壊れてる”って、言いたいんだろ? “助けてやりたい”って?」
「ちが──」
「じゃあ、見てろよ」
遥が立ち上がった。
机に手をついて、わずかに揺れた体を支えるようにして。
「これからもずっと、ちゃんと“使い物”やるからさ」
「……やめろよ、そういうの」
「おまえが言い出したんだろ、“演技”だとか、“わざとだ”って」
笑った。
それはまるで、日下部の言葉を受け入れてしまった生き物のようだった。
「そうだよ。わざとなんだよ。わざと、笑ってんの。わざと、差し出してんの。
だからもう、“同情”とかいらねぇから」
「……」
「おまえが“どうしたい”とか、“何が正しい”とか──
そんなの、俺には関係ねぇんだよ」
しんとした沈黙が、教室を満たした。
外はもう、夕闇に沈みかけていた。
遥が、背を向けた。
「もう、“壊れてる”ってことにしてくれていいよ。
そのほうが、おまえも楽だろ」
そのまま、扉へと向かう。
日下部は、動けなかった。
ただ、目を伏せて、唇を噛んでいた。
遥は、もう振り返らなかった。