テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
それは、偶然でも、陰謀でもない。
来たるべき日に訪れる必然だった。
まだ手足も短く、自分を映す大人たちの目を見上げることしかできなかった幼い頃。鋭い刃がついた靴を履き、氷の上に足を乗せた夜鷹は、この先自身が生きていくであろう世界を見定めた。
冷たい風が肌に当たること。それは、幼くして退屈に蝕まれていた心を強く揺さぶる衝動となり、いとも容易く氷上の世界に囚われた。
己が持つ才能を早々に自覚し、多くの時間を氷上に割いた彼は、数か月も経たずに頭角を現す。同い年の子より高く遠くまで飛び上がり、年上の子より正確で緻密な軌跡を描き出す。目を剝いたコーチが慌てて出してくる課題を淡々とこなしていけば、もう教えられることはないからと次のコーチへ繋がる切符、もとい連絡先のメモを握らされた。
子どもは素直で単純でわかりやすかった。同年代の子と仲良くなりたいと、純粋に慕ってくる目。夜鷹が難なく繰り出す高難易度な技を見て、驚きと憧れに満ちた目。より大きなクラブや有力なコーチの元へ行くため、元いたクラブを離れることになった時、別れを惜しんで大粒の涙を零す目。繊細で、透明で、ガラス玉のようなきらきらした光に、夜鷹は目を細めた。
しかし、幼い彼らは数年も過ぎれば、だんだんと世界が見えるようになる。現実と夜鷹を正しく捉えた目が浮かべるのは、実に様々だった。畏怖、憧憬、高揚、嫉妬、諦念、拒絶。中には、こちらを好敵手と見なして燃え上がる者もいたが、その光は彼の目を眩ませることはなかった。先を走る夜鷹の背後、そのずっと後ろで瞬いたところで、彼はちらとも振り返らない。どんな光だって、彼の視界に入らなければ意味がないのだ。やがて、圧倒的な実力差を前に、心折れた者は氷から去っていき、悔しさに歯噛みした者はその背を追い続けた。
***
夜鷹は氷上の世界への衝動を胸に、自身の才能を証明し続けた。運命の女神に振り向いてもらえるようにと、あらゆるものを捧げた。
成長期にもかかわらず課した厳しい食事制限は、彼にさらなる枷を与える。偏食気味で、元々食への興味が薄かった彼は、やがて食べること自体を嫌うようになった。好みの食べ物もなく、いくらか食べてみようとしたが、ただ吐き気を催すだけだった。そうして、選手として体を維持するための栄養素を仕方なく摂取するようになってしまった。
義務教育という全ての子に教育が施される9年間は、夜鷹にとっては支障でしかなかった。氷に乗る時間を増やすべく、学校を早退したり休んだりすることに躊躇いすらなかった。クラスメイトだという子の顔や名前は、覚えようとする気すら起きなかった。彼らと比べれば、大会でよく会う同年代の子の方がまだ記憶に残りやすい。それに、寝ても覚めても氷に囚われている自分は、ジャンプやステップの軌道を脳内で描く方がよほど落ち着ける。ノービスBに上がり、クラブの移籍を繰り返すようになってからは、貴重な幼少期を過ごすはずの学び舎はただの煩わしい箱でしかなくなった。卒業式は当然欠席したし、同級生らのような感傷は露ほどもなかった。
他人に興味がない夜鷹と親交を築ける者はほとんどいなかった。彼を畏れて周囲が勝手に避けていき、彼も自ら歩み寄る気がなかったので、ますます孤高の存在として畏怖されるという悪循環だった。
その中で、唯一友と呼べる者がいた。夜鷹より年上であるのに、穏やかな物腰と丁寧な口調で話しかけてきた彼は、鴗鳥慎一郎と名乗った。幼い頃にリンクで出会い、幾度も大会で会ううちに、親友として心に留めるようになった。表彰式では、夜鷹が台の真ん中に陣取り、左右のどちらかに彼が立つ。優勝おめでとうと偽りない本心を口にしながら、優しい眼差しの奥に悔しさを滲ませる彼に、夜鷹はただ頷きを返した。
選手にとって、迷宮のような途方もない道のりを行く中で、コーチの存在は不可欠だ。曲がり角に出くわす度に、どちらに、どこまで、どのように進むべきか、一人で正確に判断するのは極めて難しい。コーチは、選手よりも広い視野で先を見通し、行く先を示す道しるべとなる。その考え自体に異議はないが、残念ながら夜鷹には無用だった。空から俯瞰するように自身の体を精密に操り、目標や課題をも自力で乗り越えられる夜鷹は、誰に教わらずとも最適解を得られる。移籍を繰り返す先で会うコーチから様々な思想を学ぼうとしたが、結局はキスクラの飾りにしかならなかった。もがきながら自身の才能と向き合い、極めていく。そうして、自分の力だけで導き出した技術と信念だけが、暗闇に輝く金色の星を掴む道を形作ったのだ。
