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週明けて出社してすぐに、みなみはホワイトボードを確認した。
山中のスケジュール欄は、相変わらず今日もびっしりと埋まっていた。すでに朝から彼の姿がなかったのは、多忙だからだろう。
みなみは彼の不在にがっかりしたが、一方ではほっとしていた。山中への気持ちの芽生えに気づいたばかりだったからだ。今、彼の顔を見てしまったら、挙動不審な態度を取ってしまうに違いない。
この気持ちはまだ隠しておきたいと思いながらも、みなみの目は翌日以降も毎日のように彼の姿を探した。フロアのどこかで「山中」の言葉が聞こえると、そちらが気になって仕方がなかった。さりげなさを装って、不在の彼の席の近くをわざわざ通ってみたりもした。まるでストーカーのようだと自分の行動に呆れてしまうくらい、みなみは彼の気配が恋しかった。
そんなある日、みなみは久しぶりに外で昼食を取ることにした。
さて何を食べようかと考えながら歩いていると、ビルを出た所で宍戸に出くわす。
「岡野!久しぶりだな。もしかして、これから昼飯?」
「えぇ。宍戸もお昼?この時間に会うなんて、珍しいよね」
「今日はたまたまさ」
他愛のない話をしながら、二人はどちらからともなく並んで歩き出した。
どうやら宍戸が向かう先も同じらしいことに気づき、みなみは彼に訊ねる。
「ランチ、一緒にする?」
「いいのか?なら、どこに行く?」
「あの喫茶店はどう?」
みなみの目線を辿り、宍戸は頷く。
「いいよ。あそこなら、先輩たちに会うことはなさそうだし」
「会ったら何かまずいことでもあるの?」
「まずいってわけじゃなくて、同期と水入らずの所を、できれば邪魔されたくないな、ってこと」
理由を聞いてみなみは苦笑する。
「水入らずっていうその表現は何?」
「俺たちは、同期の中でも仲がいい方だからな。そういう感じの意味さ。ま、とにかく」
宍戸はこの話をさっさと終わらせるかのように、足を速める。
「急ごうぜ。時間がなくなる」
「そ、そうだね」
到着した目的の店は混んでいた。
しかしタイミングよく出る客がいて、二人は無事に席に着くことができた。昼休みは一時間。悩む時間がもったいないと、共にランチコースを注文する。てきぱきと箸を動かしつつ、時折互いの近況などを話題にしながら食事を進めた。
「ご馳走さまでした。美味しかった」
食後にコーヒーを飲んでいる時、みなみは視線を感じて顔を上げた。宍戸が何か言いたげな顔で見ている。
「どうかした?」
「うん……」
宍戸は歯切れ悪く言葉を濁す。
なぜ言い淀んでいるのか追及したいところだったが、そろそろ会社に戻った方が良さそうな時間だ。みなみは手元にバッグを引き寄せた。
「出ようか。お昼休み、終わっちゃう」
すると、宍戸はようやく話す気になったらしく、おもむろに口を開いた。
「あのさ、仕事が大変な時は、ちゃんと誰かに言えよ」
みなみは話が飲み込めず、首を傾げた。
「急に何?仕事は遼子さんと一緒だし、別に宍戸が心配するようなことはないわよ」
「だって、遼子さんって退職するんだろ。他のみんなにはこれから言うみたいだったけど、岡野はもう知ってるんだよな?昨日の帰りに、遼子さんが部長と話しているのを偶然聞いてしまったんだよ。で、それを聞いた時、真っ先に、岡野は大丈夫なのか、って思ってさ」
「ちょっと待って」
みなみは宍戸の言葉を遮った。
「遼子さんが退職ってどういうこと?」
宍戸は目を見開いた。
「あれ?まだ聞いてなかったのか?」
「聞いてない……」
みなみは呆然とした。遼子がいなくなったら、自分はどうしたらいいのかと、心細さと不安で胸が苦しくなる。毎日安心して仕事に取り組めているのは、彼女が傍にいてくれるからだ。いつかはそういう日がやって来るだろうと思ってはいた。しかし、その日がこんなにも早く訪れるとは思っていなかったために、心が追い付かない。すぐにも事の真偽を確かめなくてはと、みなみは慌ただしく帰り支度を始めた。
