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ガンと、大きな音が響いた。純のスニーカーが司の足の間から壁を蹴り上げていた。ただ事ではない剣幕に司は声も出ず青ざめる。
「この大会で金メダルをとったら」
純は司のネクタイをつかんだ。背の高さはまだ司に追いつかない。首を引かれた司がよろめき、顔が近づく。下から鋭い目で司を睨む。獲物を見るような恐ろしい目だったが、うすく涙が浮いていた。
「僕のにするから」
噛みつくように唇を合わせる。ガチりとかたい音が立ち、鼻先に鉄の匂いを感じた。
新しいクラブに入った。ルクス東山というクラブだった。アイスダンスの元選出がコーチをつとめている。純は一人で通うことが出来ればどこでもよかった。コーチもうるさくなければ誰でもよかった。
しばらくは注目の的だった。保護者や生徒からひっきりなしに声をかけられる。しかし一週間も経つと、お高くとまっているとか、生意気とか、そんなひそひそ声に変わり、引く波のようにみんな離れていく。いつものことだった。
持って生まれた才能と不足を補完する能力は、まだ幼い純と他人との間に大きな溝をつくった。関係性が築かれることはなくクラブを転々としてきた。結果だけは出してきた。クラブへの勧誘はたくさんある。いつでも他へ移ることが出来る。
夜になると個別練習が行われる。順番の時間になり純がリンクを訪れると、明かりはついていたがコーチの姿はなかった。前時間の生徒の姿もすでにない。一段落された照明の下で、灰色がかった白いリンクが冷たくぼんやりと光っている。
「……」
更衣室へは寄らず、リンクサイドのベンチに荷物を置いた。リュックからスケート靴を取り出し履き替える。きつく靴紐を結んでいく。家からリンクまで走ってきた。汗ばんだ体が冷えてくる。
ジャンパーの下に練習着を着ていた。手袋をはめ、エッジガードを外しリンクにおりる。体は冷え切っていたが、問題なく動いた。
頭の中には目指す姿があった。指先まできれいなスケーティング。どこで見たのかは忘れてしまった。少しずつ成長する体が思い描く形になるように、少しずつ動きを合わせていく。上達するための道筋は自分で立てることができる。時々冷たい風が体の中を抜けていく。真っ暗な夜の森に一人で立っているような孤独が音もなく後ろをついてくる。
純はどんな時でも自分の体の状態を良くするように心がけていたが、いつも冷えていた。どんなに激しい動きをしても体の奥深くが冷たかった。
イヤホンで音楽を流しながら滑った。前の大会のプログラムだった。今年はノービス最後の大会になる。
イヤホンをしていた純は、リンクの扉が開いたことに気づかなかった。
最初に顔を出したのはヘッドコーチの瞳だった。慌てた様子であたりを見回し、リンク上に生徒の姿をみとめ安堵する。次に、瞳に引きずられるようにして現れたのはアシスタントコーチの司だった。
「あちゃ~やっぱりもう来てた……でもはじめててくれてよかったわ」
「あの、瞳さん、タイヤも交換しましたし俺はこれで」
「せっかくだから見ていって。本当は司くんに任せるつもりだったのよ」
司は後ろ頭に手を添え俯いた。「はは……」笑い顔に深い影が落ちる。氷の音がひびいた。司は弾かれたように顔を上げた。
ジャンプから着氷した純の目に最初に見えたのは、明るい色の人だった。その人の顔が、瞳がゆっくりと輝きを増していく。まるでコマ送りのようにゆっくりと。いつかの冷たい夜明けに見た、山陰から現れる朝日のようだった。薄暗い世界に光の裾が伸びてきて目の前が開けていく。
どこかで見たことがある気がする。じっと見つめたまま滑っていくと、リンクの周りを走ってついてくる。背が高くて足が速い。イヤホン越しでもかすかに聞こえる大きな声でしきりに何か言っている。途中でヘッドコーチに止められぺこぺこ謝っていた。
滑っている最中なのに目が離せなくなった。輝く目がまた純へと向けられる。すると急にほっとして、その後すぐに胸が苦しくなった。涙が出そうになった。踏み込みの間がわずかにずれる。エッジが氷を変にえぐる。いつもより気の抜けた三回転は、記憶にある限りはじめての転倒となり、純は氷の上に倒れたまましばらく動くことができなかった。
司と瞳は顔面蒼白になり靴のままリンクに入った。大の字になって動かない純に駆け寄る。慌てながらも打ちどころを確かめ痛みの有無をたずねた。
「どこが一番痛い?」
「…………胸」
「胸を打ったようには見えなかったけれど、体のどこかが当たったのかも」
「と、とにかく救急車、いや車で連れて行った方がはやいか」
青ざめる大人を尻目に純はむくりと起き上がった。立ち上がりレギンスについた氷を払う。あたりを見回した。先ほどまでよりも景色が明るいような気がした。
二人に手を引かれてリンクサイドに向かう。荷物を置いたベンチに座ると、ヘッドコーチから体について色々な質問を受ける。
「本当に大丈夫なのね?」
「うん」
「そう……あ、無人にしてごめんなさいね。前の親御さん急用が出来て帰ろうとしたら車のタイヤが側溝に落ちてパンクして、司くんに予備のタイヤと交換してもらってたら遅くなっちゃって……」
ヘッドコーチの声の中に聞こえた名前を口の中でつぶやく。「つかさくん」純はもう一人の大人を見上げた。そして思い出した。頭の中にいつもいる、指先まできれいなスケーティングをする人のことを。
「アイスダンスの明浦路司選手」
「えっ」
朝日のような明るい瞳が見開かれる。目が合うとあたたかさを感じた。純はベンチから立ち上がり、司に近付いた。ガードをつけていないブレードが床とこすれて生き物のようにキイキイ鳴る。
「ここのコーチなの?」
純の言葉におろおろと狼狽えはじめる。一歩足を踏み出すと、一歩後ろに離れていく。人が離れていくのは純にとっていつものことだった。自分から近付きたい、触れたいなんて思ったことがない。純は大きく足を踏み出し司の腕をつかんだ。