そうして一人走り続けた先で、ひときわ輝く一等星を手にした年に、夜鷹は競技者としての人生に終止符を打った。
さらなる活躍を求めていた世間は当然納得せず、怪我か病気かスキャンダルか、と好き勝手に騒ぎ立てる。彼の引退という激震が世界中に走り、輝かしい演技と実績を生み出す才能を惜しんだ大人が、後に五輪の年齢制限の引き下げに動くほどの衝撃だった。
ついぞ勝てなかった好敵手が去ってなお現役でいる鴗鳥は、歳の割に皺が刻まれた目尻を下げて、憂いをありありと滲ませていた。時折気遣わしげに連絡を寄越す親友の連絡先だけを登録したスマホをポケットにねじ込む。そして夜鷹は、氷のない、息ができない世界へと放り出された。
***
それから7年ほど過ぎたある日。退屈で長ったらしい時間に辟易する夜鷹に、一通の手紙が届く。それは、一方的に愛を叫ぶ熱烈な恋文にも、強烈な光に網膜を焼かれた狂信者が捧げる供物にも思われた。
──あなたのような存在がこの世界からいなくなることに耐えられない。そんなことがあってはならない。あなたにまた氷の上の居場所を作りたい。この子はあなたのような特別な魅力を以っていると信じているので、一度お会いいただけないか。
その子どもについて話を聞けば聞くほど、面倒事が多すぎると思った。だが、すげなく断られても食い下がってくる相手に、一度会うだけなら、と渋々了承した。
途端に舞い上がる先方からすぐさま日程を示され、迎えの車に乗り込んだ夜鷹は、早くも後悔する羽目になる。彼を乗せた高級車は、降りしきる雪の中、都会から人里離れた山奥へと進んでいく。空になった煙草の箱を握り潰し、窓の向こうの銀世界を横目で眺める。目的地まであと2時間ほどだと言う運転手に、帰りたいと本音を零す。ようやくたどり着いた先は、雪に閉ざされた豪邸だった。
着いた先で、もう飽きた、話は終わりだと手紙を燃やす。だが、女中の言葉に振り向き見上げた先で、夜鷹は瞠目した。
屋根からひらりと舞い降りたそれは、年端もいかぬ少女だった。獣のように眼光がゆらゆらと煌めき、夜鷹を正面から射抜く。きっとこの子は、いつか何らかの形で世界に見つかり、日の下に引っ張り出されるのだろう。そして自分と同じ道を辿るのだろう。夜鷹をしてそう思わせるものを、この子どもは持っていた。
話の続きを促す女中に、自分が飽きるまでなら、と返して敷居を跨ぐ。子どもを見て、わずかに興味を持っただけ。その時はまだ、コーチを引き受ける気はなかった。
小さな手を引いて屋敷から光を連れ出した夜鷹は、夫婦ともに親交のある鴗鳥家を訪れた。扉を開けた鴗鳥は、久方ぶりに姿を見せた親友と、どこか野性味のある少女に瞠目する。
居間に通された夜鷹は、この少女の世話をしてほしいと頼んできた。鴗鳥は事前に、自分宛てに届いた驚くほど丁寧な文面の手紙に目を通していたが、驚きを禁じ得ない。彼女がそうなのか、と夜鷹と少女を見比べる。
確かに、世間から離れて不規則な生活を送る夜鷹に子育てを任せるのは、控えめに言って無謀だと思う。だからこそ、自身が信頼する夫婦にこの子を預けたいと考えたのだろう。突拍子もない話ではあるが、旧友からの滅多にない頼みであり、小さな子どもを放り出せないという良心のもと、鴗鳥は首を縦に振った。
後日。条件のとおり、こちらが希望したリンクの貸切枠が与えられたので、夜鷹は光を連れてリンクに足を運んだ。
気温一桁のリンクサイドを裸足で歩き、薄っぺらい服を身に纏う子どもに、夜鷹は自身のコートをかけてやる。そのまま、スケートについて教えるどころか、話しかけることもせず、一人きりで氷上を舞う。氷から何年も離れていたが、体は滑ることを忘れていなかった。あの衝動を手に入れた日から、ずっと氷の上で生きてきたのだから、今更忘れられる訳がない。夜鷹の帰還を祝福するかのように、冷たい風が頬を撫でていく。ようやく息ができる、と安堵の息が漏れた。
