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その日は、冬入りを体感できるような冷え込みを記録していた。
マフラーも意気揚々と活躍するようになってきた寒空の下。
法雨は、やや早足気味に、自身が経営するバーへと向かっていた。
(寒空の下に長居は無用!)
店主であるからには、風邪で店を休むなどというわけにはいかない。
そんな法雨は、
(早くお店で暖まりましょ……)
と、一刻でも早く店内に入るべく、足早に店の裏手へと入っていった。
すると、法雨はそこで、とあるものを見つけ、しばし眉を上げた。
そして、ひとつ溜め息を吐くと、呆れたようでありながらも優し気な笑顔で言った。
「やぁねぇ。まったく……。――ま~た子猫ちゃんなの?」
そんな法雨は、腰に手をやりながら、続ける。
「入りなさい。――きんきんに冷えた子猫ちゃんには、ホットミルクが一番よ。――そうでしょ? ――桔流君?」
― Drop.016『 LemonJuice〈Ⅰ〉』―
“子猫ちゃん”――こと、桔流は、店内のソファ席に座らされるなり、法雨から何枚ものブランケットを放り投げられ、その名の通り――洗濯物で遊びまわった子猫のようになっていた。
「み、法雨さん……。こんなに貰わなくても大丈夫ですって」
そのブランケットの猛攻に、桔流は思わず何枚かを返そうとした。
だが、法雨は、それをぴしゃりと制する。
「だめよ。冷えを侮ると痛い目見るんだから。お店の中が暖まるまではくるまってなさい。――どうせ、一晩中あそこで座ってたんでしょう? ――こんなに冷えて……」
そんな法雨は、店内の空調を調整し終えると、桔流の前にやってきては、その両手で桔流の頬を優しく包んだ。
桔流は、その温もりと、その優しげな声色で、心がほどけるのを感じた。
(結局。――また……頼っちゃったな……)
桔流は、その温もりに、ふと、幾年か前の事を思い出した。
桔流が、こうして法雨に救ってもらったのは、これが初めてではない。
そんな桔流はふと、以前に姫が言っていた言葉を思い出した。
――法雨さんが居たから、今。笑ってられるんだよね。
(……そう……なんだよな)
実のところ、この法雨が経営するバーで、法雨の存在が救いになったのは、この店の客達だけではない。
この店のスタッフの多くもまた、同じだった。
そして、桔流も、そうして法雨に救われた一人だ。
だが、まさか、二度救ってもらう事になるとは、思っていなかった。
そんな桔流は、そのような流れになってしまった事を、改めて情けなく思った。
その中、法雨は言った。
「桔流君。前も言ったけど、アナタはちょっと、ヤケになりすぎるところがあるわ。――帰る家もあるのに、あんな所に居ちゃだめでしょ?」
「……すいません」
ヤケを起こし、自分だけが苦しみ、痛みを被るなら構わない。
だが、今回は、そのヤケで、結果的には法雨に迷惑をかけてしまった。
桔流は、法雨の言葉を胸に、改めて反省した。
そんな桔流に、法雨はひとつ苦笑すると、少し悪戯っぽく言った。
「ま。家に帰って一人を実感するのが怖かった――ってとこかしら?」
「………………」
その法雨の推察は、まさに図星であった。
一人暮らしの桔流は、家に帰れば、文字通り“一人きり”になる。
だからこそ、桔流は、“外”に居たかった。
外に居れば、少なくともそこは、“他の誰かと共有している空間”という認識から、一人よりは大いに気が楽だったのだ。
さらに、この店のそばに居られれば、なお安心できた。
この店には、法雨をはじめ、この店で働く同僚達が居る。
桔流にとって、この店は、酷く温かい、もうひとつの“帰る場所”だった。
だからこそ桔流は、昨晩。
今は誰も居ないと分かっていても、縋るように、この店に来てしまったのだ。
だが、だからといって、法雨は、凍え死ぬかもしれないようなヤケを起こす事を、よしとはしなかった。
そんな法雨は、桔流に言う。
「――前にも言ったでしょ? 独りがヤな時は、まずアタシに連絡なさい。――連絡さえしてくれれば、熱く抱かれてる途中でも、すぐに来てあげるわ」
その法雨に、――本来ならば、素直に礼を言うべきところだが、後半の言葉が気になりすぎてしまった桔流は、ぎこちなく言った。
「え。い、いや。――そこまではちょっと……」
すると、その応答に満足そうにした法雨は、ひとつ笑った。
そんな法雨が、再び桔流の両頬をその手で温め、目元を撫でながら、