「僕のこと見て」
本人からの希望もあり、司は純のコーチになった。はじめて受け持つ生徒としてあまりに荷が重いと瞳に訴えるも、往生際が悪いと一蹴される。
純は何ものも寄せ付けない孤独な空気をしている。飛び抜けた実力と才能を持ち、はやくから広く名を知られていた。クラブを転々としておりコーチの助言を必要としない。彼のコーチはお飾りだとまで言われる。そこまで考え、成る程、自分が指名を受けた理由はそれかと納得した。車係り、荷物持ちに徹することにする。
「今の見てた? どうだった」
「ここのスピン、なんかちょっと詰まるんだけど」
「シークエンスは? 手の表現得意でしょう。細かいところ見て」
夜の個別練習の時間だった。音かけの後、リンクサイドに立つ司の元に戻ってきた純は、水筒を受け取りながら矢継早に言った。
司はすっかりお飾りコーチの気持ちでいたため呆気にとられた。言葉を求められることはないと思っていた。しかし、生徒の滑りはきちんと見ていた。今日の滑りはもちろん、これまでの滑りを動画でみてノートにびっしりと書き込みもしていた。求められた問いかけに返答する。純は真剣に耳をかたむけ、司の助言を元に動きを調整する。まるでコーチと生徒のやり取りのようだ。司は不思議に思いながら、氷の上を飛ぶように滑る子供を見つめた。黒い練習着と白い肌のくっきりとした輪郭が浮き立って見える。まだ幼く線の細い少年は、未完成な危うい体を完璧に使いこなしてみせる。
「今度はどう」
滑り終えると、飛び込むように司の元に戻ってくる。鼻の頭に汗を浮かべ、ほめてくれと言うような笑顔で。
「……よろこびGOE+5」
「え?」
コーチの助言を必要としない。傲慢で不遜、一人ですべてこなしてしまう。きっと根も葉もない噂だった。司は純の両肩に手をそえ、少し眠そうな、奥底に星を沈めた瞳をのぞき込み笑った。
「とっても、よかったよ!」
純はしばらくぽかんとしていたが、やがてまた小さく笑った。
司の中で少年の像が変わっていく。思ったよりもずっとよく喋り笑う。結構な頻度で忘れ物、なくし物をする。
「このタオル純さんの?」
「うん。なくしたと思ってた」
「色んな人のいるところで使うものには、名前を書いておくといいよ。すぐに誰のかわかるから」
「わかった」
言うとすぐに実行する。黒の油性ペンを持ち歩き持ち物全部に『じゅん』と書く。イヤホンやスマートフォンは黒だったので、修正ペンで書いていた。止める間もなかった。
鼻水が垂れやすい。猫や犬を見かけると近づいて行くが大抵逃げられる。鳩や雀には座っているだけで群がられる。スマートフォンの画面がバキバキに割れている。
座り作業をしているといつの間にか隣に座っている。気付くと膝に乗り上げてくる。寒がりで体温の高い司で暖を取っている。リンクでも練習の合間に身を寄せてくるようになり、氷のような冷たい手を服の袖や合わせ目に入れてくる。そのたびに司は悲鳴を上げて飛び跳ねたが、純はなにも悪いことをしていない顔をする。冷たい手がかわいそうで拒絶できない。何回かすると慣れてしまった。
司のあとをついて回る純の姿にまわりの人々も少しの間ざわざわしていたが、すぐに日常に馴染んだ。噂話は消えることはなく、暗いひそひそ話も聞こえてくるが、夏の大会に向けて練習を重ねる日々が続く。
スマートフォンの画面を食い入るように見つめている。今しがた撮ったジャンプの動画だった。純にとっては面白みがなかったので、コーチの顔をじっと見つめて待っていた。
リンクサイドにいた。夕方のリンクは他の生徒や一般客で混んでいる。たくさんの視線を感じて居心地が悪い。ひそひそ声の中に自分の名前が聞こえる。純は水筒の蓋をしめながら少し俯いた。前髪がこぼれ落ち視界が暗くなる。
「聞かなくていいよ」
小さな声だった。司は氷の外にいる。ガードを挟んで向かい合わせに立つコーチは真剣な眼差しをスマートフォンに向けている。そのまま口を開く。
「誰かが不機嫌になっても君が気にする必要は一切ない」
リンクの氷で顔が白っぽく光っていた。肌がきれいで、髪もつやつやしている。睫毛もたくさん生えている。クラブの他の生徒たちからは面白い元気な先生と言われている。純にはそれが不思議だった。こんなにすてきな人をそんな風にしか感じないなんて、もったいない。すぐれたものはふさわしい評価を受けるべきだ。けれど司に関しては、決して口にすることは出来ないが、誰にも見つからずにこの場所にいてくれてよかった。純は目にかかる前髪を横に払った。
「体が軽いから、どうしても少しぶれるんだね。背もこれから伸びると思うし、体重が増えればまた感覚もかわる。あせらずに都度調整していこう」
「わかった」
スマートフォンから顔を上げ、視線を合わせるために背中を丸める。純の目を見てにっこりと笑う。司は体がとても大きい。体温が高くてそばにいるとあたたかい。純は手袋を外し、司の袖の中に手を入れた。はじめてやったとき司は悲鳴を上げて飛び跳ねたが、何回かすると慣れてしまった。指先を押し返すような力強い肌と筋の感触がする。ほとんど感覚のなかった指先に血が巡り始める。
「純さん、前も言ったけどカイロもあるよ」
「いらない」
「あ、そう……」
「僕も筋トレしようかな」
「ええ? どうしたの、急に」
「やっぱりいいや。そうだ、今夜の練習で僕のプログラムやって」
「えっ……むりです」
「特別にジャンプは何回転でもいいよ」
水筒を司に渡し氷を蹴る。
夜、純はいつもより早い時間にスケート場についた。ぽつぽつと雨が落ちてくる。
シガーチョコをかじりながら更衣室へ向かう。途中にある個別のレッスン室に明かりがついていた。扉が開いており、何となく中を覗く。すると見慣れた姿があった。
「司くん……」