リンクとリンクサイドを区切る高い扉は、あえて開けたままにしている。獣のような眼光を宿した対の瞳が、こちらを食い入るように見つめてくるからだ。獲物を狩らんとばかりに追ってくる視線に、夜鷹はそっと息を吐いた。
夜鷹に氷を用意するという目的を叶えるため、力ある家に見つけ出された、哀れな子ども。こちらが頼んでもいないのに、妄信する大人たちの手で捧げられた、体のいい生贄だ。ガラス戸の向こうで雪が舞う部屋で零した、オリンピックに行かせてくださいという言葉も、周囲の顔色を窺って求められた台詞を吐いただけにすぎない。本人にその自覚すらないようだが、大人に囲まれて望まれた役を演じる子どもの拙い芝居だった。
だから、互いに言葉もないまま、同じような日が何度か過ぎた頃。先生と同じスケート靴にしたいと宣う子どもに、夜鷹は目を合わせた。
スケートへの興味は、大人に付き合わされてついた嘘だと指摘すると、子どもは目を丸くする。
この子はおそらく物心ついた頃から、空気を読んで、周囲の機嫌を損ねないよう振舞ってきたのだろう。一人で生きていく力も金もない非力な子どもは、大人の庇護がなければ生きていけない。だから、子どもがどう生きられるかは、大人の判断にかかっている。どれだけ欲しいものがあっても、大人が不要だと思えば取り上げられる。逆に、子どもが求めていないものを、あなたのためだからと勝手に押し付けてくる。あなたはあなただ、あなたは自由なのだと教えてくれる人がいなければ、子どもはいつまでも囚われたままの人形だ。
だから、夜鷹は言葉にした。
──スケートを覚えたいなら、教わる相手を自由に選べる。君が望めば、自分でなくても、別に誰かがやって来る。自分が教えるスケートは、君を幸せにすることは絶対にない。
しかし、次にリンクを訪れた日、光はひらひらの服から黒一色の練習着に着替えた。刃が剝き出しのスケート靴を素手で抱きかかえて、今日からスケートを教えてくださいと言い放つ。ベンチに腰掛ける夜鷹の近くで、床に座り込み、裸足を力任せに靴にねじ込もうとする姿に、ため息とともに立ち上がった。
靴の履き方より先に覚えることがある。そう告げて、コートでくるんだ小さな体を抱き上げると、誰もいない銀盤に足を乗せた。一歩踏み出せば、余計な力を入れずとも、氷が自分を運んでくれる。あぁ、生きている。死んだように熱を失っていた体が、息を吹き返す。吐いた息は白くなり、冷たい風と混ざって流れていく。
腕の中で大人しくしている子どもは、全てを逃さず感じ取ろうとするように、大きな目を瞬かせる。自身を抱える男の温度。その男が彼方へ向ける眼差し。寒さで赤らむ頬を撫でる風。氷が削られる音。視界を過ぎ去っていく景色。
──こっちに来るな。僕のようになるな。
あの時、音にしなかった言葉を、子どもはきちんと拾い上げていたように思う。
それなのに、この子はスケートを、そして夜鷹を選んだ。あまつさえ、リンクサイドに戻るや否や、オリンピックに行かせてください、と再度口にしたのだ。
この子はもう人形ではない。大人ばかりの閉ざされた屋敷を出て、鴗鳥家で過ごすうちに、ようやく自我を手に入れた。大人が求めた役割ではなく、自らの意志で進む道を定めた結果が、これか。
自分だけの衝動を手に入れろと言った矢先に告げられた決意に、夜鷹は眉を顰めた。自分と同じ道を辿る覚悟はあるか。あの日と同じ問いを投げかける。力強く返される肯定に、この子どもが、そして自身が辿るであろう道を悟った。
その日、夜鷹は、自身の唯一の教え子となる光のコーチを正式に引き受けた。
***
夜鷹が自分でも驚くほどに興味を抱いた司は、まだ表舞台で滑れる可能性を捨てて、夜鷹に似たつまらない子どもを勝たせると啖呵を切った。邂逅から一年経ってもまだ勝利を目指す彼らを見て、自身の代表曲と名高い『箱庭のバレエ』を、全日本ノービス大会で光に滑らせることにした。レオニードに振付を頼み、技術点も芸術点も申し分ないレベルのプログラムを作り上げ、滑り込む光には容赦ない完成度を求めていく。
迎えた本番。鴗鳥を通じて、光が4回転トウループを飛びたいと言い出した時、夜鷹に驚きはなかった。光もあのつまらない子どもを意識していることはわかっていた。完璧な勝利を手にするために、完膚なきまでに叩き潰すために。ぶっつけ本番でも私はできます、と胸を張る姿が容易く浮かんで、夜鷹は最後のジャンプも変更させた。
