この作品はいかがでしたか?
22
この作品はいかがでしたか?
22
今月は規模の大きな会議が予定されていて、事務方の私たちも含めてその準備のために連日残業が続いていた。
ようやく資料用のデータが出そろったのは、会議の前日。私は、コピーとそれを取りまとめる作業を任された。
けっこうなコピー量になりそうだったが、作業自体は単純だし会社のコピー機は性能もいい。久しぶりに今日は早く帰れるかもしれないと、小さな期待を抱いた。
データを出力しようとして、私はコピー用紙の在庫がふと気になった。
途中で足りなくなったら面倒だ。念のため、少し余分に準備しておこう。
そう思った私は台車を引っ張って、同じフロアの最も奥まった場所にある、みんなが「倉庫」と呼ぶ部屋へ向かった。
分厚い自動ドアを入るとまた扉があって、そこを入ってすぐの棚に文具や資材などの在庫が置かれている。さらに奥にも扉があって、その向こう側には過去の資料や書類が保管されていた。
足を踏み入れた倉庫の中は、しんとしていた。床一面には靴音さえも吸収する毛足の短いカーペットが敷かれていて、人の気配が感じられない倉庫の中は静かすぎるほど静かだった。その静寂に声を出すのがなんとなくはばかられて、私は心の中でつぶやきながら目的の棚を探す。
A4のコピー用紙は……。見つけた。
それは一番奥にあった。
台車を近くまで寄せようと考えた私は、一度扉の所まで戻ろうとした。その時微かに話し声が聞こえて、反射的に背後を振り返る。
誰かが入ってきた様子はなかったと思う。これだけ静かなのだから気配に気づかないわけはない。ここはフロアの廊下のいちばん奥まった場所にあって、基本的には用事がある人くらいしか来ない。そして今、この部屋にいるのは私だけのはずだ。と、そこまで考えてはっとした。
もしかして、先客がいた?
私は息を殺して、耳に神経を集中させた。すると、奥の部屋の方でぼそぼそと話し声がしていることに気がついた。それはおそらく、男性と女性の二人。
ひと気のないこの場所で、一体どんな話をしているのだろうと気になった。しかし、この場を早々に離れた方が良さそうだと思った。こういうシチュエーションすべてがそうではないだろうが、もしも人目を忍ぶような場面に遭遇したのだとしたら、見ざる聞かざるがきっと正しい。
私はできるだけ静かに注意深く、そろそろとコピー用紙の箱を台車まで運んだ。数回往復し、無事に最後の箱に手を伸ばした時だった。
私のいる方へ移動したのか、彼らの声が先ほどよりもはっきりと聞こえた。そして、その声に、言葉に、私はその場で固まった。
「遼子さん、ご結婚おめでとうございます」
遼子さんの声は言った。
「ありがとう、山中君」
山中「くん」――?
