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今月は規模の大きい会議が予定されている。
その準備のため、事務方のみなみたちも駆り出されており、おかげで連日のように残業が続いていた。
ようやく資料用のデータが出そろったのは、会議の前日。それを出力してコピーを取り、最終的に資料の体裁に整えるという作業を、みなみは任されていた。
作業自体は単純で、会社のコピー機は性能もいい。久しぶりに今日は早く帰れるかもしれないと、みなみは小さな期待を抱きながら作業に取り掛かった。しかし、データを出力する段になって、コピー用紙が足りるかどうかが気になった。途中で足りなくなったら面倒だからと、念のために余分に準備しておくことにする。みなみは台車を引っ張って、皆が「倉庫」と呼ぶ部屋へと向かった。
そこはオフィスと同じフロアの最も奥まった場所にある。分厚い自動ドアを入ると扉があって、そこを入ってすぐの所に文房具や資材などの在庫分が置かれている。さらに奥にもう一枚扉があり、その向こう側には過去の資料類などが保管されていた。
足を踏み入れた倉庫の中は、しんとしていた。床一面に毛足の短いカーペットが敷かれていて、靴の音を吸収する。そのせいもあって、人の気配が感じられない倉庫の中は静かすぎるほど静かだった。
みなみは辺りにきょろきょろと目をやりながら、目的のA4サイズのコピー用紙を探した。それは一番奥にあった。台車を近くまで寄せようと考えて、扉の所まで戻ろうとした。その時微かな話し声に気づき、反射的に背後を振り返った。しかし誰もいない。今ここにいるのは自分だけのはずだったが、もしや先客でもいたのかとみなみは息をひそめ、耳に神経を集中させた。
ぼそぼそとした話し声は、奥の部屋の方から聞こえてくる。それらは男性と女性のもののようだ。
一体何を話しているのか気にはなったが、早々にこの場から離れた方が良さそうだと判断する。まさかそんなことはないだろうがと思いつつも、万が一にも人目を忍ぶ場面だとしたら、このままそっとしておいた方がいいだろうなどと気を回した。
みなみは可能な限り静かに注意深く、重いコピー用紙の箱を台車まで運んだ。数回往復して、無事に最後の箱に手を伸ばした時だった。
みなみがいる側に移動したのか、彼らの声が先ほどよりもさらにはっきりと聞こえる。その声にみなみはその場で固まってしまった。
「遼子さん、ご結婚おめでとうございます」
女性の声が応える。
「ありがとう、山中君」
鼓動が小刻みに震え出し、みなみは胸を押さえながら息を殺した。もっとよく聞こえるようにと、半ば衝動的に壁にピタリと体を寄せる。
男性の声が穏やかに言う。
「遼子さんのその相手が、俺じゃなかったのがとても残念です」
その言葉を聞いた瞬間、みなみは「あの夜」のことを思い出し、そして理解する。山中の唇が刻んだ名前の持ち主はやはり遼子だったのかと、すとんと腑に落ちたような気がした。
この先二人の間に進展があるとは思わないが、山中への想いを自覚したばかりのみなみの心中は穏やかではない。彼に想われている遼子が羨ましかった。そんな彼女と比べて自分には何の取り柄もないと思うと、今後彼の目に留まることは恐らくないに等しい。暗い気持ちになり、みなみは壁に背を預けて薄暗い天井を見上げた。これ以上頭の中に様々な思いが渦巻くのを拒否するかのように、ギュッと目を瞑る。
早く仕事に戻ろうと気を取り直した時、みなみの名を呼ぶ者がいた。
「岡野、いるか?」
宍戸だった。
「手伝おうと思って来たんだけど」
彼は言いながら、はらはらしているみなみの傍までやって来た。
宍戸の声は隣の部屋まで届いただろう。それによって、みなみがここにいることは知られてしまったはずだ。
しかし、それならばと開き直って声を発する勇気はない。みなみは宍戸を手招きして棚の下の方を指さし、彼の耳に囁いた。
「これを運んだら、戻るつもりだったの。来てくれてちょうど良かった」
宍戸はみなみにつられたように、小声で不思議そうに訊ねる。
「どうかしたのか、声」
やはり小声で、しかし早口でみなみは答える。
「なんでもない。気にしないで。それよりも、これ、運んでもらってもいい?」
宍戸は怪訝な顔でみなみを見てから、箱をひょいと持ち上げた。
「これだけでいいのか?」
「えぇ」
「ふぅん。じゃあ、行くか」
「うん」