ノーミスで完走した彼女を画面越しに見つめる。今はつまらない存在に惑わされているものの、彼女はそう遠くないうちに、自らの足で歩き始めるだろう。夜鷹を真似て滑る”夜鷹純になろうとする子ども”から、自身の力で滑る”狼嵜光という一人の人間”として、箱庭を出ていく日がやって来る。
それは、鴗鳥が過労に倒れ、光がクラブを移籍したいと申し出た時、確信に変わった。夜鷹は、光に同じ道を辿らせると言っておきながら、彼女が望むまで移籍させようとしなかった。選手自身がその必要性を認識できなければ、環境を変えたところで意味がない。定められた練習量を超えて体を酷使する光には、あの女性が率いるクラブはうってつけだろう。心身ともに健康のまま金メダルを手にすると、あっさりと競技人生に幕を下ろしたと思いきや、クラブを新設して有望な選手を引き抜き、恵まれた環境を惜しみなく提供するコーチ。計算高く、食えないところはあるものの、未成熟な子どもの心身を労わる方針と、彼らの思いに寄り添い好きにさせる姿勢は、悪くないと思った。
そして、全日本ジュニア大会の二日目。ついにその時が訪れたのだと悟った。
夜鷹やレオニードに何の相談もなく、光はFSの構成を変えた。振付もジャンプも一新して、全く別のプログラムを作り、ろくに練習もできないまま本番で披露したのだ。
可憐な少女が演じる操り人形は、何かに手を引かれて歩き出すと、リンクの中央で立ち止まる。そして、顔を上げた瞬間、彼女は初めて自らの意志で踊り出す。まるで、自分は人形ではなく人間なのだと、ようやく思い出したかのように。夜鷹を彷彿とさせる直線的で男性らしい振りから、曲線を意識した繊細な女性らしい振りに、観客たちは息を呑む。それからは彼女の独壇場だった。
次々と繰り出される、4回転と3回転を織り交ぜた高難易度のジャンプ。極度の疲労で感覚が鈍っているはずの足が織りなす、華麗なスピン。体一つで鮮やかに描き出す世界に、見る者の心を掴んで離さない巧みな表現力。命を燃やしながら、全てのエレメンツを終えて完走した絶対女王は、天高く伸ばした腕で拳を握り込んだ。
光が観客に礼をしたところで、夜鷹はパソコンを閉じた。点数や順位を見るまでもない。あの演技、そして前日のSPで首位だったことを加味すれば、優勝以外ありえない。彼女が金メダルを手にして立つ光景は、夜鷹からすれば当然のことで、わざわざ時間を割いて見る意味はない。
たとえ、これがコーチとして教え子の試合を見届ける最後の夜だとわかっていても、夜鷹には関係なかった。
翌日。月が高く昇った夜に、ライリーのクラブの専用リンクに各々が集い、先の演技の出来栄えを評価する。振付師に無断で変えた振付に納得がいかないレオニードは、なぜ自分を巻き込まないのか、と憤慨した。厳しい減点をかき消すように、ライリーが言葉を被せる。高峰は渋い顔で黙したまま。賑やかな声が途切れて静寂が場に満ちた後、ライリーが夜鷹に声をかけた。
コンビネーションジャンプを一つ落とした理由を尋ね、次の曲かけまでに今回の振付を完成させるよう言いつけた。緊張の面持ちで頷いた光に、いつか彼女に告げるだろうと準備していた言葉を、ようやく口にする。
──今日で僕は君の指導をやめる。
コーチに従わなかったことが理由かと憤慨する光に、思わず顔をしかめる。いちいちそんなことで苛立ったりしないし、何もかも封じていると思い込まれるのは遺憾だ。ならば理由が思い当たらない、と眉を下げる光に、夜鷹は言葉を紡ぐ。
君は僕と同じ道を歩む覚悟があると言った。かつての自分はコーチを手放した。だからコーチの役目はここで終わりだ。
呆然と立ち竦む光を振り返ることなく、夜鷹は氷上へ身を躍らせる。瞬く間に速度を上げ、踏み切りと同時に引き寄せた両手を頭上へ伸ばした。教え子が本番で失敗したリカバリーを、目の前で飛んで見せる。引退してなお氷を求めるつまらない人間ではなく、曲がりなりにもコーチを引き受けた大人として。この先、独りで戦い続けるであろう教え子へ渡す、せめてもの手向けとして。今の夜鷹が遺せるものは、これくらいしかなかったから。
視界の端で、光の姿を捉える。胸を押さえ、はらはらと涙を零しながら、それでも師の滑る姿を最後まで目に焼き付けようとする彼女に、夜鷹はそっと息をつく。