「ふふ。少しだけど、顔色良くなってきたわね。――まったく。イケメンがこんなに目腫らすほど悲しい目に遭うなんて駄目よ。――イケメンっていうのはね、ベッドの中で攻められてる時にだけ啼くので十分なの。――分かった?」
と言うと、やはり後半が気になってしまった桔流は、次に黙した。
「………………」
法雨は、それに、半目がちに迫る。
「そこはハイって言いなさい」
「ハ、ハイ」
そして、桔流が素直に従うと、法雨はまた満足そうに微笑み、安心したような面持ちで、桔流の頭を撫で、言った。
「さて。――それじゃあ、今からホットミルク作ってきてあげるから、それ飲んで体の中も温めなさい。――甘いものは心の栄養よ」
桔流は、それに素直に頷く。
「はい。――ありがとうございます」
そんな桔流に、法雨はにこりと笑う。
「いいえ。――じゃ、ちょっと待っててちょうだい」
「はい」
そうして、その場から法雨が離れると、桔流は、法雨の手の温もりの余韻を感じながら、やわらかなブランケット達で、その身を温めた。
💎
「――そう……」
法雨は、温かい紅茶に口を付けながら、桔流の隣に腰かけ、静かに言った。
桔流は、法雨お手製のホットミルクが入ったマグカップで手を温めながら、黙して頷いた。
桔流は、昨日の花厳との出来事を、法雨へと打ち明ける事にした。
そして、一通りの話を聞き終えると、法雨は、しばし考えるようにしてから言った。
「――そうねぇ。――その感じなら、アタシとしては、アナタの“早とちり”に賭けたいけれど……。――とはいえ、“あの時”と同じ物を出してくるっていうのは、どちらにしても無神経ね」
「………………です、かね……」
そんな法雨に、桔流が迷いながら言うと、法雨はひとつ苦笑し、言った。
「えぇ。無神経よ。――でも、無神経かどうか、というのは、今はどうでもいい事ね。――それより大事なのは、アナタがどうしたいか、だわ」
「どう……したいか……」
「そう」
法雨は、深く頷く。
「アナタが何かアクションを起こしたいなら起こしたらいいわ。――でも、アナタから何かしたいと思わないなら、このまま待ってみたらどうかしら。――前にも言ったでしょ? ――人はね、本当に大切なものであれば、何があっても必ず取り戻しに来るものなの。――アタシ、花厳さんは、特にそういうタイプだと思うわ。――だから、桔流君。――花厳さんがアナタを取り戻しい来る前に、アナタも、花厳さんは本当にアナタが身を委ねてもいい人なのか、――これを機に、少し考えてみたら?」
その法雨の言葉を、桔流はゆっくりと復唱する。
「“考える”……」
法雨はそれに、またひとつ頷き、続ける。
「そう。――それに、これを機に、花厳さんがアナタをどこまで想っているのかも、ちゃんと知る事ができると思うわ。――そして、アナタはアナタで、こうして離れていても、アナタもちゃんと、花厳さんの事を想い続けられるのか。アナタが花厳さんをどれくらい好きなのか。――それも確かめてみなさい。――で、その中で、どうしても自分から動きたくなった時には、アナタから動いてみたらいいわ。――ね」
そんな法雨の言葉に、桔流はゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
すると、法雨はひとつ、桔流の頭を優しく撫でた。
💎
それから、数日が経過したとある日。
桔流のスマートフォンに、花厳から、謝罪のメッセージが届いた。
しかし、そのメッセージを最後まで読み通しこそしたものの、桔流がそれに返信を打つ事はなかった。
それは、決して、その謝罪内容が不満だったからではない。
また、花厳に怒りを感じているから、というわけでもない。
ただ単純に、何故だか、返信をする気になれなかったのだ。
返信をしなかった理由は、ただ、それだけであった。
そして、そんな謝罪文を受け取って以降は、花厳からも、新たなメッセージが送られてくる事はなかった。
もちろん、店に姿を見せる事もなかった。
その中、桔流はふと、
(もう、忘れよう)
と、思うようになった。
このまま、自分が何もしなければ、花厳はきっと、また別の人を好きになる。
花厳が、前の恋人の次に、自分を好きになったように――。
(だから、ゆっくりでも、忘れていこう。――すぐには忘れられなくても、時間が経てば、ちゃんと忘れていけるはずだ)
何より、花厳も、自分のような変わり者の相手をするより、普通に恋ができる相手と結ばれた方が良いに決まっている。
(だから、花厳さんとは、もうこれきりで――)