レッスン室は片側の壁が鏡張りになっている。純は鏡に映る司と、司にリフトされた女子生徒の姿を見た。部屋にはもう一人生徒がおり、隣で司の動きを真似ている。
リフトのポジションが変わる。どの動きもなめらかで、危なげがなかった。ゆっくりと大切に床へおろす。そして再び持ち上げる。女子生徒の表情はやわらかく、なにも心配はないように自身のポーズに集中している。絶対に落とさないように腰をつかむ大きな手や、慈しむようにそえられた長く太い腕、身を預けて不安のない逞しい胸。純は目をそらすことが出来なくなった。
生徒同士がリフトをするが中々息が合わない。司は男子生徒のこともリフトした。少し冗談めかして肩に担ぎ、回り始める。振り向いた司と純の視線が重なる。純はぱっと顔を伏せた。足早に更衣室へ向かう。ロッカーに荷物を入れながら、頭の中では女子生徒を抱き上げる司の姿が何度も繰り返されていた。
アイスダンスの生徒の指導をしていることは聞いていた。けれど目にするのは初めてだった。
練習着に着替えロッカーを閉める。いつもより大きな音が鳴った。
個別練習の時間がきた。司がリンクに入るとすでに準備を終えた純がいた。氷上で黙々と円を描いている。
「純さんこんばんは」
「……こんばんは」
返ってきたのは小さな声だった。いつもならリンクサイドまで滑って来るのに顔も向けない。司はショックを受けたが、きっと自分がなにかやったのだと思った。記憶をさかのぼりながらエッジガードを外しリンクに入る。
「純さん、あの、待たせちゃったかな」
「時間通りだけど」
「そ、そうだね。……あっ、この間は無理に鯛焼き味とショートケーキ味のジュニアプロテインを勧めてごめんね」
「別に。飲まなかったし」
「声が大きすぎた? 身振りがおおげさ?」
「いつものことだけど」
「……はい」
ツンとそっぽを向いたまま近付いただけ離れて行く。司は落ち込んだ。心の中で号泣しながらリンクサイドに戻り解決策を模索する。
純は淡々とメニュー通りの練習をこなしていく。司はリンクの外から純の動きをじっと観察し、気づいたことをノートに書きとめた。
そして個別練習の時間が残りわずかになった頃、純がリンクサイドに戻ってきた。
「……プログラム」
「えっ、なに? なんのプログラム?」
純はしばらく口を開けたままじっとしていた。水筒の水を飲み、鼻をかみ、司を見上げてまたじっとする。しかし言葉が続くことはなく、ぎゅっと眉間にシワを寄せた後、氷の上に戻って行ってしまった。
司は小さな背中をあわてて追いかけた。強く氷を蹴り隣に並ぶ。今度は離れて行かない。しばらくそのまま並んで滑った。
速さを合わせて滑っていると、不思議と手足の動きも揃ってくる。息づかいが伝わってくる。次はどのように動くか手に取るようにわかった。
まるでアイスダンスをしているようだと思ったとき、純が司の手を取った。引っぱられるままに滑っていく。途中から司のリードにかわり、純が嫌がらないので、繋いだ手を引き寄せてポジションを変えたり、回り込んでバック滑走でリードした。動きがはまって気持ちよかった。
司は胸よりも少し下にある小さな頭を見下ろしながら、これから先のことを思った。きっとすぐに大きく成長していく、たくさんのメダルをとる選手になる。他のクラブに移籍してしまうかもしれない。繋ぎ止めるような力は自分にはない。いつまで見守ることが出来るだろう。カーブに差し掛かり、小さな体を抱き寄せる。
司は純のジャンプを目にしたとき、星を見たような気がした。燦然とした輝きは、スケートの世界からこぼれ落ち夜の闇に沈んでいた司の目を激しく焼いた。
トゲトゲしていた純の雰囲気がやわらかくなっていく。ワルツのポジションで向かい合わせになると、ついに顔を上げて笑った。司も思わず声を上げて笑った。
「スロージャンプしてみたい。投げて」
「あれはペアの技だし、怪我したら大変なので駄目です」
「誰も見てないよ」
「そういう問題じゃありません。あと、結構みんな見てないようで見てるからね」
「わかってるよ。けち」
純はすねたように顔をそむけ、自分で滑るのをやめてしまった。
わざと体重をかけてきた小さな体を支えゆるやかなバックターンをする。少しずつ速度を落としていくと、ぽつりとした声が聞こえた。
「リフト」
「うん、どうしたの」
「さっきリフトしてたでしょう」
「さっき……ああ! やっぱりあれ純さんだったんだね。目が合った気がしたけど行っちゃったから、違う子かと思ったよ」
ターンが止まる。司は純の体を押しながらリンクサイドへ向かった。まだ時間は残っているが、純はもう滑りそうにない。
「どれくらい持てるの」
「重さのこと? そうだなぁ、今は筋肉もついたし、結構行けると思うけど」
「ふぅん」
「あれ、もしかしてアイスダンスに興味が」
「ないよ」
二人で滑るアイスダンスは、リード側の力が強くても呼吸が合わなければ上手くいかない。人を支えて滑るには相手の協力が不可欠だった。現に今、司は中々リンクサイドに辿り着くことが出来ず困っていた。腹にしがみつく純が進む邪魔をしている。一度足を止めた。身をかがめ、純の細い腰を両手でつかむ。
足が氷を離れた。視界が勢いよく高くなる。純はいつも見上げている司の顔を見下ろしながら、腰をつかむ手の力強さを感じた。
「う、わ」
程なく逞しい胸の上に下ろされる。司はそのまま滑り出す。
「も〜いたずらっ子だなぁ」
純はおどろいて何も言えなくなり、司の首に腕を回してぎゅっとしがみついた。紺色の練習着の襟ぐりに顔を埋める。深く息を吸い込むと、かすかに湿った人肌と冷たい空気の匂いがした。
氷の外に出てからそっと床におろされる。純は足が床の上についてもじっとしていた。
「あれ、大丈夫? あっ、もしかして抱っこされてるの、見学の人たちに見られたくなかった、よね……ごめんね……」