もう自分は必要ない。あの子は一人で歩いて行ける。夜鷹純の影を追うのをやめて、自分だけの力で輝く星となったのだから。
そして、夜鷹は光に最後のレッスンを施した後、靴も手袋も置いてリンクを去った。
名古屋の真冬の夜更けは、いくら体温が高い自分と言えど、さすがに半袖では耐えられない。上着を羽織ってリンクを出た司は、吐いて白くなった息を目で追い、夜空を見上げる。夜も煌々と照らされるこの街では、眩い光を放つ星しか見つけられない。それは、たくさんの星の中で、ひときわ輝く限られた者しか目に入れてもらえない競技の世界と似ていた。
いのりと光の二度目の対決となる全日本ジュニア大会は、光の圧巻の演技により業界が大いに賑わった。伝説が生まれた瞬間だった、と観客は口々に囃し立て、体への負担と今後の飛躍に思いを馳せる。一方で、彼女とこれからも氷上で出くわすことになる選手とコーチ陣の反応は様々だった。ある者はさらに奮起し、ある者は絶望に顔を青くする。
司自身は、SPを終えた夜にいのりと光が二人きりで話をしたと聞き、気落ちするいのりを客席に連れて行ってよかったと心から思った。バナーを振って応援してくれる親子に出会えて、どんな結果でも応援し続けてくれる人はたくさんいると言えたから。そして、絶対女王と名高い光が、いのりのためだけに命を燃やして滑る様を見逃さずに済んだのだから。
名古屋に戻ったいのりは、自身の失敗と弱さを猛省しつつ、光という希望であり好敵手を次こそ倒すと意気込み、練習に励んでいる。今日も貸切の枠が終わるぎりぎりまで熱心に滑っていた。案の定、迎えに来た母親に急かされ、超特急で着替えて車に乗り込んだ彼女は、おやすみなさいと司に手を振って別れた。
その後、司はいのりの指導について今後の方針を固めるべく、瞳と洸平と話し合っていた。やがて、ぐうと盛大に鳴った司の腹の音で、三人はようやく長いこと話し込んでしまったことに気付いた。大慌てで資料を片付けて、先に帰り支度を終えた二人を見送った司は、最後にリンクを後にした。
さすがに肌寒い。あとお腹空きすぎてつらい。腹と背が今にもくっついてしまいそうだ。すぐに帰って、ご飯をいただこう。いっそ駅まで走るか、と腕まくりする司は、ふと視線を感じて動きを止めた。
こんな時間に、一体誰が?
ゆっくりとそちらを振り向くと、車道を挟んで反対側の歩道に、黒い人影を見つけた。次いで、目を凝らさずともはっきり見える、金色の双眸も。夜に溶け込むような黒一色の姿は、等間隔に灯された街灯のおかげで、薄闇の狭間に浮かんで見えた。
どうして、ここに。
呆然と立ち尽くす司に、夜鷹はゆっくりと紫煙を吐き出すと、目線はこちらに合わせたまま顎を振った。靴底で火を消した煙草の吸殻を放り投げると、無言でその場を立ち去る。向かう先を見遣ると、歩道沿いにタクシーが停まっていた。
──ついてこい、ってことか。
相変わらず意図が読めない行動に肩を落とした司は、左右を見回して車道を横切ると、堂々とぽい捨てされた吸殻を拾い上げ、持っていたビニール袋に押し込んだ。
***
意を決して乗り込んだタクシーは、あらかじめ行先を告げられていたのか、出してという夜鷹の言葉を受けて走り出した。車内に響くのは、互いの息遣いと、車の走行音だけ。説明どころか簡単な挨拶すらない、重苦しい沈黙が満ちる。
リュックを抱きかかえて身じろぎした司は、ちらと横目で隣を窺う。車窓の外の景色をつまらなそうに眺める彼は、こちらの視線を感じ取っているだろうに、口を開く気がないようだ。勢いでついて来ちゃったけど、どこに向かっているんだろう。今日中に帰れるだろうか。明日も仕事なんだけどな。零れそうになるため息を気合で噛み殺した司は、彼に倣って景色を眺めることにした。
車に揺られること数十分。運転手にこのまま待っていて、と告げた夜鷹は、やはり何の説明もなく車を降りた。置いてけぼりをくらった司は、運転手に早口で礼を述べると、慌てて彼の後を追う。暖房のきいた空間から飛び出した体に、強い風がぶつかるように過ぎていく。すんと鼻から吸い込めば、潮の香りがした。
どうやら、港が臨める街の端まで連れてこられたらしい。夜更けの海は墨を落としたように真っ黒で、冬の潮風が轟々と吹き荒れている。こうも風が強いと、普段から騒がしい自分はともかく、物静かな夜鷹の声を聞き逃してしまうかもしれない。司は恐れおののきながらも、彼の隣に並び立った。
