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遥が扉に手をかけた、そのときだった。
「──なあ!」
日下部の声が、背中に追いすがる。
一瞬、遥の肩がぴくりと揺れた。
「……おれ、今のおまえ、見てると……」
言いかけて、言葉が詰まる。
それでも吐き出す。
「……正直、吐き気するくらい、腹立つんだよ」
遥は、ゆっくりと振り返った。
その目に、怒りはなかった。
ただ、微かな期待と、それを自分で握り潰すための準備だけがあった。
「……へえ、そりゃよかったな」
「……バカにしてんのか?」
「うん、してる」
笑いながら遥が言った。
その笑いは、もうどこにも“心”を持っていなかった。
「だって、今さら“腹立つ”とか、どの立場で言ってんの?」
「……っ、俺だって……!」
日下部の手が、机の端を握る。
うまく言葉にならない。
伝えたいことが、言葉になればなるほど、陳腐になる気がした。
「……俺だって、どうしていいか、わかんなかったんだよ……!」
遥はその言葉に、わずかに目を細めた。
「──で?」
「それでも……っ、
……おまえが、こんなふうに“無理して”んの、見てられねえよ」
遥の笑みが、そこで止まった。
「“無理”?」
「……違うって言うなら、そうなんだろうけどさ……
でも、ほんとはさ──
……もう、やめたいんじゃねえのかって」
沈黙。
遥は、すぐには何も言わなかった。
やがて、低く、ゆっくりとした声で──
「……なあ、日下部」
「……」
「“やめたい”って言ったら、どうすんの?」
日下部は、答えられなかった。
「何か、変わんのか?」
遥の目には、光がなかった。
でもその奥で、何かが泣き叫んでいるような濁流があった。
「家が変わるわけじゃねえ。
学校が変わるわけでもねぇ。
──おまえが何を言おうが、俺の“場所”は、もう……決まってる」
「……ちがう。そんなの、──決まってねぇだろ」
「じゃあ、どこに行けって言うんだよ」
遥の声が、少しだけ掠れた。
「誰も信じちゃいねぇし、信じられねぇよ。
おまえだって、“正しさ”で殴ってくるだけじゃん」
「ちがう、俺は──」
「“ちがう”ばっかだな、おまえ」
吐き捨てるような声。
「じゃあさ、おれが“ほんとは助けてほしいんです”って泣いたら、
おまえ、どうすんの?」
「──……」
「おまえが思ってるより、おれはずっと汚いよ。
……すっげぇ汚れてんだよ」
目が揺れる。
「“壊された”んじゃない。
……自分から壊れてやったんだよ。
期待されるより、嫌われる方が、楽だったから」
「そんなの──!」
「──おまえに、何がわかんだよ!」
遥の声が、そこで少しだけ震えた。
「笑ってるのだって、“演技”じゃねぇよ。
もう、ほんとに楽しくなっちまってるんだよ」
日下部は言葉を失う。
遥は、自分で言ったその言葉に、わずかに眉を寄せた。
「……冗談だけどさ」
苦笑だった。
どこにも届かない、誰にも届いてほしくない、
ただ、自分自身をごまかすためだけの嘘笑い。
「だからもう……構うなよ」
遥は、扉に背を向けて、今度こそ歩き出した。
「……でも」
日下部の声が、後ろから掠れたように落ちてきた。
「……おまえ、ほんとはまだ、
……“誰かに気づいてほしい”って、思ってるんじゃねぇのか……?」
遥は、止まらなかった。
だが、ほんのわずか、背中が震えた。
そしてそのまま、何も言わずに扉を開け、去っていった。
教室に残された日下部は、拳を握ったまま、
沈黙のなかで、自分の問いの重さに耐えていた。