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下校時刻
小学校の校門前には、周囲の視線を文字通り「圧」で黙らせるような高級黒塗りの車が停まっていた。
運転席でハンドルを握る俺、吾郎の視線の先には
下校を急ぐ児童たちの流れに逆らうような、歪な人だかりが出来ていた。
嫌な予感がして目を凝らす。
「やーい、お前の母ちゃん男と逃げたんだろ! 捨て子なんだってさ!」
「ヤクザの娘が学校来んなよ!」
数人の男子児童がひまりを囲んでいた。
ガキ特有の、無邪気で残酷な言葉の礫。
その中心で、ひまりは地面の一点を見つめたまま立ち尽くしていた。
小さな手は、今朝あれほど組員たちが念入りにチェックしたランドセルの肩紐を、指先が白くなるほど強く握りしめている。
俺は無言で車を降りた。
一歩、足を踏み出すごとに、周囲の空気が凍りつくのがわかる。
アスファルトを叩く革靴の音が、死神の足音のように響いた。
「……ガキ相手に、えらい賑やかやな」
氷点下の底から響くような低い声。
俺の長身が投げかける濃い影が子供たちを覆った瞬間
さっきまで威勢の良かったガキどもは、喉を詰まらせたような悲鳴を上げて四方八方に散っていった。
俺はひまりの前にゆっくりと膝をついた。
彼女の小さな肩には、ガキどもに投げられたのか、砂埃がついていた。
それを払うように、できるだけ力を抜いて手を置く。
「……すまん、待たせたな」
「おじさん……」
ひまりがおずおずと顔を上げる。
その大きな瞳は今にも溢れそうなほど潤んでいたが
必死に俺が「吾郎おじさん」であることを確認するように見つめてきた。
「おじさんは……悪い人じゃないよね?」
あまりにも純真で、あまりにも痛烈な問い。
背負っている「狂刃」の看板が、その一言で音を立てて軋んだ気がした。
俺は一瞬言葉を詰め、自嘲気味に、だが優しく口角を上げた。
「……おう、当たり前やろ。ワシほど真っ当で、お天道様に顔向けできる男はおらんで」
地獄の底まで真っ逆さまに落ちるような嘘八百だ。
だが、今のこの子には、その嘘が必要だった。
車を走らせて数分。
夕暮れ時の信号待ちで停車した際、後部座席から衣擦れの音と共に、消え入りそうな声が漏れた。
「……おじさん。私…が消えたら、おじさんも、助かるの……?」
「あぁ?なんでそんなこと聞くんや」
バックミラー越しに見るひまりは、深く俯いていた。
「……お母さん、私がいると男の人と家で『仲良く』できないから邪魔だって、ずっと言ってた。私、邪魔者なのに、おじさんのところに来ちゃって…今度は、おじさんに迷惑かけちゃうのかなって……私…っ、」
言葉が震え、ひまりの小さな肩が激しく波打ち出す。
声を殺し、嗚咽を噛み殺そうとするその健気な姿に
俺は胸を直接素手で握りつぶされるような、言いようのない不快感を覚えた。
俺には、泣いている子供をスマートに抱きしめる術も、映画のような気の利いた慰めも持ち合わせていない。
俺にできるのは
ハンドルを握る手に血が止まるほどの力を込め、沈黙のあと、ぶっきらぼうに問いかけることだけだった。
「……ひまり。道端の草、見たことあるか?」
「…え…?う、うん」
予想外の言葉に、ひまりが涙に濡れた顔を上げ、戸惑いながら頷く。
「あれはな、踏まれても、抜かれても、勝手に生えてくる」
吾郎は視線を前方に向けたまま、静かに続けた。
「あれはな、踏まれても、引っこ抜かれても、勝手にそこに居座りおんねん。……そこに生まれてしもたんやから、しゃあないわな」
俺は視線を真っ直ぐ前方、沈みゆく夕日に向けたまま、静かに続けた。
「——ああいうのはな、“邪魔”とは言わんねん。誰が何と言おうと……」
少しだけ、間を置く。
言葉に魂を込めるように、重く、低く響かせた。
「“そこにおるもん”や」
ひまりの肩が、小さく跳ねたのがバックミラー越しに分かった。
「ひまりも同じや。最初から“おる側”の人間なんや。それやのに居場所なくして、ワシんとこ転がり込んできたんやったら……追い出す理由なんかあらへん」
「…おじ、さん……っ、私、おじさんのところ、にいて、いいの……?」
「せや。誰にも文句は言わせん」
短く、だが断固とした肯定。
その瞬間、それまで張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたように
静かな車内に『グゥ〜』という、これ以上ないほど可愛らしい音が響いた。
「あ……」
ひまりは一瞬で顔を真っ赤にし、恥ずかしそうに腹を抑えた。
その様子を見て、俺の頬も自然と緩む。
「そんだけ泣きよったら、腹も減るわな。…なんか食うか?」
俺は車を近くの地元スーパーの駐車場に滑り込ませた。
総菜売り場へ向かい、紙袋に入った揚げたてのコロッケを二つ、ひったくるように買ってきた。
「…これ、ころっけ??」
「おう。ここのコロッケな、揚げたてでホカホカしてて、めっちゃうまいんやで」
ガードレールに腰掛け、ふうふうと熱い息を吹きかけながら、一つをひまりに手渡す。
ひまりはそれを両手で大切に受け取り、ハムっと夢中で頬張った。
「……っ!すっごく、おいしい……っ」
パッと花が咲いたような、今日一番の笑顔。
その輝きを目の当たりにして、俺は自分の喉の奥にずっと詰まっていた得体の知れない塊が、スッと消えていくのを感じた。
「そら、何よりや…食える時に食う。それが生きる基本やからな」
夕暮れの街角、血に染まった手を持つ男と、居場所を見つけた小さな少女。
二人の間を、安っぽい紙袋から立ち上る温かい湯気が、優しく包み込んでいた。
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