純はしょぼくれた司を見ることなく背を向け、水を飲んでから口を開いた。
「僕のプログラムやって。それで許してあげる」
怒ってなどいなかったが赤くなった顔を見られたくなかった。
「……整氷の時間に食い込んでるよね?!」
音楽が止むなり謝りながらスコップとバケツを用意しはじめる。
司が滑るのを見ていた生徒や保護者はしばらく余韻に浸っていたが、当人が氷の穴を埋めていることに気付いた者からリンクに入って行った。
誰よりも先に司に続いた純は、まっすぐに司のそばに行った。アイスダンスの生徒の指導をしている司を見て嫌な気持ちになったが、そんな気持ちはすっかり消えてしまうほど興奮していた。
けれど、司を前にした純の口から出た言葉は「スコップかして」だった。
「はいどうぞ」
青い小さなスコップが渡される。あっという間に他の生徒たちが司を囲む。
「司せんせい、かっこよかったよ」
「スケートうんとじょうずだね」
「ジャンプすごかったです」
「わたしのプログラムも滑って」
「ぼくも」
「……」
純はそばにあったバケツから氷をすくい、手近な穴を埋めた。さく、しゃり、さくさく、氷の音が響く。そのうちに消えたはずの暗い気持ちが戻ってくる。
離れたところから聞こえる楽しそうな司の声を聞きながら、スコップかしてなんて、言うつもりじゃなかった。今見たスケートがどんなにすてきだったか、感動したか、本当は一番に伝えたかった。
「整氷機入るよー」
純はスコップとバケツを片付け、足早に更衣室へ向かった。誰にも声をかけず顔も見ずにスケート場をあとにした。
外に出ると雨は本降りになっていた。建物や地面に打ちつける雨粒の音が大きく響いている。純はジャンパーのフードを深くかぶり雨の中に飛び込んだ。あっという間に体が重くなる。
春先の冷たい雨は体を芯まで冷やした。水たまりをはね上げ、黒いスニーカーの中に水が染み込む。色が変わるほど濡れたズボンは重くまとわり付き、顔に打ちつける雨粒で息が苦しい。しゃくり上げる。雨か涙が鼻水かわからない。
雨の音しか聞こえなかった。純は腕をつかまれるまで、後ろから人が追っていることに気付かなかった。
「純さん!」
純はおどろき振り向いた。氷上にいた姿のままの司がずぶ濡れでそこにいた。
「あ〜よかった! 急にいなくなるから探したよ」
純は顔を俯けた。フードを深くかぶり、いそいで涙と鼻水をぬぐう。深呼吸をすると少し落ち着いた。どんなに大泣きしても、次の時には平然と出来るのが純の特技だった。
「……練習終わったから、帰っただけだけど」
自分の声が冷たくて驚いた。さっと血の気が引き、心臓がドキドキしてくる。こんな言い方をしたらきっと追ってきたことを後悔して、離れて行ってしまうと純は思った。引っ込めたはずの涙が再びにじみ出す。けれど司は純の腕を離さなかった。それどころか自分の体の方へ引き寄せ、雨に濡れないよう肩を抱いた。
「おいで。雨宿りしよう」
明かりの落ちた商店の軒下に入る。純はすぐそばに立つ司を見上げた。半袖だった。嫌そうな顔をして帰ってしまうと思ったのに、いつもと変わらない朗らかな顔で夜空を見上げている。
「すごい雨だね、天気予報雨だったっけ」
軒に打ちつける雨音は大きく、濃い水の匂いがする。純はフードをはずし深く息を吸った。雨の匂いが胸を満たしていく。ふと司が純を見下ろした。目が合う。
「寒くない?」
純はさっと視線を落とした。すると雨に濡れて肌に張り付いた練習着が、司の体の形をくっきりと浮かび上がらせていた。ごぽごぽと、どこかで排水の詰まる音がする。小さく喉が鳴る。握り締めた手に爪が食い込む。
「……司くん」
言いたいことがたくさんあった。けれど喉で詰まって続く言葉が出なかった。
どんなことも、口にするのが怖かった。誰も自分に見向きもしない。きっと自分はみにくいのだ。純はずっとそう思っていた。心の中には二つの顔があり、片方ではそんなことは無いとわかっていたが、幼い頃に傷ついた心はかたくなに目を閉じ耳を塞ぐ。誰の言葉も届かない深い夜の森の中で純はずっと一人だった。握り締めた手が真っ白になり震えはじめる。その手にあたたかな手が重なった。
「純さん」
司が膝を折り、純の顔をまっすぐに見つめた。何を言われるのかわからない。心臓が早鐘のようになる。
「あのプログラムさぁ、キッツいね」
「……え」
「もうね、滑り終わったら膝ガクガクだし、スピン多くて途中で空中分解するかと思ったよ。大の大人がこれだもん、純さんは本当に、すごく頑張ってるね」
握られた両手があたたかくなる。雨音が小さくなっていく。
「……司くんのスケートも悪くなかったよ」
「ありがとう。あ、それとね、これからは帰るときは必ず俺か瞳先生に声をかけてください。約束ね」
「うん」
小指が差し出された。指切りをする。司が立ち上がり、雨に濡れた前髪をかき上げた。
「はい。それより濡れちゃったね。親御さんのお迎えこの辺にくるの?」
「来ないよ」
「まだ来てないのかな」
「来ない」
「こない……来ない?」
「うん。いつも一人で帰ってる」
一度スケート場へ戻った。二人そろって瞳に叱られる。
事情を説明し共用車の貸し出し許可を取る。着替えをすませ鍵を取りに事務室へ寄ると、瞳が頭を抱えていた。
「今日まで気付かなかったの。純くん、いつもすぐ外に行っちゃうから、てっきり駐車場で親御さん待っているんだと思ってた」
「俺もです……」
「何かあったらと思うとぞっとして……今度から、お迎えは原則施設内まで来てもらうように保護者にプリント刷るわ。悪いけど今日は純くんのことお願いね」
「わかりました。車は駐車場に戻して鍵だけ明日返しますね」
純を後部座席に乗せエンジンを回す。赤信号の点滅する雨道は対向車もほとんどなく、十五分ほどで目的地に着いた。市街地にあるマンションの一番上の階だった。司は純を保護者の元まで送りとどけるつもりだったが、純がリュックから取り出した鍵を使って開けた玄関扉の向こうは真っ暗だった。保護者はほとんど帰らないという。