そんな司に一瞥をくれた夜鷹は、苦言を呈することも、煙草を取り出すこともなく、飛沫を上げて打ち寄せる海をただ眺めている。やはり、こちらから話しかけるべきか。わかりきっていたものの、勇気を振り絞って司は口を開く。
「全日本ジュニア大会での狼嵜選手の優勝、おめでとうございます。言葉では言い尽くせないほど、素晴らしい演技でした。……次は、負けません」
「…そう。好きにしなよ。光は勝手に勝つから」
相変わらずそっけない返事を寄越されたものの、司はどこか違和感を覚えた。彼からすれば、こちらの存在など、無謀な目標を掲げて一方的に大口を叩いてくる小物にすぎないということはわかっている。だが、彼の覇気のない声は、それだけではないように思えた。
「勝手に、ってなんだか他人事のように聞こえますけど…。コーチはあなたですよね?」
「前までは、ね。もうコーチはやめた」
「ハァ??」
勢いよく隣に振り向く。潮風を割いて響くほどの大声に顔をしかめた夜鷹に、うるさい、と窘められたが、それどころではない。
「コーチをやめた?え、絶賛シーズン中の今ですか?なんで?っていうか狼嵜選手の意志は?」
「…君。滑る時は静かなのに、喋るとうるさくなるよね」
こちらの問いかけを丸きり無視された挙句、失礼な言葉が返された。滑る時は静かってなんだ。鴗鳥からリンクに誘われたあの夜のことを言っているのか。そりゃあ、メダリストたちの滑る様を間近で拝めたんだから、静かになるに決まっているだろう。彼らの姿を目に焼き付けて、脳内で軌跡を描くのに集中していたら、自然と口数は減っていく。そもそも、ジャンプの練習中に口を開けば、思い切り舌を噛んでしまうじゃないか。
反射的に言い返しそうになった司は、しかし傍らの彼の横顔に、ぐっと言葉を飲み込んだ。
あの夜鷹純が、司が出てくるのを待ち構えていたうえ、わざわざこんな場所まで連れてきたのだ。彼の意図も、コーチをやめたという先ほどの話も大いに気になるが、無理に聞き出すのは得策ではないだろう。ここは、夜鷹が自ら話し出すまで、待ってみるべきかもしれない。
正面に向き直った司は、大きく深呼吸する。肺に取り込んだ潮風の温度に、かっとなった頭が冷えていく。穏やかになっていく鼓動を感じながら、荒れた海を黙って眺める。
一方、先ほどのオーバーリアクションが嘘のように急に静かになった司に、夜鷹はぱちりと瞬いた。待ちの姿勢に切り替えたのを悟り、無言で促される続きを吐き出す。
「光は、僕と同じ道を歩むと言った。僕はかつてコーチを手放した。だから、僕は光から離れた。それだけのことだよ」
「……聞きたいことは、山ほどありますけど。とりあえず、狼嵜選手への影響はないんですか」
「君も見たでしょ。僕はもう必要ない」
確かにこの目で見た。これまで隠れていた夜鷹純の影を飛び出し、狼嵜光という一人の少女として、初めて自分のスケートで滑った様を。
「クラブを移籍したいと言うから、あのクラブを選んだ。ステップを磨きたいと言うから、高峰先生を呼んだ。あの振付師も光を気に入ったようだし」
「…だから、あなたは離れたんですか。それが、彼女に必要な犠牲だと思ったから」
「……誰に何を吹き込まれたのか知らないけど。これは犠牲でも何でもない。僕がいる必要はなくなった、ただそれだけのことだよ」
「でも、彼女だって、まだあなたから教わりたいことがたくさんあったはずじゃ」
「あの子は自分のスケートをするようになった。なら、僕のスケートは邪魔だ」
「そんな…!」
平然と紡がれる言葉に、たまらず司は口を挟んでしまう。しかし、夜鷹にとってこれがすでに終わった話だからか、ただ淡々と返される。彼の中では、理論的で筋の通った結末なのだろうが、突然事情を知った身としては物申したいことが多々ある。いくら当事者同士が納得しているとはいえ、すんなりと納得できるわけがない。だが、一番衝撃を受けたであろう光自身が最終的に受け入れたことを、一介のコーチである自分が覆す道理はない。
「…納得は、できません。ですが、俺がやることに変わりはありません。全力でいのりさんを勝利に導き、俺たち二人の手で、金メダルを獲ってみせます」
「そう」