そして、考えを転じ、ひとつの結論に至った桔流は、その日から、花厳の事を忘れてゆくことにした。
もちろん、始めのうちは悶々ともしてしまうだろう。
だが、そんな悶々とした気持ちも、日々忙しくし、仕事に集中していれば、徐々に消えてゆくはずだ。
桔流は、そう思った。
そう、――思っていた。
しかし――。
(なんで……)
来る日も来る日も、法雨に頼み込み、許される限りの時間を仕事に費やした。
だが、どれだけ忙しくしても、桔流は、花厳の事をまるで忘れることができなかった。
とはいえ、幸い、その花厳に関する葛藤が、仕事に影響を及ぼす事はなかった。
しかし、背丈のある黒髪の客や、クロヒョウ族の客が来店する度に、店の入口を見てしまう――といった事は、度々とあった。
(おかしい。――簡単に忘れられると思ったのに……)
そして、そんな苦心の日々が続き、桔流が悩みに悩んでいた、とある日。
仕事を終えた桔流が、更衣室で着替えをしていると、
「桔流君。この後、ちょっと付き合いなさい」
と、法雨が声をかけた。
“付き合いなさい”、というのは大抵、閉店後の酒の誘いである。
そんな法雨の言葉に、桔流は素直に頷いた。
ここ数日、酷く悩み抜いていた事もあり、その日の桔流も、ちょうど、酒の力に頼りたいところだったのだ。
そのような事もあり、桔流は、それから手早く着替えを済ませると、私服の状態でフロアへと向かった。
すると、フロアのソファ席に法雨が居た。
そんな法雨は、桔流がフロアに出てくるなり手招きをした。
「いらっしゃい」
「はい」
桔流は、それに応じると、法雨のもとへと向かう。
そして、そのまま法雨の隣へと腰かけると、法雨が言った。
「あれから、どう?」
“あれから”――というのは、花厳と気まずい別れ方をしたあの夜から――、という事だろう。
そんな“あの夜”の翌日には、法雨に大いに迷惑をかけた。
だからこそ、法雨には、これ以上、迷惑も心配もかけたくない。
そのような思いから、桔流は、さっぱりとした笑顔を作り、
――もう大丈夫です。
と、言いたかった。
しかし、
「………………」
それは、叶わなかった。
何せ、大丈夫――どころではないからだ。
桔流は、花厳を忘れようと決めた。
そうであるにも関わらず、それからの進展は皆無だ。
そのような状態を、心配をかけたくない法雨に、果たしてどう伝えろと云うのか。
「駄目――みたいね」
「すいません……」
そして、結局心配をさせてしまう結果となった事から、桔流は耳を下げながら謝った。
すると、法雨は桔流の肩に手を添えて言った。
「ヤダ。謝らないでちょうだい。責めてるんじゃないんだから。――それどころか、アナタはむしろ、もうちょっと塞ぎこんだら――ってくらい、仕事もきっちりこなしてる。だから、謝る事なんてひとつもないわ。――でもね、“だからこそ”尋いたのよ」
「え?」
それに、桔流が首を傾げると、法雨は真剣な面持ちで続けた。
「無理してる。――そう、思ったから」
「………………」
そんな法雨に、見事に自分の状況を当てられた桔流は、言葉がなかった。
法雨は、紡ぐ。
「ねぇ。桔流君。――アタシね。今回の事があったからってだけで、こんなに心配してるんじゃないの」
「え? どういう事ですか?」
それに、桔流が首を傾げると、その桔流と向き合うようにして、法雨は言った。
「アナタ。こないだ裏口にいた時。――“あの時”よりも酷い顔してたのよ」
「………………え? そ、そうだったんですか?」
「そうよ」
法雨は、ゆっくりと頷いた。
「――だから、妙に心配なのよ。――ねぇ、桔流君。アナタ。結構前に、“あの事”はもうふっきれたって言ってくれたけど、――“あの時”の事。――本当は、まだ忘れられてないんじゃないの……?」
真っ直ぐに向けられた法雨の双眸に射られ、桔流はその瞳を揺らがせる。
その時。
桔流の前に置かれたグラスの中で、バランスを崩した氷がからんと音を立て、アルコールの海に沈んだ。
桔流は、その音につられ、ふとテーブル上のグラスを見た。
そのグラスには、赤みを帯びた琥珀色の海があった。
その海の色を、桔流は懐かしく感じた。
“あの日”の、“あの時”も――、空は、そんな色をしていた。
かつて、心から想った愛しい人との、最期のひと時を過ごした日の――“あの時”。
それは、桔流が、大学生としての日々を過ごしていた時の事であった――。
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