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#シリアス
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昨夜、和幸がどこから調達してきたのか
爆速で揃えてきたピンク色でフリフリの布団の中で、ひまりは静かに目を覚ました。
そこは本来、荒事の相談や盃事が交わされるはずのヤクザの事務所の奥座敷だ。
だが今のその部屋は、そんな血生臭い背景など微塵も感じさせない
場違いなほどファンシーな空間に塗り替えられていた。
一方、事務所の調理場では、組の出入りでもこれほどにはならないだろうという
殺気すら漂う緊迫した空気が流れていた。
「……和幸。この黄色い帯は、何や。説明してみろ」
俺は、目の前の物体を睨みつけながら低く唸った。
「は、ハイ!兄貴、それは薄焼き卵を細く切ったもので、オムライスの上のアクセントに……あ、いや、彩りというか!」
「アホ。ワシが作っとんのは、ひまりの弁当や。アクセントとか言うとる場合か。……よし、和幸。海苔を切れ。ミリ単位でや」
俺はエプロンという慣れない戦闘服に身を包み
老眼鏡代わりの眼鏡をずり上げながら、不器用な手つきで小さなピンセットを操っていた。
机の上には、シノギの資料ではなく、幼児雑誌の「可愛いキャラ弁特集」が見開きの状態で鎮座している。
「兄貴、いくらなんでも、海苔で『龍』の鱗を一枚ずつ表現するのは無理がありますって!面積的に限界です!遠目で見たらただの焦げたナニカになりますよ、これ!」
「やかましいわ! ひまりが今日から通う学校で、周りのガキどもに舐められたり、恥ずかしい思いをせんように、最高の弁当を持たせたるんや!ワシの『狂刃』の名にかけてな!」
かつて敵対組織を単身で壊滅させた「狂刃」の異名を持つ男が
今、ピンセットを武器に海苔の細工と命がけの格闘を演じている。
額には、数多の修羅場でも浮かばなかった冷や汗が滲んでいた。
それから数時間。夜が白み始めた頃
ようやく完成したのは、俺の全霊を注ぎ込んだ渾身の作だった。
海苔とカニカマを駆使して表現された、それは――
非常に目つきの鋭い、威圧感の塊のような『虎』のキャラ弁だった。
「……兄貴。これ、本当にいいんすか?ひまりお嬢が蓋を開けた瞬間に泣き出しませんか?弁当箱の中から放たれる殺気がハンパないんすけど」
和幸が引きつった顔で進言してくる。
俺は完成した「虎」を見下ろし、少しだけ首を傾げた。
「……せやろか。これでも、かなり可愛く寄せたつもりなんやが…」
自分の美的センスに初めて疑念を抱き、少しばかり肩を落としていた、その時だった。
パジャマ姿のひまりが、眠たげな足取りで調理場にひょっこりと顔を出した。
彼女は眠そうに小さな手で目をこすりながら、俺が死闘を繰り広げた弁当箱を覗き込む。
一瞬の沈黙。
俺の心臓は、ドスの刃を喉元に突きつけられた時よりも激しく跳ねていた。
「……あ、トラさん」
「…!お、おう。ひまり、起きたか。……今日から学校やろ。これは、その、和幸に作らせた弁当や。……どうや、怖くないか?」
咄嗟に部下のせいにした自分を情けなく思いながら、内心ドキドキして反応を待つ。
ひまりは少しだけ首を傾げ、弁当の中の鋭い眼光を放つ虎を見つめていたが
やがてふわりと、春の陽だまりのような笑みを浮かべた。
「……吾郎おじさんみたいで、かっこいい」
その一言が耳に届いた瞬間。俺の胸の奥に澱んでいた
ヤクザとして生きてきた黒く冷たい何かが、音を立てて溶けていく気がした。
視界が滲みそうになるのを必死でこらえる。
和幸は横で、「兄貴の顔、完全にデレデレにニヤけてますよ」とツッコみたそうに口を震わせていたが
俺の眼光を察して命惜しさに沈黙を貫いていた。
「よし。ひまり、飯食って歯磨いたら着替えるんや…おい和幸!ぼさっとすな! 髪結うたるのが得意な武闘派の奴を、今すぐ呼んでこい!」
結局、そこからの朝の支度は組員総出の国家行事のような騒ぎとなった。
かつて理髪店で修行していたという触れ込みの武闘派が髪結いを受け持ち
インテリ派の若手がランドセルの忘れ物がないかトリプルチェックを行い
玄関では靴の汚れをミリ単位で拭き取る担当が控える……
地域一帯を震え上がらせてきた黒龍組は、今や完全に「ひまりお嬢様の親衛隊」へと変貌を遂げていた。
いよいよ事務所を出る時、俺はひまりの小さな手を包み込むように握った。
首元までしっかりとボタンを閉めたシャツに、背中の和彫りは完璧に隠してある。今の俺は、ただの「叔父」だ。
「……ひまり。学校でもし嫌なことや、困ったことがあったら、遠慮せんとすぐワシに言うんやで。ええな?」
「……うん」
小さく、だが力強い返事。
俺はその温かくて柔らかな手を、壊れ物を扱うような慎重さで
それでいて決して離さないという決意を込めて、ぎゅっと握りしめた。
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