さも興味なさそうに簡潔な返事をした夜鷹は、ふるりと身を震わせた。はぁと吐き出された息は、白くなる間もなく強風に流されていく。いくら現役選手に劣らないほど鍛え抜かれた身であっても、真冬の海沿いでの長話は堪えるだろう。夜鷹は話は済んだとばかりに踵を返し、車に向かっていく。
司もそれに続こうと足を踏み出し、そこではたと思い出した。本能がそうさせたのか、気がつけば、彼の細い腕を掴んでいた。
「…なに」
司の突然の暴挙に、夜鷹が不機嫌を露わにして振り返る。深く刻まれた眉間の皺も、怒気が滲む眼差しも、恐怖のあまり泡を吹いて倒れてしまいそうだ。しかし、凄まじい勢いで脳を回転させる今の司には、その迫力に動じる余裕すらない。
「ッあの!狼嵜選手の専属コーチに興味を持ったのは、あなたにも一人で滑る貸切枠を確保するという条件があったからだと聞きました」
「……喋りすぎだよ。慎一郎くん」
そっぽを向いた夜鷹が、呆れたようにため息をつく。だが、掴んだ腕は振りほどかれない。司は一歩詰め寄り、まくし立てるように続ける。
「引退してから、氷の外で生きようとしたけど、ずっと苦しかったって。だから、氷に乗れる貴重な機会を得るために、あなたはコーチを引き受けたのだと、そう思ってました」
「…………」
「でも、あなたは言いましたよね。狼嵜選手には、あなたと同じ道を辿らせる。あなたはかつてコーチを手放した。だからコーチをやめた、と」
「…だから?」
「ッあなたは!初めから、どこかでコーチを辞めると決めていて、契約したんですか…?いつか、あんなに焦がれた氷に乗れなくなる日が来るとわかっていて、それでも引き受けたんですか?」
自分が氷に乗るためではない。光の願いを叶え、その道半ばまで導くために、その手を取ったのか。いや、それだけじゃない。点と点が繋がって線となるように、脳内でいくつものピースがパズルのようにはまっていく。
司は過去に、不躾な質問とわかっていながら、鴗鳥に尋ねたことがある。クラブの生徒をくん付けで呼び敬語で話すに対し、光は慣れ親しんだふうに名前で呼ぶから、特別な思い入れや絆があるのかと思ったからだ。すると、幼い光を夜鷹が連れてきた頃から、家族の一員としてともに暮らしていると聞いて驚いた。
対して、夜鷹の親族については、彼が現役時代に受けたインタビューや特集記事をいくら漁っても大した情報は得られなかった。夏の強化合宿の夜で、彼の家族に指導者の素質があったのではという疑問に、それは絶対にない、と熟練のコーチ陣は口を揃えて否定した。かつて夜鷹の演技に魅せられた司は、学生時代から動画サイトを駆使して、彼が映る動画は全て目に焼き付けていた。それこそ、彼がノービスに上がる前までの古い動画まで漁ったが、思い返せば、彼が表舞台に姿を現す際に親類縁者と思われる者をついぞ見かけなかったように思う。
コーチの件だってそうだ。かつてコーチを手放したという言葉の通り、夜鷹は毎年コーチを替えていた。現役時代は最後まで世界中の強豪クラブを転々とした。以前はそれが強さの秘訣なのかと考えていたが、コーチとなった今では、それは違うのだと思い知らされた。彼が何を思い、コーチに何を求めていたのか、自分には知る由もない。それでも、コーチを手放したと語る彼の横顔は、とても満足そうには見えなかった。
それなのに、光が望むまで無理にクラブを移籍させなかったうえ、現在の彼女に適切な環境を与えてくれるクラブを選んだ。もう自分は不要だと宣いながら、彼女がこれからも強く成長するためにふさわしいコーチを見つけ出し、信用し、託していった。
初めて会った少女の願いを叶えるため。この人の言葉を借りれば、右も左もわからない子どもに奉仕するために。
同じ道を辿らせると言っておきながら、自分にはなかった、家族もコーチも彼女に与えて。
氷を降りては息ができないのに、仮初ながらもようやく手に入れた安息の地を、自ら手放す日が来るとわかっていて。
どうして、そこまで。
「あなたは、これからどうするですか…?」
「別に。どうもしないよ。コーチになる前に戻っただけ」
震える声で投げられる司の問いに、夜鷹は平然と返す。
「あぁ、一つだけ違うかな。スケート靴は置いてきたから」
「え…?」
「氷を用意するという条件で契約した。でも、その契約はもう終わった。だから、もう滑ることはない」
司は耳を疑った。
スケート靴を置いてきた?もう滑ることはない?