鼓動が小刻みに鳴り出した。胸を押さえながら息を殺し、私は壁にピタリと体を寄せた。
穏やかな声は言う。
「遼子さんのその相手が、俺じゃなかったのがとても残念です」
それを聞いた瞬間に、あの夜のことを理解した。やっぱり補佐がつぶやいた名前の持ち主は遼子さんだったのか、とすとんと腑に落ちた。
遼子さんは結婚が決まっている。それなのに、補佐は今どんな気持ちで彼女の前にいるのだろう。未練を持って?それとも、気持ちに区切りをつけたいがため?一方の遼子さんはどうなのだ。補佐の気持ちを知っていたのだろうか。
この先二人の間に進展があるとは思わない。けれど、補佐への想いを自覚したばかりの私の心は穏やかではなかった。
補佐に思われている遼子さんが羨ましかった。なんの取り柄もない私なんかが彼の目に留まる日は、半永久的に来ないのではないかと思えてしまう。
私は壁に背を預けて、薄暗い天井を見上げた。頭の中に渦巻く色んな思いを封じ込めたくて、ギュッと目を瞑った。
早く仕事に戻らなければ――。
そうは思うが、足がなかなか動かない。
そんな時、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「岡野、いるのか?」
飛び上がりそうになるほど驚いて、私はその声の方へ顔を向けた。
「宍戸……」
どんな反応をすべきかすぐに判断できず、私は無言のまま彼を見た。
「なかなか戻ってこないから、様子を見に来たんだけど。どうかしたのか」
そう言いながら、宍戸は私の方へ歩いてきた。
今の声は隣の部屋まで届いたに違いない。そしてそのことで、私がここにいるということは間違いなく知られてしまっただろう。けれど、だからといって開き直り、言葉を発する勇気はない。
私は黙って首を横に振り、何も問題がないことを伝えようとした。それから、淡々とした表情を作って宍戸を手招きし、棚の下の方を指さして囁くように言った。
「これを運んだら、戻るつもりだったの。来てくれてちょうど良かった」
宍戸は私につられたように、小声で不思議そうに訊ねる。
「どうかしたのか、声」
「なんでもない。気にしないで」
やはり小声で、しかし早口で私は言った。早くここから出なくてはと焦る。
「それよりも、これ運んでもらってもいい?」
「ふぅん…」
彼は怪訝な顔で私を見たが、何も言わずにひょいと箱を持ち上げた。
「あとは戻るんだな?」
「えぇ」
「なら行くか」
「ありがとう」
宍戸はまだ小声のままの私をちらと見たが、黙って台車に箱を積む。それを押して倉庫を出た。
「あ、私が」
「いいよ。もともと手伝うつもりで来たんだ。結局ひと箱しか運んでないし、これくらいはやらせてくれよ」
背中で自動扉が閉まる音を聞いて、ようやく体の緊張が解けた。私はほっとして、宍戸に改めて礼を言った。
「ありがとう。手伝いにきてくれて」
彼は苦笑した。
「たいした手伝いにもならなかったけどな」
「そんなことないわよ。お礼は缶コーヒーでいい?」
「無糖な」
私はくすっと笑い声をこぼした。
それを見て、彼はにっと笑う。
「やっと戻ったな」
「何が?」
私は宍戸の横顔を見上げたが、彼は何も答えず微笑んだだけだった。
この同期は気づいていたのだろうか。私の様子に、倉庫の空気に。
重い気分で私は台車のきしむ音と一緒に廊下を戻る。
山中補佐に会うことはほとんどないだろうから、まだいいのだけれど……。この後、遼子さんの前でどんな顔をしていればいいのだろう――。
鬱々とそんなことを考えているうちに、宍戸はコピー機の傍まで台車を寄せて次々と箱を下ろしてくれた。
「それくらいは私がやったのに」
「力のある方がやれば早いだろ」
「ごめんね、ありがとう。助かった」
私は宍戸に礼を言って、台車を元の場所に戻しに行こうとした。そこでふと思い出し、足を止めた。
「ねぇ、そう言えば、どうして手伝いに来てくれたの?倉庫に行くって周りの人たちにしか言ってなかったと思うんだけど……」
「あぁ、それは」
宍戸は一瞬、宙を見つめた。
「偶然見かけたから。台車引っ張ってたから、もしかしてと思って、そっちの部署の人に聞いたんだよ」
私は納得し、なるほどと頷いた。
「そうだったのね。本当にありがとう」