小声のままのみなみを、宍戸は不思議な顔をしてちらりと見た。しかし何も問うことなく台車に箱を積み、それを押して倉庫を出た。
自動扉が閉まる音を背中で聞いて、ようやくみなみはほっとした。それから、いつもの口調に戻って宍戸に言う。
「私が押すわ」
「いいよ。手伝うとか言ったくせに結局はひと箱しか運んでないし、これくらいはやるよ」
「いいの?ありがとう。お礼は缶コーヒーでいい?」
「無糖な」
「分かった」
頷くみなみに宍戸がぼそりと訊ねる。
「なぁ、大丈夫か」
みなみは弾かれたように宍戸の横顔を見上げた。この同期に何か気づかれてしまったのだろうかと、落ち着かなくなる。それを隠してあえて明るい口調で訊き返す。
「何が?」
「いや、なんでもない」
宍戸は首を横に振り、ぐっと台車を押した。
「コピー、今日中なんだろ。行くぞ」
「うん」
宍戸に促された格好になって、みなみは彼と一緒にオフィスへと戻った。
コピー機の傍まで台車を寄せた宍戸は、次々と箱を下ろし始める。
みなみも急いで箱に手を伸ばした。
しかしその必要はないままに、宍戸はあっという間に作業を終えてしまった。
「ありがとう。ごめんね。助かったわ」
宍戸に礼を言ってから、みなみはふとあることが気になった。
「さっき、どうして手伝いに来てくれたの?倉庫に行くことは、うちの課の周りにしか言ってなかったはずなんだけど」
「台車を引っ張ってる岡野を偶然見かけたんだ。それで、もしかしてと思って、そっちの課の人に聞いたんだよ」
「そうだったのね。ありがとう」
宍戸は肩をすくめる。
「そんなに何回もありがとうって言われるほど、たいしたことは何もしてないよ」
「それでもやっぱり、ありがとう、よ」
みなみは宍戸に笑顔を向けたが、彼にまじまじと見つめられて怪訝に思う。
「なに?」
「いや、なんでもない。……えぇと、コピー頑張れよ」
「うん、宍戸も頑張って」
「あぁ。じゃあな」
どこかぎこちない笑顔を残して、宍戸は仕事に戻って行った。
その背中を見送ってから、みなみは早速作業を開始した。二台あるコピー機のうちの一台を占領して、資料がはき出されるのをひたすら見守り続けた。印刷された大量の紙を、用意していた二つの段ボール箱に分けて入れ、フロアの端っこに移動する。そこにある作業用テーブルで、冊子状にした資料に別紙をクリップで留めるという地味な作業を黙々とこなした。
「やっと終わった……」
窓の外はすでに真っ暗だった。壁掛け時計の針は、間もなく八時を指すところだ。
自分の席に目をやると、その辺りには遼子の他に先輩数人がいた。彼女たち以外の女子社員たちは、もう帰ったようだ。営業職たちについては、その大半がまだ外出中らしく、席のほとんどが空いている。
では山中はどうかと、みなみはホワイトボードに視線を飛ばした。
彼のスケジュール欄は、相変わらずびっしりと埋まっていた。帰社予定時刻の枠には「直帰」と書かれている。
みなみはそれを訝しく思った。彼のスケジュールの中に、一度会社に戻るような予定は記載されていない。それなのに、倉庫には彼がいた。いったい何故なのかと気になった。
たまたま途中で戻って来て、たまたま資料室に行き、たまたま遼子に会ったのだろうか。その後、再び外出したということか?あるいは、二人で密かに会う約束を取り付けてあって、そのためにこっそり戻って来たとでもいうのだろうか――。
そんなわけはないと思いながらも、妄想はなかなか止まらない。そこにブレーキをかけたのは、遼子の声だった。
「岡野さん、大丈夫?手伝いましょうか?」
はっと我に返ったみなみは、言葉に詰まりながら答える。
「お、お疲れ様です。えぇと、今ちょうど出来上がったところです」
「あら、もう少しかかるかと思っていたのに。大変だったでしょ。お疲れ様」
「いえ……」
みなみは遼子から視線を逸らす。普段と変わらない彼女の笑顔を直視できない。
「課長に報告してオッケーもらったら、あとは帰りましょ」
「はい」
みなみはできあがった資料を段ボール箱二つに分けて入れた。
遼子は箱の一つを両手で持ち上げ、笑顔でみなみを促す。
「一つ持つわ。行きましょうか」
ところで、と付け加える。
「この後食事でもどう?」
「えぇと、そうですね……」
みなみは目を泳がせた。しかし結局迷ったのはほんの数秒だけで、これはいい機会かもしれないと考えた。一人で考え込んでいるよりは、直接遼子に疑問をぶつけた方がずっといい。
「ぜひ、ご一緒させて下さい」
みなみが遼子に向けた笑顔は強張っていた。