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朝からの雨ならば長ぐつを履いて登校していたところなのだが、家を出る時は大丈夫だったので、岳斗はその日お気に入りのスニーカーを履いて学校へ行っていた。
それがびしょ濡れになって、靴下まで染み込んだ雨水がぐちゅぐちゅと靴の中で不快な感触を伝えてくる。
傘をさしていても意味があるのかないのか分からないなと思いながら、首へぶら下げた家の鍵を服の上からギュッと握ったところで不意に声を掛けられたのだ。
さして大きな声で話しかけられたわけではなかったのに、その声には聴く者の意識を一気にさらうような力があった。
小学四年生の岳斗の学年は、その日講堂に集まって二分の一成人式の式典を保護者らに見せることを参観内容にしていた。だが、岳斗の母親は仕事が忙しくて来られなかったのだ。
『ごめんね、岳斗』
そう言ってギュッと岳斗を抱きしめてきた母に、『大丈夫だよ』と健気に答えた息子へのせめてもの罪滅ぼしだったんだろうか。
その日の朝食は、朝っぱらから岳斗の大好物のハンバーグで……デザートにはプリンまでついていた。
そんなくだらない情報までセットになって、あの日のことはやけに鮮明に覚えている岳斗なのだ。
いきなり名前を呼び掛けてきた声の主を、傘を傾けて胡乱げに見詰めた岳斗へ、男はにこりとも笑わず何の前置きもなくいきなり「私はお前の父親だ」と言って、窓越しに岳斗を手招きした。
(あれ? この人……)
知らない男だと思ったけれど、実際は初対面ではなかった。
二分の一成人式の式典の際、用意された折り畳み椅子へ所狭しと腰かける保護者達の後方。
スーツ姿でただ一人、どこか異質な雰囲気を放ちながら立っていた男がいたのを、岳斗は覚えていた。
遠すぎて顔まではハッキリ見えなかったけれど、岳斗は何故か車内の男を見て、瞬時に(あの時の人だ……)と確信したのだ。
誰のお父さんだろう?と思いながら、お母さんに来てもらえないとき、よそのお家ならお父さんという選択肢もあるんだな?とぼんやり思った岳斗だったけれど、彼が岳斗の父親だとするならば、もしかしてあれは自分のことを見に来ていたのだろうか?
大粒の雨が容赦なく叩きつけてくるなか手渡された小さな紙きれには、子供だった岳斗でも知っているような大企業の名が印字されていた。
その社名の横、ひときわ存在を誇示するみたいに『代表取締役社長 花京院岳史』と書かれたその名刺と、自分によく似た面差しをした男の容姿をまじまじと見比べた岳斗は、名乗られるまでもなく目の前の男は死んだと聞かされてきた自分の父親だと思い知らされた。
だって……。
(そっか。母さんは僕の名前をこの男性の名から一字取ってたんだ……)
日頃女の顔なんて微塵も見せなかった母親の中に、眼前の男への恋着のようなものを感じ取って、やけにゾクリと寒気がしたのを覚えている。
何が原因にせよ、男と別れることを決めたのなら、子に男の名から一字入れるだなんて未練がましいことをしないで欲しかった。
それと同時、
『お母さんね、お父さんにそっくりの岳斗のお顔が大好きなのよ』
そう言ってはしょっちゅう岳斗の頬をスリスリと愛し気に撫でてきた母親の手の感触がまざまざと蘇ってくるようで、岳斗は今まで純粋に自分に対する愛情だと思っていたものが崩れていくのを感じて、思わず傘を握る手にギュッと力を込めた。
ツツツ……と頬を撫でる母親からのソフトタッチを想起させたのは、傘から滴り落ちた雨だれが肌を伝っている感触だった。
(お母さん、僕はこの男性の身代わりですか?)
涙なのか雨なのか分からない水気に濡れた息子の顔を冷めた目でじっと見下ろしながら花京院岳史が事務的な声で淡々と告げる。
『倍相岳斗くん。キミには私の息子として、今日からうちで暮らしてもらう』