食事は宅配で届く。掃除洗濯はマンションのサービスで不在時に行われる。
「入っていかないの?」
玄関で靴を脱いだ純が振り向く。
「ごはんあるよ。チンするだけで食べられるやつ」
「ありがとう。でもご両親に断りなく上がるわけにいかないから」
「別にいいのに」
しょぼりと小さな頭が俯いてしまう。司は純の後ろに伸びる白い廊下と真っ暗い部屋を見て、ここに純を一人で置いていきたくないと思った。
膝を折り純の顔を覗き込む。無表情だが、引き結ばれた唇がいつもよりかたい。
「お風呂に入って暖かくしてね。戸締まりだけしっかりして……あ、オートロックか。ええっと、内鍵もしめてね。ゆっくり休むんだよ」
「……うん。またね」
扉が閉まるときまで純は手を振っていた。司は後ろ髪を引かれる思いで帰路についた。
次の日、司は熱を出した。スケートのコーチ業と昼に予定していた派遣の仕事にも穴を開けた。
「司くんが熱出すなんて家に来てからはじめてじゃない?」
「すみません……羊さんに、図書館はまた今度って伝えてください」
「ぼくが連れていくから気にしないで、たまにはゆっくり休めってことだよきっと」
耕一が枕元に水と薬を置いていく。だるくて寒気がする。喉も痛い。目を閉じるとすぐに眠ってしまった。
スケートの夢を見た。本番なのにうまく滑ることが出来ない夢だった。はっと目覚めてはまた眠る。何度か繰り返し、目を開くと部屋の中が夕方の光に染まっていた。
時計の針の音が大きく聞こえる。だるくて仕方なかったが、吐き気と寒気は幾分よくなった。肘をついて起き上がり枕元の水を飲む。また横になり目を閉じると、昨日の夜に扉の隙間から見えた泣きそうな顔が瞼の裏に浮かんだ。あの後、ちゃんと風呂に入っただろうか、あたたかい食事をしただろうか。非凡で一人ぼっちになってしまった。誰でもいいからそばにいてあげてほしい。
暗く広いリビングのテーブルにぽつんと座る純の姿が頭に浮かぶ。ほとんど手つかずの食事が冷たくなっていく。
扉が開く音で目が覚めた。部屋の中は暗い。廊下の明かりが細く伸び、やがてまた暗くなる。小さな足音が聞こえ、ベッドが少しだけ揺れた。
「……羊さん、けほ、うつるから、だめって言ったでしょ」
居候先の少女が入ってきたのだと思った。けれど返事はない。
「あれ、羊さ……」
視線をめぐらせる。目が慣れてくると、ベッドのすみに腰かけた姿があった。黒い。いるはずのない姿が見えた。司は熱にうなされており、これは幻か夢だと思い目を閉じた。
「治った?」
聞き慣れた純の声が聞こえた。冷たい小さな手が顔に触れる。「治らないの?」ぺたぺたと何度も。
「はやく治してよ」
ベッドがきしむ。胸の上がずしりと重くなる。ぞくぞくした寒気と節々の痛みが思い出したように戻ってくる。
「寒……」
「僕もさむい」
布団の中になにか、小さなものが入ってくる。子供のようだ。それなのに司よりも冷たかった。触れた足など氷のようだった。司は冷たいそれを抱きしめた。小さな体は胸にすっぽりおさまり、まるで最初からこうしていたように落ち着いた。
「足つめた……先生のに、くっつけな……」
素足が触れる。やはり冷たい。こんなに冷えて、一人ぼっちで小さくて、きっと寂しかっただろう。閉じた瞼の奥が熱くなる。
「あったかい」
冷えていた体が少しずつあたたかくなっていく。すると、声が聞こえた。声は子供のものではなく、大人の男の低い声だった。腕の中にあったはずの小さな体は、司と同じか少し小柄な姿になり、重く覆いかぶさってくる。瞼が重く目が開かない。体もうまく動かない。「司くん」身じろぐことも出来ず、首筋に触れた大きな手の冷たさに震えた。唇が重なる感触があったが、すぐに曖昧になっていく。
朝目をさますと、体の具合いはずいぶんよかった。夢を見た気がしたが忘れてしまった。
時計は八時を回っている。部屋を出て居間へ向かうとにぎやかな話し声が聞こえてきた。
「おはようござ……」
居間には加護親子がいた。「おはよ〜具合いどう?」そして同じテーブルに純の姿があった。昨晩泊まっていったのだと事も無げに耕一が言う。
「いや〜だって昨日、羊と二人でお寿司頼みすぎちゃって」
「え、純くん? お寿司?!」
「だから若い胃袋の力が必要だったの。まあ純くんも“コッチ側”の人間だったみたいで、冷蔵庫にシャリが大量に残っています。見る?」
「え、え……とりあえず、残すほど頼まないでくださいって何回言ったらわかるんですか!」
耕一は司を台所まで引っ張っていき、冷蔵庫の中を開けてみせた。タッパーに詰められたシャリが白く光っている。「ね?」「いや何の『ね?』なんです」それまで笑っていた耕一がちらりと子供たちの様子を見た。並んでスマートフォンをのぞき込んでいる。動画の音が小さく漏れ聞こえる。
二人は声をひそめた。
「夜にさ、お見舞いにきたんだよ。司くんは生きていますかって。一人で。この世の終わりみたいな顔してたから泊まらせちゃった」
「すみませんでした。羊さん、大丈夫だったんですか」
「うん、なんか意気投合したみたい。会ってすぐは野生動物みたいに見合ってたんだけど、しばらくしたら握手してたよ。今もほら、いっしょにウォンバットの動画見てる」
人見知りをする羊が笑っている。純はクラブで他の生徒を前にした時と似た無表情だったが、返事をしたり目を合わせたりと、羊に意識を向けていた。
不意に耕一の顔から涙と鼻水が飛び出した。カウンターの陰にしゃがみ込み泣き始める。
「ううっ、聞いちゃったよ色々、事情があるのはわかるけどまだ小学生なのにさぁ……可哀想になっちゃって……一応親御さんに連絡したんだよ。番号教えてもらったら国際電話で、そしたら「お任せします」だって。だから時々家に泊まらせますって言ったら、自宅の方も自由に上がって下さいって……ずびっ」