「先に戻るわ。ランチ代置いていくね。足りなかったら、後で請求して」
「あ、あぁ……」
宍戸の困惑した声を背に、みなみは急いで店を出た。
それから数時間後。
今日一日の業務を終えたみなみは、休憩スペースのベンチに腰かけて、群青色に変わりつつある空をぼんやりと眺めていた。
ついさっきまで、みなみはここで遼子と話をしていた。話題はもちろん、彼女の退職についてだ。
本当はランチから戻ってすぐ、遼子に確かめるつもりでいた。ところが今日に限って電話が立て続けに鳴り、その対応に追われることになってしまった。そのため遼子と話ができたのは、互いの業務が終わってからだった。
遼子の退職は決定事項だった。結婚で遠方に引っ越すためという理由だったから、納得せざるを得なかった。
宍戸に聞かれてしまったことを油断したと苦笑した後、彼女は申し訳なさそうに言った。
「公にする前に、岡野さんには直接伝えるつもりでいたのよ」
それを疑うつもりはなかったし、遼子と直接言葉を交わしたことで、みなみは彼女の退職をなんとか受け入れることができた。とはいえ、彼女がいなくなる近い未来を不安に思うことに変わりはない。みなみにとって遼子は大好きな先輩であり、心から頼れる存在だったのだ。
「頭では分かっているんだけどね」
みなみはぽつりとつぶやいた。それがきっかけとなり、遼子の前ではずっとこらえていた涙があふれ出してしまう。
「しっかりしないと」
自らを鼓舞するように、みなみは両手で頬を軽くはたく。
その時、人影が窓に写り込んだ。
今の様子を見られてしまっただろうかと、みなみは気まずい思いでベンチから立ち上がった。早くこの場から立ち去ろうとして、その人影の本体が宍戸であることに気づく。
「宍戸?」
「……おう」
彼は短く答えて壁に背を預けた。
「遼子さんとは話せたのか?」
「うん、さっき」
「そっか。それで?大丈夫なのか」
宍戸の声音が優しく響く。そのことに戸惑いながら、みなみは彼を見た。
「お昼の時はごめんね。先に帰っちゃって」
「いや、そんなのは全然いいよ。それより俺の方こそ、余計なことを喋って、動揺させて悪かったな」
「宍戸のせいじゃないから」
「うん、それでもやっぱり、悪かった」
言い終えてから宍戸は自動販売機で缶コーヒーを二本買い、そのうちの一本をみなみに差し出す。
「この時間にコーヒー飲むと、眠れなくなるとか言うヒト?」
みなみは小さく笑いながらそれを受け取った。
「平気。ありがと」
宍戸の携帯が鳴り出した。画面を確かめた途端、彼の表情が引き締まった。彼は電話に出る前に早口で言う。
「何かあったら、いつでもつき合ってやるからな。……申し訳ございません。大変お待たせいたしました、宍戸です」
普段よりもワントーンほど調子を上げた柔らかい声で、宍戸は電話に出た。仕事の話だったらしく、畏まった言葉遣いで対応を始めた。ちらりとみなみに視線を飛ばした後は、通話に集中したままオフィスのある方へ去って行った。
それから数日が過ぎた週明けの朝礼で、遼子の退職が部内中に伝えられた。
朝礼後には、遼子の周りに皆が集まった。それぞれに祝福の言葉を投げかけている。
彼女を囲む輪を眺めていたみなみは、胸がいっぱいになった。皆に惜しまれる遼子の姿を目にして、彼女の退職は確かに現実のことなのだと改めて実感したのだ。目尻に涙がにじむ。それを指先で拭った時、山中の姿がふと目に飛び込んできた。瞬時にして、みなみの胸は高鳴った。
山中は皆から離れた場所に立っていた。
その姿をこっそり眺めていたみなみだったが、あることに気がついた。
どうしてあなたはそんな目をして、遼子さんを見ているのですか――。
憂いを帯びた山中の表情に、みなみの心は落ち着きをなくした。