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出社してすぐに確認したホワイトボード。彼のスケジュールは、相変わらずびっしりと埋まっていた。
週明けの朝礼だというのに彼の姿がなかったのは、そのためだろう。そのことにがっかりはしたが、どこかほっとしてもいた。補佐への気持ちの芽生えを知ったばかりの今、もしも彼の顔を見てしまったら挙動不審な態度を取ってしまいそうだったからだ。
この気持ちはまだ、誰にも知られないように隠しておきたい――。
そう思いながらも、私の目は毎日彼の姿を探していた。部内のどこかの電話口で「山中」の言葉が聞こえると、そちらが気になって仕方がなかった。さりげなさを装って、不在の彼の席の近くをわざわざ通ってみたりもした。
まるでストーカーみたいだ――。
自分の行動に呆れてしまうくらい、私は彼の気配を恋しく思っていた。
そんなある日、私は気分転換も兼ねて、久しぶりに外で昼食を取ることにした。遼子さんも誘ってみたがお弁当を持参しているというので、今日はお一人様ランチだ。
何を食べようかと、行き先を考えながら歩いていたら、ビルを出た所で宍戸に出くわした。
「岡野!久しぶりだな。もしかして、これから昼飯?」
「えぇ。宍戸もお昼?この時間に会うなんて、珍しいよね」
「今日はたまたまさ」
私たちは他愛のない話をしながら、どちらからともなく歩き出した。
途中で、どうやら彼も私と同じ方向へ行こうとしていると気づく。
「一緒にランチでもする?」
私は彼に声をかけた。
「おう、どこに行く?」
「ほら、あそこ。あの喫茶店に行こうと思ってたんだけど、どう?」
私は目で目的の店を示してみせた。
「あぁ、問題ないな。あそこなら、先輩たちに会うことはなさそうだ」
「会ったら何かまずいことでもあるの?」
宍戸の言葉を不思議に思った私は訊ねた。
彼は軽い口調で答える。
「まずいってわけじゃなくてさ。同期と水入らずの所を、できれば邪魔されたくないな、って思ったからね」
その理由を聞いて私は苦笑する。
「水入らずっていうその表現は何?」
「俺たちは、同期の中でも仲がいい方だからな。そういう感じの意味。とにかく」
自分で言い出したくせに、彼はさっさとこの話を終わらせる。
「急ごうぜ。時間がなくなる」
「そうだね」
店内は混んでいたが、ちょうど出る客がいて、私たちはタイミングよく席に座ることができた。
昼休みは一時間。悩む時間がもったいないと、私たちはそれぞれランチコースを注文する。てきぱきと箸を動かしつつ、時折互いの近況などを話題にしながら食事を進めた。
「ご馳走さまでした。美味しかった」
久しぶりに食べたこの店のランチに満足して、私は食後のコーヒーでひと息つく。コーヒーカップをテーブルに戻した時にふと視線を感じて、顔を上げた。
何か言いたげな顔で、宍戸が私を見ていた。
「何?」
「うん…」
歯切れ悪く、彼は言葉を濁した。
何を言い淀んでいるのか気になったが、彼はなかなか口を開かない。
腕時計を見ると、そろそろ会社に戻った方が良さそうな時間だった。
私は手元にバッグを引き寄せた。
「出ようか。お昼休み、終わっちゃう」
すると、彼はようやく話す気になったらしい。
「あのさ」
「うん?」
「仕事が大変な時は、ちゃんと誰かに言えよ」
私は話が飲み込めず、目を瞬いた。
「急に何?仕事は遼子さんと一緒だし、別に宍戸が心配するようなことはないわよ」
「だって、遼子さんって退職するんだろ。他のみんなにはこれから言うってのが聞こえたけど、岡野は知ってるんだろ。俺は昨日の帰りに、遼子さんが部長と話しているのを偶然聞いてしまってさ。真っ先に、岡野は大丈夫なのか、って」
「ちょっと待って」
私は彼の言葉を遮った。
「遼子さんが退職ってどういうこと?」
宍戸は、しまったという顔をした。
「俺、てっきり……」
「聞いていないよ」
私は呆然とし、ふらふらと立ち上がろうとした。
「落ち着けよ」
宍戸は静かな声で言い、私の手首をそっとつかんだ。
その感触で私は我に返り、椅子にすとんと腰を下ろした。
彼女がいるから、私は毎日安心して仕事に取り組めていた。一人で対応できることが増えたとは言っても、遼子さんがいなくなったら私はどうしたらいいのだろう。いつかはそういう日がやって来るだろうと思ってはいたけれど、まさかこんなに早いとは。心細さと不安で胸が苦しくなった。