この人は一体、何を言っているんだ。
氷に乗れない生活はとても苦しいって、あの鴗鳥ですら言ってたじゃないか。夜鷹はその最たる例だと。たとえ、契約を自ら終えた責任と覚悟を示すためだとしても。自身の命綱と言っても過言ではない、氷に乗るために不可欠な靴を手放すなんて。
氷を失った今、この人は、この先、どうやって息をするのだろうか。
「……夜鷹さん。今の俺には、いのりさんのコーチという役割があります」
俯く司の言葉に、夜鷹は眉をひそめる。そんなことはわかっている。だが、こちらの腕を強く握る手から伝わる熱が、夜鷹の足を引き留める。司の意図は欠片もわからないが、その手を振り払ってまでここを立ち去りたいとは思わなかった。夜鷹は黙って耳を傾ける。
「俺の体も、時間も、コーチを全力で務めるために使います。俺がジャンプを練習するのは、彼女が今よりもっと上手に跳ぶために、少しでも力になりたいから。俺が自由にできる時間は、彼女の練習メニューを考えて、試合で勝てる構成を導き出すために使います。一分一秒も無駄にはできない」
「…うん」
「だけど、心は違う。俺の心は、俺だけのものです。だから──」
司が顔を上げる。
目が合った瞬間、真っ暗な水平線の向こうから、太陽が昇ったのだと思った。
夜鷹はすぐさま胸中で否定する。そんなはずはない、自分たちはまだ宵闇の中にいる。しかし、そう見紛うほどに彼の瞳は苛烈に燃え上がっていて、目を離せなくなる。
「俺の心を、あなたにあげます。全部あげます。いらないって言うなら、少しでいいから、持っていってほしい。だから、俺はあなたの帰る場所になれませんか」
氷の外では生きられない、氷に閉じ込められた人生に縛られるあなたが、自ら氷を手放すと言うのなら。
この先も続く長い人生を、たった一人で、死んだように生きていくと言うのなら。
一時でいい。利用されたってかまわないから。
暗闇を飛び続ける孤高な鷹が、羽を休められる止まり木になりたい。
夜鷹はじっと司を見つめる。金色の瞳の中に、向き合う自分が映り込んでいる。
初めて言葉を交わした時、厳しく、冷徹で、容赦のない人だと思った。だが、今は違う。傲慢だが、不器用で、優しい人なのだと知った。
自分なんかがこんなことを願ったところで、彼には迷惑このうえないだろう。それでも、願わずにはいられなかった。
言葉もなく、しばし互いに見つめ合う。すると、長らく口を閉ざしていた夜鷹が、ふと息を吐いた。いまだ司に掴まれたままの片腕を振る。
「手、離して」
「あ、す、すみません!強く握っちゃいましたよね。どこか痛めてませんか…?」
「平気だよ」
問題ない、と言うように、夜鷹はふるりと腕を振った。司はほっと息をつく。胸に手を当てて安堵する様を見ていた彼は、何を思ったのか、こちらに一歩歩み寄った。体を揺らせば触れてしまうほどの距離だ。
しかし、司が息を呑む間もなく、その小ぶりな頭こうべはゆっくりと垂れて、肩口に着地した。漆黒の髪がさらりと流れ落ち、肌をくすぐる。呼吸を一つ重ねるごとに、彼が纏う煙草の匂いが肺に満ちていく。司の肩に額を乗せた夜鷹は、ほおと息を吐き出した。
「君も物好きだね」
掠れた声で落とされた呟きだが、至近距離で向き合い、夜鷹に全神経を傾ける司の耳は難なく拾い上げた。位置が気に入らなかったのか、むずがるように左右に頭を揺らす。不器用な彼が見せた甘えるような仕草に、ぐっと胸が詰まった。
「今日、あの場所に行けば、君に会える気がした」
「ど、うして、来てくださったんですか…?」
「君の近くなら、息がしやすいと思ったから」
ひゅっと喉が鳴る。
聞き間違いじゃないか。彼の言葉を、自身の脳が都合のいいように聞き取っているだけじゃないのか、と不安に駆られる。
だって、まさかあの夜鷹純が、自分の足で俺のところまで来てくれたなんて。
息苦しい世界の中で、少しでも頼りにしてくれたなんて、すぐに信じられるはずがない。
「…僕に、くれるの」
確かめるように紡がれた声は、気のせいかもしれないが、ほんの少し不安げに揺れた。そう思った瞬間、たまらなくなって、咄嗟に彼の体をかき抱いた。腕の中に収まる一回り小さな痩身は、抵抗なく大人しくしている。それどころか、こちらの背中に、細い腕がゆっくりと回されるのを感じる。
受け入れてくれた。許してくれた。
自分より低い体温。緩やかな鼓動。穏やかに繰り返される呼吸。それらを間近で感じたら、もう耐えられなかった。視界を滲ませる雫が、瞬く度にあっけなく落ちていく。
「好きなだけ持っていってください。全部、あなたのものです」
「……そう」
顔を上げた夜鷹は、満足そうにわずかに口角を上げる。それは、彼を知らぬ者では見逃してしまうような、儚い微笑みだった。
こつりと額を当てる。互いの息が混ざり合い、溶けていく。こんなふうに、あなたに俺の息を分けてあげられたらいいのに。はたして分不相応な思いが届いたのか、対の満月はゆるりと細くなった。
「悪くないね」
夜明けはまだ遠い。
それでも、どうかこの人が、安らかに眠れるように。
穏やかに息ができる、あたたかな場所で、生きていてほしい。
願わくば、俺の隣で。
司は、腕の中の温もりが冷めないようにと、きつく抱き締めた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!