「……そうですか。本当にありがとうございました」
鼻水を垂らす耕一にキッチンペーパーをちぎって渡す。
純と羊はまだ動画を観ていたが、テーブルにカップが置かれるとスマートフォンを閉じた。
「はいココア。熱いから気をつけてね」
カップを手に取った二人はそろって息を吹きかけ、ちびちびと飲み始める。司は純の隣に座り二人の様子を見つめた。
純がカップから顔を上げる。耕一が今よりも痩せていた頃に着ていた水色のストライプシャツを着ていた。胸元に小さな刺繍があり翼を広げた鳥のモチーフの回りにstargazerと綴られている。鳥の頭上には小さな星のビーズが縫い留められていた。
純にはまだ大きいようで、肩が落ちていた。袖をいくつかまくっている。純はいつも黒い服ばかり着ているが、明るい色も似合うと司は思った。
「治った?」
「うん、おかげさまで。昨日は練習休んでごめんね」
「別に。今日もいなくてもいい、けど」
「心配してくれてるの? 大丈夫だよ。体の丈夫さだけが取り柄だから」
司を見つめる純の目が疑い深く細められる。少しの不調も見逃さないという風だった。司は純の頭を撫でた。
「そのシャツ似合うね。明るい色、似合うよ」
「……借りたやつだけど」
つやのある黒髪は見たままにやわらかく、指の間をすり抜ける。
純はされるがままだったが、自分からも司へ手を伸ばした。額に手を当て熱を確かめる。冷たい小さな手だった。ぺたぺたと頬や鼻にも触れ、やがて首筋へと降りていく。
「……ココアさめるよ」
司は純の手を取り、カップに戻した。純は不思議そうに司を見ていたが、目を赤くした耕一が向かいの席にやってくると視線をはずした。
「ぼくのは?」
「まずそのコーヒーを全部飲んでください」
「え〜司くんにあげるよ」
「教育に悪いので駄目です」
「司くん私のココアもあげる」
「僕ももういらない」
「こ、こらぁ……!」
司の声を遮るように呼び鈴が鳴った。司が応対に出ると、寿司の出前が届いたところだった。
「ちょっとこれ何でまた頼んだんですか」
「大丈夫、昨日とは違うところのお寿司だから」
親子は寿司のシャリを食べ残した。それを見た純が真似をする。司は三人分のシャリを食べた。冷蔵庫の中のシャリは昼にチャーハンになった。
司が風邪をひいた日から、純はよく加護宅に泊まるようになった。練習終わりに司といっしょに帰路につく。
泊まった日の翌朝は司のランニングについてくる。
「どこいくの」
まだ暗いうちに家を出ようとした司をねぼけた顔で呼び止めたことがはじまりだった。純は司が走りに行くと知ると、目をしばしばしながら、自分も行くと言って支度した。そのうちに先に起きて準備するようになった。
生地の厚いグレーのパーカーを着ていた。ネイビーのスニーカーをはいて立ち上がり、司を振り仰ぐ。
「いこ」
紺色の空にはかすかに星が出ていた。暗い住宅地を抜けて川沿いの道に出る。うっすらと霧が出ている。吐く息が白くただよい鼻先が痛んだ。隣を走る純を見ると、小さな顔を目の下までネックウォーマーにすっぽりとおさめている。
「寒いね」
「うん。司くんはあんまり寒くなさそう」
「俺も寒いよ。あ、寒いといえば、冷蔵庫のアイスクリームに名前書いた? 耕一さんと羊さんに半分食べられたりするから気をつけてね」
「……名前書けないときはどうするの」
「え、う〜ん、みんなに言っておくといいかもね。これは僕のって」
堤防が見えてくる。
土手を走っていると辺りが明るく白み出し、朝日が昇り始めるのが見えた。
純は最近背が伸びた。シニアまでに司の背を越す予定だと言っているが、司はなんとなく、それは無理かもしれないと思った。
一年で終わるかに思われた師弟の時間は二年、三年と続いている。まだ司の肩に届かない頭は相変わらず小さく、黒髪はつやつやと光っている。朝日に照らされた横顔がきれいだった。振り向き星のような瞳を細めて笑う。
「きれいだね、司くん」
「……うん、きれいだね」
光がまっすぐに伸びてくる。紺碧から橙色へと変わる空の片隅に、強く輝く星が見えた。
純は出場する大会全てで金メダルをとってきた。ノービス最後の大会も金メダルをとった。ジュニアになってもそれは変わらず、澄ました顔で表彰台の中央に立ち、首に金メダルを下げて司のところへ戻ってくる。
「とった」
そして自分の金メダルを司の首にかけ、盾や花束などもあれば持たせ、その姿を見て得意げな顔をする。
「あげる」
「……毎回言ってるけどもらえないからね」
「じゃあ持ってて」
最近やっと買い替えたスマートフォンを取り出し、金メダルをさげた司の写真を撮る。純を追う取材のカメラマンたちが一斉にレンズを司に向ける。まぶしいほどのストロボがたかれ、司は冷や汗をかきながら引きつった笑顔を浮かべた。
慣例となった写真撮影はメディアで拡散され世間に知られるものとなり、司自身も衆目を集めた。あの夜鷹純のクラブ移籍を止めた凄腕コーチとか、天才少年が慕うコーチの正体とか、思いがけない見出しと身に覚えのない内容が週刊誌に掲載されているのを見たとき、司は気が遠くなった。
誌面には明らかに隠し撮りとわかる写真が数枚載っており、司が薄着をした純の肩を抱く姿や、純が司の首にぶら下がる写真など、そこはかとない悪意を感じさせるものばかりだった。
コーチとしての実績の無さを槍玉に上げ指導力不足を指摘する声もある。
幸い世事に関心のない純の目には触れていなかった。
「クラブから厳重に抗議しておくから」
怒りに目を燃やしながら瞳が言う。
純が試合で輝くほど司への風当たりが強くなる。司は自分にならば何をされても構わなかったが、自分のせいで生徒の評価が下がるのではないかと恐ろしかった。
来年から純はシニアになる。さらに高い技術が要求される世界で、彼を支えるにふさわしいコーチは自分ではないと司は思った。メディアに騒がれる前から考えていたことだった。