「そこまで感謝されるようなこと、特に何もしてないけど」
「うん、でも」
と、私は宍戸に笑顔を向けた。
「ありがとう、なの」
あの時宍戸に声をかけられて、隣の部屋の二人にばれた、まずい、としか思わなかった。でも今こうやって落ち着いて考えてみると、逆に宍戸が現れてくれてよかったかもしれないと思う。もしもあのままあの場から動けないでいたら、あれ以上のつらい現実を知ることになったかもしれない――。
「それなら良かったけどさ」
宍戸は私の顔をまじまじと見つめている。
「なに?」
怪訝に思って私は宍戸の顔を覗き込んだ。
宍戸ははっとした顔をして、何度か瞬きをした。
「いや、なんでもない。……えぇと、コピー頑張れよ」
「うん、宍戸も頑張ってね」
「あぁ。じゃあな」
宍戸はそれだけを言うとふいっと顔を背けて、そのまま振り返ることなく仕事に戻って行った。
その後ろ姿を見送って私は首を傾げた。
「気のせいかな。なんだか急に態度が変わったような……。私、何か変なことでも言った?」
その後、私は二台あるうちのコピー機一台を占領した。思っていたよりも長時間、資料が吐き出されるのをひたすら見守り続ける。印刷された大量の紙を、用意していた段ボール箱二つに分けて入れ、フロアの端の方に移動した。そこにある作業用テーブルの上に資料を並べてから、別添え用の資料をクリップで止めるという地味な作業に黙々と取り組んだ。
「やっと終わった……」
ひとり言を言いながら窓の外を見ると、すでに真っ暗だった。
早く帰れると思ったんだけど、甘かったな……。
やれやれと思いながら見上げた壁の時計は、間もなく八時になるところだった。
自分の席の辺りに目をやると、遼子さんと先輩数人の姿が見えた。作業に集中していて気がつかなかったが、その他の女子社員たちはすでに帰ってしまったようだ。営業職たちはまだ大半が外出中らしく、席のほとんどが空いている。
補佐はどうだろうかと気になって、私はホワイトボードの彼のスケジュールに視線を飛ばした。枠内はびっしりと文字で埋まっていて、帰社予定時刻の所には「直帰」と書かれていた。
私は怪訝に思った。彼のスケジュールの中に、一度会社に戻ってくるような予定の記載が見当たらなかったのだ。私が倉庫に行った時、そこには彼がいたはずだ。どういうことなのか気になってしまう。
たまたま途中で戻って来て、たまたま資料室に行き、たまたま遼子さんに会ったのか。そしてその後、再び外出したとでも?あるいは二人で密かに会う約束をしてあって、そのためにこっそり戻って来たとか――。
ただの妄想だと分かっていながらも想像は止まらず、私の気持ちは乱れた。放っておいたらますます暴走しそうなその妄想にブレーキをかけたのは、遼子さんの声だった。私の様子を見に来てくれたらしい。
「岡野さん、大丈夫?手伝いましょうか?」
はっと我に返った私は、どもりがちに答えた。
「お、お疲れ様です。えぇっと、今ちょうど出来上がったところです」
「あら……もう少しかかるのかと思ったのに。大変だったでしょ。お疲れ様」
「いえ、そんな……」
私はわずかに目を伏せた。いつもと変わらない遼子さんの笑顔を今は直視できない。
「それじゃあ、課長に報告して大丈夫なら、今日はもう帰りましょ」
「はい」
私はテーブルの上を片づけると、段ボールの箱2つに資料を移し替えた。
「一つ持つわ」
そう言って遼子さんは箱を持ち上げる。
「行きましょ」
笑顔で私をそう促してから、遼子さんは付け加えた。
「この後食事でもどうかしら?」
私はどきりとした。いつもであればふたつ返事で頷くのだが、今日の私は返事をするのに少しだけ時間がかかってしまう。
「えぇと、そうですね……」
しかし、結局迷ったのはほんの数秒だけ。いい機会かもしれないと考えた。一人でぐるぐる考えて迷路にはまり込んでしまうよりは、この際遼子さんに直接ぶつかって見た方がずっといいと思った。
「また今度にしましょうか?」
遼子さんは気遣うようにそう言った。
しかし私は頭を振って、彼女を真っすぐに見た。
「いいえ。ぜひ、ご一緒させて下さい」
そう言って浮かべた私の笑顔は、少し強張っていただろう。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!