「戻る」
短く言って、私は帰り支度を始めた。とにかく、事の真偽を直接本人に確かめたい。
「ランチ代置いていくね。足りなかったら、後で請求して」
私は彼の前に適当にお金を置くと慌ただしく立ち上がり、急いで店を出た。
このフロアにある休憩スペースは、窓が大きく切られている。晴れた日には、遠くに見えるなだらかな山容と青空のコラボレーションがとても美しくて、晴れ晴れとした気持ちになれる。しかし今は夕暮れ時。茜色から群青色へと変わりゆくグラデーションが、空を染めていた。
私はベンチに腰かけて、その色の移ろいをぼんやりと眺めていた。
ついさっきまで、ここで遼子さんと話をしていたのだが、思い出すとため息が出る。
話題はもちろん、彼女の退職のことだった。
本当はランチ後会社に戻ってすぐに、そのことを確かめたかった。しかし、電話が立て続けにかかってきて余裕がなかった。だから私は仕事が終わるまで我慢をし、帰り際に時間を作ってもらえるよう、彼女にお願いしたのだった。
彼女の退職の話は、決定事項だった。その理由が、結婚で遠方に引っ越しというものだったから、納得せざるを得なかった。宍戸経由で知ることになったのは、ただタイミングが悪かっただけ。公にする前に、私には直接伝えるつもりでいたのだと、彼女は言った。
直接言葉を交わすことで、私は彼女の退職を受け入れることができた。本当はやめないでほしいが、仕方のないことなのだと諦めた。ただ、彼女がいなくなってしまうという事実は、私をひどく不安にした。心に大きな穴が開いたようだった。遼子さんは本当に大好きな先輩で、心から頼れる存在だったから。
「――頭では分かっているんだけどね」
私はぽつりとつぶやいた。それがきっかけになって、遼子さんの前では持ちこたえていた涙が、目尻からあふれ出た。
「しっかりしないと」
自分を鼓舞するように、私は両手で軽く頬をはたく。
その時、窓に写り込んだ人影に気がつく。
今の見られたかしら……。
気まずくなって、その場をそそくさと立ち去ろうとした。しかし、目の端に見えたのが宍戸であることに気づき、私は足を止めた。
「宍戸?」
「おう」
彼は短く言って壁に背を預ける。
「遼子さんとは話せたのか?」
「うん、さっき」
「そっか。で、大丈夫なのか」
そう言う宍戸の声音は、よく知る彼と別人のようだ。
もしかして、私を心配してくれているの……?
私はおずおずと宍戸を見た。
「お昼の時はごめんね。変なところを見せてしまって」
「いや、俺の方こそ。余計なことを喋ってしまった、って反省してた」
「宍戸のせいじゃないもの。それに、直接遼子さん本人から聞いたとしても、やっぱり私、あんな風になったと思うから」
「そうか。でも、やっぱり……悪かったな」
そう言うと、彼は自動販売機でコーヒーを二本買って、そのうちの一本を私に差し出した。
「この時間にコーヒー飲むと、眠れなくなるとか言うヒト?」
私は小さく笑いながらそれを受け取った。
「平気。ありがと」
宍戸の携帯が鳴り出した。彼は画面を確かめるとはっとした顔をした。電話に出る前に早口で言う。
「何かあったら、いつでもつき合ってやるからな。……申し訳ございません。大変お待たせいたしました、宍戸です」
普段よりもワントーン上げた柔らかい声で、電話に出た。仕事の内容だったらしく、宍戸は畏まった言葉遣いで対応し始め、私に背を向けて早足で去って行く。
お疲れ様のひと言を言いそびれたと思いながら、私は彼の後ろ姿を見送った。
その日から数日たった週明けの朝礼で、遼子さんの退職が全員に伝えられた。
朝礼が終わると、みんな残念そうな顔をしながら遼子さんの周りに集まった。それぞれが祝福の言葉を投げかけている。
それを見ていたら、彼女の退職が現実であることを改めて実感した。ぐっと込み上げてくるものがあって目尻が濡れそうになる。
そんな私の目が補佐の姿を見つけたのは、自分の席に戻る時だった。彼はみんなから少し離れた場所に立っていた。
今の今まで遼子さんの退職を惜しみ悲しんでいたというのに、現金なことに私はもう胸を高鳴らせていた。補佐の近くに行きたいと思った。けれど私には彼との仕事上の接点がない。気軽にその側には行けない。私はもどかしい気持ちをもて余しながら補佐を遠目に眺めていたが、ふと気づいた。
どうしてそんな目で遼子さんを見ているのですか――。
憂いを帯びた補佐の表情に、私の胸はざわめいた。