瞳には相談していた。渡りに舟とばかりに他のクラブから移籍の打診を受けたことも後押しする。
純はジュニアのグランプリファイナルに進んだ。ジュニアとして最後の試合になる。開催地は日本だった。
男子のショートプログラムは開催二日目に行われ、純は現時点で一位だった。三日目の今日はフリープログラムが行われる。滑走順は最後を引いた。
競技の開始まで少しの時間が空いた。選手の控室は人が多く、純は人の少ない通路で壁にもたれ白いイヤホンを耳にはめた。前のを無くして新しく買ったものだった。いつもポケットに入れている油性ペンで名前を書こうとして司に止められた。かわりに羊がくれた小さな星のシールが貼ってある。
司は少し前に電話をとり、すぐに戻ると言ったきり姿が見えない。
メッセージを送ろうか考えていると、目の前に影がさした。立っていたのは純と同じ年格好の少年だった。ジャージのすそから衣装のスパンコールがのぞいている。金髪に碧眼、眼鏡をかけている。純には見覚えがあった。
少年の口がぱくぱくと動く。純はイヤホンを片方外した。
「……」
「……鴗鳥理凰。どうせ覚えてないでしょう」
理凰はため息をつきながら純の隣に立った。純は理凰の名前を覚えていたが、訂正はしなかった。資材を積んだ台車が二人の前を通りすぎる。
理凰は大きなスケートクラブである名港ウィンドの生徒だった。父親がヘッドコーチをしている。一時期ルクス東山に来ており、司のもとで練習していた。
「……」
あのときは司を取られたようで嫌だった。だから名前と顔をしっかり覚えていた。
はじめの内は司に棘のある態度を取っていた。しかしある日を境に先生をつけて呼ぶようになった。司も理凰を熱心に指導していた。プログラムをやって見せたり、一緒に風呂に入ったり、どれも今までは純だけがしてもらっていたことだった。本当は顔も見たくなかったが、司が悲しむ気がして我慢した。最近クラブにも新しい生徒が増えて司と過ごす時間が少しずつ減っている。
「明浦路先生は?」
「……」
純はポケットからスマートフォンを取り出し画面を見つめた。司にメッセージを送る。既読はつかない。スタンプをありったけ送る。隣からため息が聞こえる。
「どうせ無視すると思ったけどさ。シニアになるんだからちょっとは世渡り覚えた方がいいんじゃない」
「……」
「……はぁ。そういえば、明浦路先生、大丈夫なの?」
純はスマートフォンから顔を上げ、隣の理凰を見た。
「なにが」
「ほんと先生のことになると話しするようになるよね」
「なにが大丈夫なの」
「なにって、最近色々叩かれてるから……」
純はもう片方のイヤホンを耳から外した。じっと理凰を見つめる。理凰は怪訝な目で純を見ていたが、やがてしまったという顔をした。口元を押さえてうろたえ始める。
「ごめん、知らないと思わなかった。試合の前だからやめよう」
「誰が何て言ってるの」
冷たい声だった。
理凰は純を昔から知っていた。幼いころから背中を追ってきた。新しいクラブに移ってから雰囲気がやわらかくなった。けれど今理凰の隣にいるのは昔の冷たい目をした純だった。
「教えて」
純は通路を歩いていた。すれ違う人々は純のことを目で追い、さり気なく道をあける。誰も話しかけようとしない。近寄りがたい冷たい空気だった。
金色の視線は手元のスマートフォンに向けられている。ネットニュースの記事だった。類似のリンクを次々にタップする。じわりと心が黒くなる。純はスマートフォンを強く握り締めた。振りかぶり、地面に叩きつけたい衝動にかられる。司と色違いで買ったスマートフォンだった。『今度は大事に使おうね』やわらかい笑顔が脳裏をよぎる。純はスマートフォンをポケットにしまった。
かすかな拍手の音が聞こえてくる。第一グループの滑走がはじまった。
行き止まりの壁に搬入物を運び込むための大きな扉があり、ストッパーを挟んで半分ほど開いていた。純は迷うことなく足を進めた。誰もいない場所に行きたかった。
裏方の通路は殺風景だった。搬入のため幅が広く取られている。誰もいないと思った。けれど曲がり角の向こうから声が聞こえた。女の声だった。
「今よりも良い待遇と環境をそろえて……」
人がいるなら別の場所へ行こうと純は踵を返した。けれど次に聞こえてきた聞き慣れた声に足が止まる。
「今日はまだお返事出来かねますが……」
司の声だった。純は角の向こうをそっとのぞいた。壁を背に立つ司の姿があった。純はうれしくなり、すぐそばに行こうとしたが足が止まる。司と向かい合わせの場所に女が立っていた。狐のような女だった。
嫌な感じがした。心拍が少しずつ早くなる。
司の口がゆっくりと動いた。
「この大会が終わったら、ルクス東山のコーチを辞めようと思っています」
音がしなくなった。呆然としながら、純は身になじみのある冷たい空気を感じた。
夜が来る。
暗い森の中に一人ぼっちになる。
着信音が鳴り響いた。夜の女王のアリアだった。女が司に断りを入れ立ち去った。
純は足を踏み出し、角を曲がった。司が目を見張る。
「純さん」
「コーチやめるの?」
純は冷たい声で言った。
「……聞いてたんだね」
「なんでやめるの」
司のすぐ目の前で立ち止まる。下から見上げると、司は暗い目をしていた。まるで夜の中にいるような顔だった。
純は司に出会ってから明るくなった視界が暗くなるのを感じた。胸が痛い。ジャンプに失敗して転んだ時よりも痛い。このままでは、きっと司は遠くへ行ってしまう。繋ぎ止めるような力は自分にはない。他の誰かのコーチになってほしくない、とられたくないと強く思った。自分の手を放そうとしている司にふつふつとした怒りがわいてくる。ポケットの中の油性ペンで名前を書いておくことが出来たら、どんなに安心するだろう。けれど司に名前を書くことは出来ない。名前を書くことが出来ないときは、どうするのだったろう。
