テラーノベル
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宵の灯屋の扉に、鍵はかかっていなかった。
結がゆっくり扉を開けると、音もなく光が店の中に細く長く忍び込む。カウンターの上の天井から吊るされたスポットライトの灯りだけが灯る店内は、いつもとは違う雰囲気を感じた。
そのとき奥の扉が開いて、そちらを向いた結は、目を瞠り思わず声をあげそうになった。
真っ黒い影が、左右に揺れながらこちらに向かって歩いて来る。下ろした長い髪、幅の太いだぼだぼのジャージのズボンに、よれよれのトレーナーはどちらも灰色で、壁に手をつきよろめきながらこちらに向って来る。
「おばけ? 妖怪?」
結は言ってしまった。
「ヘモグロビン!」
驚いた結が暖人の顔を見ると、暖人は、「ヘモグロビン、ヘモグロビン」と歌うように繰り返している。
「ねえヘモグロビンって、あのヘモグロビンのことかしら? それとも何かのキャラクターの名前だったりするのかしら?」
アニメや漫画のキャラクターに全然詳しくない結が大真面目な顔をして工藤に聞くと、工藤は笑って首を振った。
「暖人さんは、きっとどこかでヘモグロビンという言葉を聞いて、その音の響きが怪獣の名前みたいで、気に入っているのではないでしょうか。うちの孫もそうなんです。テレビから聞こえてくるCMソングやうたい文句はすぐに覚えてしまって、意味などわからなくても楽しそうに口ずさむのです」
小さな声で「ヘモグロビン」と歌うように繰り返して言いながら、手を叩く暖人を目で追う工藤の目尻には皺が増えていく。彼が孫を見るときも、こんな眼差しをしているのだろうか思うとなんだか温かい気持ちになる。
「出たわね、怪獣ヘモグロビン!」
「ヘモグロビン!」
危なっかしい足取りで歩いて来る翠に、結と暖人が口々に言い工藤が笑った。
翠はとろんとした眠たそうな目で三人を順番に見て、結の姿に気づくといつもとは全然違う甲高く甘ったるい声で言った。
「あれれ? ゆいじゃ〜ん。来てくれたの? ねえ一緒に飲もうよ〜」
近づいて来る翠は明らかに酒臭い。
「誰よ、こいつ」
「翠さんです」
毒づく結に真面目に即答する暖人。
二人のやりとりが可笑しくて、工藤は声をあげたいところを堪えて笑っていた。
「翠さんは病気ですか?」
暖人が聞いたので、結は首を振った。
「ただの酔っ払いよ。病気じゃないから大丈夫よ」
結が微笑むと、暖人はやっと安心した様子でキッチンの中へ入って行った。
「ねえねえ。飲もうよ〜」
「うるさいわね。酔っ払いは奥の部屋でおとなしく寝てなさいよ」
奥の部屋へと翠を追いやり、結も部屋に足を踏み入れてまたぎょっと目を瞠った。
「ひどい部屋ね」
床にビールの缶が幾つも転がっている。
「なんでこんなに飲んだの?」
「う〜ん、美味しかったから」
翠はベッドに倒れ込むと、そのまま寝息を立ててしまった。
「なによ、この人」
結は唇を尖らせて呟き、けれどしょうがない人だと思いながら布団を肩までかけてやった。そしてそっと翠の前髪に触れた。
「何がそんなにあなたを悲しませたの?」
瞼が腫れていた。あのフリーライターの言葉に、翠がそこまで傷つくとは思えない。
「代表」
部屋から出て行くと、工藤は手に持っていたものを結に差し出した。
「テーブルの下に落ちていました」
深い森の中に建つ古城が描かれた絵葉書。裏を返すとそこに書かれていた短すぎる文に、結は言葉を失った。
「恭平危篤。あとを頼みます」
葉書の差出人は、恭平と共に旅行に出掛けた彼の妻だろう。細い線で流れるように書かれた大人の綺麗な文字が余計に悲しくなる。
あんなライターに何を言われようが、翠の心は折れたりしない。
けれどこれは…。
翠にとってこれ以上に悲しいことはないだろう。結は奥の部屋に視線を向けた。
「代表。大丈夫ですか?」
工藤の声に振り向いたとき、視界に入った暖人の姿に結は聞いた。
「ところで暖人さんは何をしているの?」
「アル、です」
暖人が斜め上へと視線をあげながら言う。
「アル?」
聞き返す結と工藤の声が揃う。暖人は着ていたチェックのブラウスの上から白いエプロンをつけて、カウンターの中を拭いている。
「アル、バットです」
結と工藤は顔を見合わせた。ふふっと笑ったのは結の方だった。答えがわかって笑ったのではない。暖人との会話は、まるで連想ゲームをしているようで楽しくて笑ったのだ。
「アルバイト! そうですね。暖人さん」
クイズに答えるみたいに、工藤の声が大きくなる。
「お父さんの腰がううってなって、ボールの工場に行けませんから」
夏夫は野球ボールを作る工場を営んでいた。暖人も日頃はそこで働いているのだが、そこへ行くには車で三十分はかかるという。暖人一人では工場へ行くことはできない。
「お仕事しないとご飯食べられません。だから翠さんがここでアルバイトしなって言いました」
ほうきとちり取りを持って来た暖人は、店内を隅々までほうきで掃き、テーブルの上も几帳面に綺麗に拭き、テーブルの上にあった物を一ミリもずれることのなく正確に元の位置に戻した。
暖人は懸命に、そしてとても楽しそうに働いていた。その姿に結は教えられる思いがした。自分は暖人のように懸命に働いているだろうか。日々時間とやるべき業務に追われているだけになっているのではないだろうか。
暖人の仕事が終わるのを待って、結は工藤と共に暖人を家まで送り届けた。
「夏夫さん、だいぶ良くなっているみたいで安心しましたね」
帰りの車の中で、後部座席の結に工藤が話し掛けた。
「本当に大事に至らなくてよかった」
暖人を送り届けると、玄関まで夏夫が出て来てくれた。まだ少し痛みはあるが、日常生活を取り戻しつつあると聞き、結も工藤も安堵した。
「それよりどこに向かっているのですか? ホテルへ戻るならさっきの信号を左では?」
流れていく景色は、すっかり夕闇に包まれていた。この時期の街はどこもイルミネーションの灯りで眩い。
「このまま戻るおつもりですか?」
工藤が言う。
だが、どこに行こうというのだろうか。
角を曲がった先に宵の灯屋が見えるところまで来ていた。店の前で車を止めると、工藤は振り返って後部座席の結に言った。
「もう少し側にいてあげてはどうですか? 連絡をくれれば何時でも迎えに来ますから」
結は小さく笑った。
本当に、まったく。もう。
この人には絶対にかなわない。
工藤に礼を言い、車を見送った結は再び店の扉を開けた。背中で扉が閉まったとき奥の部屋から悲鳴が聞こえてきた。
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コメント
1件
翠さんが酔って甘えた声で「ゆいじゃ〜ん」って言ってるところ、すごく印象的でした…。いつも凛としてる人があ♡♡♡の、何か理由があるんだろうなって思ったら胸がぎゅっとなりました。あと、暖人さんが「ヘモグロビン!」って楽しそうに掃除してるところ、ほっこりしたのに…最後の絵葉書と悲鳴で一気に空気変わって続きが気になりすぎます😭💦