薄暗い通路で純の姿は光るようだった。司は一瞬でじとりと湿った手をゆっくりと握り息を吐いた。頭の中で言葉を選ぶ。
「元々、俺には荷が勝ちすぎていたんだ。シニアになったら、もっと強い選手と戦うことになる。コーチとしての経験も能力も俺には足りない。純くんの力を最高の形で伸ばしてくれる人が、きっとほかに……」
ガンと、大きな音が響いた。純のスニーカーが司の足の間から壁を蹴り上げていた。ただ事ではない剣幕に司は声も出ず青ざめた。
「この大会で金メダルをとったら」
純は司のネクタイをつかんだ。純の背はまだ司に追いつかない。首を引かれた司がよろめき、顔が近づく。下から鋭い目で司を睨む。獲物を見るような恐ろしい目だったが、薄く涙が浮いていた。
「僕のにするから」
噛みつくように唇を合わせる。ガチりと音が立ち、司は鼻先に鉄の匂いを感じた。
純は司のネクタイから手を離すと平然とした顔で来た道を戻っていく。残された司は呆然としていたが、アナウンスを聞いて意識を戻した。滑走の時間が近づいている。
リンクサイドの待機場所へ移動する。一つ前の選手が終わり、コーチと共にキスアンドクライへ歩いていく。
純が脱いだジャージを受け取る。スパンコールの散りばめられた黒い衣装は純が着ると星のように光る。前の選手の得点が発表され、観客席から拍手が起こる。
エッジガードを受け取る。リンクにつづく仕切りが開く。純の背中を見つめながら、司は深く呼吸した。あっという間に大きくなった。簡単に抱え上げることが出来た小さな子供はもういない。
時間がやってきた。司はリンクサイドから送り出す言葉をかけた。
いつもの試合前と同じように手をにぎる。ふと、いつもより純の唇が赤いような気がした。血がついている。司は気付かなかったが、司の唇もわずかに切れて血がにじんでいた。
「純さん、口に血がついてる」
「さっきはごめんね」
まわりの音が遠くなる。
「俺こそ、試合前なのにあんな話聞かせて」
「ううん。聞けてよかった」
純の名前がアナウンスされる。さざ波のような拍手が少しずつ大きくなっていく。
純は司の手を強く握った。
「好きだよ、司くん」
司の瞳が大きく揺れた。きらきらと光る。山陰からのぼる朝日のように。夜が明ける。暗い森に朝がやってくる。純の瞳が明けの星のように輝いた。
「僕のこと見て」
滑走後に通路の一角でインタビューを求められる。純はいつも無視して通りすぎるが、今日はパネルの前で足を止めた。離れようとする司の腕をつかみ隣に立たせる。インタビュアーが困惑した顔を司に向ける。
「す、すみません。純さんほら、あっちで待ってるから手を」
純はつかんだ手をもっと強く握った。絶対に離さないという顔で「するならはやくして」という。
無事滑走を終えた今の気持ち、シニアに向けての意気込みはあるかとインタビュアーがマイクを向ける。
純はまっすぐに、カメラではなく司を見た。
「純さん、カメラあっち……」
「司くんがコーチを辞めるなら僕はこの大会でスケートをやめる」
居合わせた人々からどよめきが上がった。何事かと人が集まってくる。司は目を見張り、口を開けたまま動きを止めた。
「ネットで色々言われてるの見た。そのせいで、僕の評価まで落ちるかもしれないって思ったんでしょう。でも、スケーティングもジャンプも、司くんがコーチになってからもっと上手くなったし、司くんがコーチだから、僕はごはんがおいしいと思ったし、毎日が明るくて楽しかった」
一息に言ってから、純は大きく息を吸った。人前でこんなに喋るのははじめてだった。本当は不安で手が震えている。掴んだ司の手があたたかい。この手を離したくない、誰にもとられたくない。名前を書けないのなら、みんなに僕のだと言えばいい。
司の顔がくしゃりと歪んだ。
「……そんな風に、思っていてくれたの」
「うん。司くんが僕のコーチでいてくれるなら、シニアになっても絶対全部金メダルをとってくる。だからずっと僕のコーチでいて」
カメラのシャッター音が響く。向けられるスマートフォンが少しずつ増えていく。
握った手の上に雫が落ちてくる。ぽたぽたと、司が静かに泣いていた。
「これからも僕の司くんでいい?」
「……ずび」
司が鼻をすすりながら頷くと、誰ともなく拍手が起こった。純はそのときはじめてカメラを見た。そして「僕のだから」とだけ言った。インタビューのはじまる前とは打って変わりごきげんになった純が司の手を引き、カメラの前から消えていく。
インタビューが全国放送されると、司に向けられていた悪意はすっかり静かになった。インターネットに出回っていた誹謗中傷も軒並み消えた。そしていくつかあったクラブ移籍の話も「健気な生徒を見捨てて移籍したコーチってちょっと外聞悪いので、すみませんが今回は無かったことに……」と立ち消えになった。
「大変ご迷惑をおかけしました」
「ほんとにどうなることかと思った。これからも純くんのコーチ、お願いね」
瞳が笑顔で司の肩を叩いた。もうすぐ夜の練習がはじまる。
貸し切り時間のリンクに氷の音が響く。軽やかに氷を蹴る音、力強い着氷の音。
司はリンクサイドから純の姿を見つめた。つやつやした黒髪が風を受けて揺れると、耳にはめたイヤホンが見える。星のシールがきらりと光る。大人びた横顔にリンクの白い光が反射している。
唇がちくりと痛んだ。司は唇にそっと触れた。
「……」
またジャンプの音が聞こえる。完璧な着氷をしてステップシークエンスに入る。その間際、純の目が司を見つけた。両手を高くかかげて微笑む。それからずっと終わりまで司へ視線を向けていた。
「今のどうだった」
滑り終えると、飛び込むように司の元にやってくる。鼻の頭に汗を浮かべ、ほめてくれと言うような笑顔で。
司は純の両肩に手をそえ、星のように光る瞳をのぞき込み笑った。
「とっても、よかったよ!」
おわり